三の宿 「逆さの手」 その一
いっそずぶ濡れになった方がと思いたくなるほど不快な湿り気が肌にまとわりついて離れない。傘は降り注ぐ雨を防いではくれるけれど跳ね散る泥水や舞い飛ぶ微細な水滴には何のご利益も期待できず、歩くごとに私たちの髪や服は水気を吸ってゆく。
六月といえば一年で最も日の長い季節だけど、それでも夜はやってくるし、こんな天気だと尚更、闇は深い。
先輩の白い手に握られた懐中電灯が闇夜を照らす。その光に触れた雨水たちが中空に光って、先輩が歩くたびにふらふらと揺れ動く。まるで白い蛇だ。その蛇の這う先に、大きな屋敷の黒い影が見えた。
「あそこですよね?」
「うん」
雨音に遮られながら私たちはそれだけ言葉を交わして、歩を進めた。瓦の乗った高い土壁がぐるりと囲うその屋敷。正面の門にはありがたいことに屋根があった。バスを降りてから初めて傘を下ろして、私たちは一息つく。表札を確認……「坂手」、うん。間違いない。
インターホンのボタンを押すと、数秒後に「はい」とスピーカーから声。
「瞳子ちゃん? 鈴芽です」
「ありがとう! そのまま入って来て」
「分かった」
傘をもう一度さして門を抜ける。雨水の薄く溜まった敷石を踏んで歩いたその先に、玄関の明かりが見えた。扉が開く。
「鈴芽ちゃん! わざわざ本当にありがとう。こっち、早く入って!」
「うん。お邪魔します」
「やっぱ雨すごいね……。はいこれ、タオル。えっと……あなたが真倉さんですね? どうぞ、タオル使ってください」
「ありがとう坂手さん。一晩ご厄介になります」
「いえ、こちらこそすみません! お世話になります。さあ、どうぞ上がってください」
私のクラスメイト坂手瞳子は申し訳なさそうに微笑みながらそう言うと、低い位置で一つに括られた長い髪を揺らして振り返り、広い玄関の先にある明るい立派な客間へと、私たちを案内してくれた。
三の宿 「逆さの手」
鮮やかな緑の畳に、檜の大きなテーブルと濃い紺色の座布団が待っていた。あと、いい香りのするお茶と、薄桃色の和紙で包まれたお茶菓子。はー……まるで老舗旅館みたい。坂手家がこの辺でも指折りの名家だと先輩から聞いてなかったら、圧倒されてたとこだ。
「この部屋、二人で好きに使っていいからね。狭くない?」
「全然。アパートの倍は広いよ」
この客間、部屋の真ん中で障子が開け放たれてて、八畳くらいの部屋が二つ繋がれてるような間取りになってた。つまり十六畳はある。
普段使ってない客間でこの広さって……。
「あはは、無駄に広いからね、この家」
「そうだ、坂手さん。これ、よければどうぞ」
先輩がそう言ってバッグから大きめのタッパーを取り出した。
「えっこれ、角煮ですか? 煮卵も?! うわー、めっちゃ好きです。美味しそう!」
「ああ、お好きなら良かった」
「二人とも晩ご飯はもう?」
「うん、食べてきた」
「じゃあこれは明日の朝にみんなで食べましょうかね。冷蔵庫入れてくるから、お茶飲んで待ってて」
瞳子ちゃんはそう言ってぱたぱたと部屋を出て行った。
「明るい、いい子だね」
「でしょー? おかげで、ぼっちにならなくてホント助かってるんです」
***
「……鈴芽ちゃん突然ごめん! 今晩泊りに来てもらえない?」
専門学校の教室で坂手瞳子ちゃんにそう声をかけられたのは今朝の話だった。
手に職つけようと深く考えずに、実家の建築事務所が手伝えればなってくらいの気持ちで入ったCADとか教えてくれるこの学校には、同学年の女子とかは殆どいない。そのせいでと言うべきか、お蔭様でというべきか、彼女とはそれなりに親密な間柄になれていた。
ただ、それにしても確かに突然のお願い事で、私も面食らってしまって、
「何かあったの?」
と、そう聞かざるを得ない。
瞳子ちゃんの家は五日宿の私のアパートからはあまり遠くない集落の中にあるって聞いてたから、学校終わった後で楽に行けるはず。それに私は元々、友達の家に泊めてもらうとかっていうイベントは好きな方だし、二つ返事でOKしても良かったのだけれど。
「九州の親戚に不幸があって、私以外の家族が明日までいないんだ。昨日から独りで家にいたんだけど、思ってたより心細くってさ……」
なるほど。確か歳の離れた弟くんがいるって聞いてたけど、まだ就学前の子だから瞳子ちゃんが独り家に残されたと、そういうことかな。
「それに……何かね、家の中で変な音がしてる気がして」
「音? ネズミか何か?」
「んー。多分違う。うち、ネズミが出たことってないんだ」
何でだか分かんないけど、と瞳子ちゃんは少し困ったような顔で続けた。あ、それなら……もしかして……。
「えっと、つまりその……お化け的な話?」
「あー……うーん……はっきりそうだってワケじゃないんだけどね」
断言を避けた返答だけど、要するにそういうことのようだった。
……どうしよう。
普通の女子同士の会話なら「分かった、心細いときってそんな音聴こえたりするよね」とか何とか言って、あとは親密度に応じて泊りに行くか否かを答えればいい、みたいなシチュエーションだと思った。けど、
私は見てる。知ってる。
この五日宿に、「そういうこと」が本当にあるのを。
「ごめん」
とっさに私はそう答えた。
あ、いやいや違うよ! と次の瞬間察して慌てて。目の前の瞳子ちゃんの表情をこれ以上曇らせたくないと思って、アドリブで、私は、
「あのさ! そういうの私、すごい苦手……なんだけど。逆にすっごく得意な人が、私のアパートの隣の部屋にね……」
と、続けてしまったのだ。
***
「……先輩が快諾してくれたんで、助かりました」
「気にしなくていいよ。むしろ私の方こそ……」
「え?」
「いや、何でもない」
ぱたぱたと瞳子ちゃんの足音が戻ってきて、私たちは会話を切り上げる。何だろう、ちょっと先輩の様子に違和感みたいなのがある気がする。
でもそんなことを今、突っ込んで聞くのも変な話だ。私はとりあえず、目の前のお茶を口にする。うわ、これ美味しい。
「ただいまー。あ、どう? そのお茶」
襖を開けて部屋に入りながら、瞳子ちゃんが言う。
「うん、すっごい美味しい」
「新茶ですね。いい香りだ」
先輩はいつの間にか、瞳子ちゃんの分のお茶を注いで用意していた。おお……流石だ。
「あ、ありがとうございます! すみません真倉さん。急にこんな変なお願いしちゃって……」
「いえそんな。こちらこそ、鈴芽がいつもお世話になってます。ありがとう」
そう言って軽くはにかむ先輩。わー、可愛い!
「鈴芽ちゃんが言ってた通りですね、真倉さん。私たちと一つしか違わないのに、すごいしっかりされてる」
「うんうん」私は相槌を打つ。
「いえ、そうでもないですよ。友達の友達の家にお呼ばれなんて初めてのことで、緊張してます」
照れたように謙遜する笑顔も素敵です先輩。
しかも、背筋をすっと伸ばした正座の姿勢が相変わらず超綺麗。立ってるときにはあんなに小さくて可愛いのに、座るとすごく大人っぽく見える。そんな風に私が見とれてると、
「学校での鈴芽はどうですか? 真面目にやってますか?」
不意に、先輩から唐突な質問。え?
「えーと……そうですね、ちょっと注意力が散漫な様子でして……」
瞳子ちゃんは神妙にそう返す。え? え?
「ああやっぱり。アパートでも色々とうっかりが多くてね。どうかよろしくお願いします」
「いえいえ、いつも楽しませてもらってます。こちらこそ今後とも、よろしくお願いしますね」
「えええええ……」
あははははと、声を揃えて笑う先輩と瞳子ちゃん。何なに? これって私の家庭訪問?!
「ご、ごめん鈴芽ちゃん。いやー、ほんといい先輩だね! 羨ましいよ!」
瞳子ちゃんはお腹を抱えて、笑いながらそう言った。先輩は笑顔のまま、綺麗な所作でお茶を口に運んでる。
私はそこでやっと、自分が会話のダシにされたってことに理解が追いつく。あー、やられたー!
……うーん。でも、まあいいかな。二人が打ち解けたなら。
「じゃあ、私もよろしくお願いしまーす。坂手先生! 真倉先輩!」
深々とお辞儀。それから顔を上げて、私も笑う。
「え、私が先生?」
「だって先輩は先輩だし!」
「あー、でも真倉さんは先輩っていうより、なんかもうお母さんみたいだよ」
「そうかな? 私はむしろ妹か娘では?」
「自虐ネタ止めてください先輩!!」
「「「あはははは!」」」
外では夜の雨が降り続いてたけど、この大きなお屋敷の客間にはお茶の良い香りと、私たちの笑い声とが、いつの間にやら満ちていたのだった。
***
「スズ、起きて」
「……え?」
目を開けると先輩の顔が近くてどきりとする。見慣れない天井と、見事な木彫りの欄間。ああ、そうだった。ここ、瞳子ちゃんの家だっけ。
お茶をしながらの会話が思いの外すごく弾んで、日を跨ぎそうになった頃にようやく私たちはお風呂をいただいた。それからこの客間にお布団を引かせてもらって、横になった。そこまでは覚えてる。
「どうかしたんですか……?」
「音がする」
「……!」
静かに、でも確かに先輩はそう言った。「音」と。つまりそれは瞳子ちゃんが言ってた音のことのはずで。
「聴こえるかい?」
「……いいえ」
私の耳には外で屋根を打つ雨音と、先輩と私、二人分の吐息の音くらいしか聴こえない。
先輩は黙って部屋の隅の天井を指さした。……二階?
「坂手さんは二階で寝ていて、音は下から聴こえる気がすると言っていたよね。そして私の耳には、何かの音があの上の方から感じられる」
「つまり……一階と二階の間ってことですか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。ただ、やっぱり私たちは客間で寝かせてもらって正解だったようだ」
そう言いながら先輩はすっと立ち上がった。
「ちょっと見てくるよ」
「見てくる?」
「うん、音の正体が何なのかを」
「!……大丈夫なんですか?!」
「そうだね。案内されてもいない部屋に勝手に入るのは申し訳ないけれど、坂手さんを起こすのも悪いし」
「いえ、そういうことじゃなくて…………危険じゃ……ないんですか?」
「どうだろうね」
先輩は、冗談には聴こえない声音で、
「見てもいないのにどんな危険だかはっきり分かるようなものはね、そもそも危険だなんて言わないんだよ」
と続けた。