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二の宿「五日宿」 その四

 私たちは竹藪の「神殿」を抜けて、その先に続く山道を登っていた。藪を抜けた先は開けていて、良く晴れた五月の空が広がっていた。肌を軽く撫ぜてゆく風。眼下に広がる全てのものを照らしてゆく、白い太陽。


 遅めの朝ご飯を食べた後、私が先輩に「これからのことを考えます」と伝えたら、先輩は「少しだけ、山歩きに付き合ってもらえるかい?」と言った。私は「はい」と答えて、先輩に言われるまま、お風呂を済ませてから、厚手のシャツとズボン、帽子、できるだけ歩きやすい靴、それに飲み物と甘いものとを少し入れたカバンとを準備して、先輩の後に続いた。


 けっこう暑い。春がもう終わっていきなり夏になったみたい。

 最初はそうでもなかったけど、登っていくにつれて足が重くなっていくように感じた。


「無理しないで、少し休もうか」

「はい……すみません。……先輩すごいですね」

「ん?」

「体力くらいは、私の方があるかなって思ってたんですが……」

「慣れてるだけだよ」


 木陰にちょうど座りやすそうな岩があったので、私達は並んで座った。もしかして、こんな風に座れるように、あらかじめ誰かが整えてくれてた場所なのかなって思いながら。


「聞かないんだね」

「え?」

「何で急に山歩きなのかって」

 先輩は空を見上げていた。

「あー……そう言われれば、そうですね。……何でですか?」

「…………ぷっ……あははは……」

「え? あれ? 私また変なこと言っちゃいました?」

「……ううん。あははっ……いや、変わってるなぁ……スズは」

「そうですか?」


 先輩は私の反応がよっぽどツボだったのか、珍しく声を出して笑っていた。

 なんの遠慮も警戒も緊張もない、子どもみたいな笑顔。

 私もつられて笑う。それから聞いた。自然に、世間話みたいに。


「先輩は、見たことがあるんですか?」

「……ん……ああ……」

 笑うのをやめた先輩は、でも笑顔の面影を少し残した顔でこっちを見て、

「あるよ」

と言った。



 ***



「歩きながら話そうか」

 お互いひと口ずつ飲み物を飲んで、額の汗が引いた頃に先輩はそう言って立ち上がった。私も立って、後についてゆく。


「私が知ってることを教えよう。もし怖がらせたらすまないけど、手品師の話と同じ、嘘だと思いながらでも、聞いてもらえるかな」

 すぐ後ろを歩く私にはっきり聴こえるくらいの声で、先輩は言葉を続けた。もし何も知らない人が意味を考えずに声だけ聴いたなら、やっぱり学校の授業かなって思うような口調で。


「……あの家は『宿りの家』と呼ばれている。無人の廃屋だ。建築様式的にはこの集落にも他にまだ幾らかは残ってるタイプで、古いものだが、いつからあるものなのかまでは誰も知らないらしい。所有者も不明で、立地や費用の関係もあるのか、取り壊されもしない。

 そして、あの家に近づいた人間は、何人かに一人、とても恐ろしい目に遭うという。だからこの周辺の人間は、誰もあそこには近づかないし、近づけないようにしている。繰り返すが、恐ろしい目に遭うのは全員じゃない。だからそれを見た者が、その後どうなってしまうかまでははっきり分かっていない。中にまで入ったけど全く無事だった人もいるそうだから、その点は安心材料にもなるだろう」


 先輩はそこで言葉を切った。山道が少し急な下りになっている。

 何も言わずに先輩は振り返って、手をこっちに差しだした。私はそれを握る。

 足元が滑らないように注意しながら、二人でゆっくりとそこを降りた。その先は狭い窪地になっていて、降りて来た道とちょうど反対側に、また登る道が階段状に造られてあった。


「あともう少しだよ。大丈夫かい?」

「はい」

 それだけ言い合って、私達はまた手を放して、歩き出した。


「山歩きを提案したのは、この話がしたかったからだ。はっきり言おう。私は古くからの民間伝承でこの五日宿に伝わるそれら『何か』が、超自然的な……いわゆる心霊の類だと確信している。つまり、あの『宿りの家』で君が視たものは……世間一般の言葉で言えば、悪霊と呼ばれるものだと、私は信じている」

「……」

「スズは、どう思う?」

「信じます」

「え……?」


 わたしが即答すると、先輩は足を止めて振り返った。

「ちょっと待って、そんなに簡単に信じていいの?」

「はい」

 先輩は念を押すけど、私の答えは決まっていて、変わらない。

「だって、先輩は信じてるんですよね? それは、嘘じゃないんですよね?」

「うん」

「なら、私も信じます」

「……分かった」


 先輩は納得して、もう一度登り始めた。

 私の足、特に右足は重くて、そろそろ限界が近い。でも木と岩で造られた階段はもうすぐ終わる。なら、大丈夫。

 登った先には何があるんだろう。


 ……あ、そういえば。


 不意に全然関係ない事が、私の頭に浮かんだ。さっき、私はまた、先輩の手を握ったんだった。

 それは、冷たくなかったように思う。

 それとも、冷たかったかな?

 先輩の手は、山歩きのせいで温かくなってた? それとも私が、先輩の手の冷たさに慣れちゃっただけだろうか?


「着いたよ。ここが頂上だ」

 先輩が言った。

「うわあ……」


 空が広がっていた。そこには小さい雲がいくつか流れていて、風に流されて太陽を見せたり隠したりしている。登り切った直後はちょうど、この頂上は雲の影に隠れていたみたいで、おかげで少し涼しいと感じた。

 頂上はそんなに広くなくて、周囲は錆びた柵で囲まれていた。近くの柵に寄って下を眺めると、大家さんの家と、その向かいに私達のアパートが見える。


「スズ、こっちまでおいで」

 先輩が呼んでくれた。

「はい…………これは?」


 視線の先に、木の柱と土の壁と、瓦ぶきの屋根とでできた小さな家みたいなものがあった。

「これは祠。似たようなものを見たことは?」

「……あります。けど見たことあるだけで、何のためのものかとかは、全然」

「これはね、要するに神様を祀った小さな社殿だ。大体は家の神様だったり、土地の神様なんかが祀られている。そういう神は一般的には屋敷神と呼ばれているけど、この地方ではミチガミと呼ばれている。名前の通りで、道の神様だね」

「道に、神様ですか?」

「この辺りは地盤もあまり良くないし、昔から動物が多かったりして、夜は道を通るのも一苦労だったらしいからね。何事もなく安全に通れるようにという願掛けとしてそういう名前で呼ばれていたんだろう。

 そしてこの祠には、この辺り一帯の土地を守っている神様が祀られている」


 ……まあ、今ではこんなところには誰も来ないけど、と小さく苦笑しながら、先輩は祠の前にしゃがみこんだ。私もその横に並んでしゃがむ。


「スズはどう思う?」

 先輩は問う。普段の私なら、それだけ問われても何のことか分からず、首をかしげるだろう。だけど。

「分かる気が、します」

「……そうだね。私もだ」

 先輩はそれだけ言うと手を合わせて、眼を閉じた。それから眼を開けて、

「……こうやって手を合わせるのにも本来、作法が色々あるけれど、五日宿は神仏習合が進んだ土地だから、ここも仏教の合掌と同じでいい。

 何より大事なのは、自分や、自分たちの住む場所への感謝だ。君もやってごらん」

「はい」

  感謝……か。確かにそうだ。土地っていうのは本来、誰のものでもないはず。誰もがそれを使わせてもらって生きてる。……なら。

 言われた通りに、見た通りに、私は手を合わせて、眼を閉じた。

 それから心の中で想った。祈りよりも、願いよりも先に。


(「はじめまして、横沢鈴芽です。この土地に越してきました。この土地を守ってくださってるんですね。ありがとうございます。よろしくお願いします」)


 と。


 それは何でもない、越してきた隣人への挨拶や感謝と何も変わらない言葉だなと、一瞬後で思った。だけど自然に出てきた想いだったから、それでいいんじゃないかな。そう思いながら私は目を開けた。


「……あれ?」

 私は立ち上がってみる。右足が……さっきより軽い?

「どうかな。右足の違和感は」

「……知ってたんですか?」

「うん。視えてたから」

「視えてた……?」

「ほんの微かにだけど、お神酒を飲んで清めが済んだ後も残ってたんだ。ここなら祓ってもらえるかと思って来たけど、正解だったようだ」


 先輩は少しだけ申し訳なさそうにそう言って、祠の傍の草の上に腰を下ろした。私もそうさせてもらって、足を伸ばす。妙な重さは、もう感じない。


「さっき、君は私に『見たことがあるか』と聞いたね。あるよと私は答えたけど、もう少し正確に言うと、私は『視える』んだ」

「……霊感があるってことですか?」

「どうだろう。……霊感っていうものがどういうものか、私にはよく分らない。ただ、どうも私が見ている世界と、私以外の人……多分、君も含めて……が見ている世界には少しズレがある。と言った方が近いかもしれない。君には見えていない『何か』が、視えることがあるんだ」

「どんな風にですか?」

「例えば、さっきまで君の右足には白い泥のようなものが纏わりついていた。それが、今はもう視えない」

「……っ」

 そう言われて私は少しぞっとした。思わず右足に手をやるけど、勿論そこには何もない。


「もう心配はないよ。君とこの土地の神様とは、これで縁ができたからね」

 先輩は静かにそう言った。

「縁?」

「そう、縁だよ。君と私に縁ができたとの同じように。それは、最初は細くて弱い縁だけど、付き合いを続けていけば太くて強い縁になってゆく」

 先輩はそこで一度言葉を切って、

「もちろん、縁ができたからといって、それに拘り続けることを誰も強要はしない。感謝の言葉だけ残して、この土地を去るのも自由だ」

「いいえ、去りません」

「……君は……怖くないのかい?」

 即答する私に、先輩は笑顔じゃなくて、心配そうな眼差しを向ける。

「そりゃ、怖いですけど……」

 弁解するように私は言う。

「でも、先輩が……」

「私は頼れない。だって私にはね、何の力もないんだよ」

「え……?」

「さっき、『視える』とは言ったよね。でも……私にはそれ以上の特別な力はない。『悪いもの』たちがもしミチガミ様の力も及ばない場所で襲ってきたりしたなら、ひとたまりもないだろう」

「じゃあ……」

「うん。だから正直な話……君はこの土地を……」

「違います!」


 私は手を顔の前に挙げて、先輩の言葉を止める。

「私、やっぱり出ていきません。だって、先輩も同じじゃないですか!」

「……同じ?」

「先輩に特別な力がないんなら、私と同じってことでしょ? 視えるか、視えないかってだけで。なのに先輩はここで一年も、独りで生活してきたんでしょ?」


 言いながら、ああ、私は今になってやっと思い知った。こんな小さな背の、ひとつしか歳の違わない人が、何で、何でこんなに大人びていて、それでいて儚げに見えるのかが。


「先輩と一緒に、この土地にいさせてください……お願いします!」

 私はそう言って頭を下げた。

 外れた視線。見えないでいる先輩の表情。

「……分かったよ。こちらこそ、よろしく」

 そう答える声だけを聞いて、

 私は頭を上げて、先輩の瞳を見た。


 その黒い瞳は優しい光を浮かべているように見えた。

 初めて会った日と同じように。



 ***



「この五日宿には、他にもこういった忘れられた祠が沢山ある。

 今度もし見つけたら今と同じように拝んでみるといい。そうすれば、神様との縁もより親密なものになるだろうと思う」

「分かりました」


 持ってきた甘いものを祠の神様にお供えして、私たちはもう一度手を合わせた。

「先輩」

「何?」

「先輩はもしかして、神様も見えてるんですか?」

 目をつむったまま、私はたずねた。

「さあ、どうかな」

 先輩は自信なさそうな感じにそう答えるけれど、目を閉じている私には、その返答の細かいニュアンスまでは分からない。


 目を開けて、顔を上げる。

 日が少し傾いて、祠と私たちとを西日が照らしていた。そのせいだろうか。

 目の前の祠が、最初に見たときよりも少しだけ、綺麗になったように見えた。


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