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二の宿「五日宿」 その三


「…………いるのかい?」

「…………!!!」


 女の声がした。ほんの微かな。

 それはあの声。あの笑い声を思い出させて、一瞬で私の全身が縮む。


 がた……


 がたがたがたがた……


 止めなきゃいけないのに、震えが止まらない。



「起きてるのかい?……いるんだろ?……スズ」



……………あ……。



 その声は私を「スズ」と呼んだ。


 それはあの人の声だ。あの人が。

 最初、私のことを「横沢さん」と呼んで、「鈴芽さん」と呼び直してくれて。それが「鈴芽」って呼び捨てになって……。



『先輩……多分私、先輩がいなかったらここで生活できてませんでしたよー……』

『そんなことはないだろ。あんまりね、適当なこと言うんもんじゃないよ。スズ』



 苦笑いしながらそう呼んでくれた声。嬉しかった。その声。


「せん……ぱい……」

「大丈夫か? 入ってもいいかい?」

「…………はい……」


 掠れそうになる声で、私はそう答えた。引戸の向こう、私を呼んでくれた声が、きっと先輩のものでありますようにと祈るように願いながら。


「失礼するよ。大丈夫かい? スズ」


 白い顔の女の人が、私を見下ろしてそう言った。漏れ入ってくる月明りだけでもはっきりと分かる、きれいな黒髪の、可愛い、小学生みたいな丸い大きな、黒い目の女の人が。


 電灯の紐を引いて、部屋を明るくしてくれて、それから床に腰を下ろして、真倉先輩は私の顔を心配そうに見つめて、


「もう心配ないよ」

 と、言ってくれたのだった。



 ***



「……なんで……ここに?」

 真っ先に浮かんだ言葉を私は口にする。

「え?」

「今日は帰らないんじゃ……なかったんですか?」

 黒い髪の間から覗く耳が私の口元に近づいて来たから、私はそこに呟いた。だって、こんなの出来過ぎてるから。

 私の呟きが自分への質問だったということをやっと理解した先輩は、今度は耳じゃなく口を私の方へ向けて

「そうも言ってられないだろう。あんな風に言われたら」と、言った。

「え……?」

「ん? 覚えてないのか?」


 覚えてない……? 何を……?



 ***



『ごめんなさい、せん……ぱい。裏手の……奥の家に』

『裏手? ……行ったのか?! 今もそこに?!』

『いえ……かえってます。けど……おいかけて……きたから……にげて』

『帰ってる? 今、アパートなんだね?』

『はい……ごめんなさい……ゆるし…………たすけ……』

『…………! いいから。部屋の中で待ちなさい。すぐ戻る。そこから動かないで。いいね?』

『……はい………』



 ***



 そう説明されて、私は手元の携帯の履歴を見た。確かに、私の携帯から先輩の携帯へ、一時間ちょっと前に一分ほど通話した履歴が残っていた。そんな記憶はなかったけれども。

 でも、そう言えばこの携帯は、気づいたら私の腕の下にあったんだった。そう伝えると先輩は、

「多分、失神から目覚めて、朦朧(もうろう)とした意識の中で電話をかけた後、携帯を落としてそのまま、また倒れたんだろう」

 と、推察してくれた。なるほど……。


「何にしても、呼んでもらえたおかげで帰って来れたんだ。とりあえず、無事でいてくれて良かった」

 笑顔でひと息つくと、先輩は私を楽な姿勢で座らせて、

「簡単でいい。何があって、何を見たのかだけ、言える範囲で教えてもらえるかい?」

 と言った。


 ……ああ、そうだ。

 言わなくちゃ。

 思い出すのも怖いし、言いつけを守れなかったことも胸が痛むけれど。だからこそ余計に、先輩にはちゃんと伝えないと……いけない。


 私は、順を追って説明した。携帯を忘れて、取りに行って……。

 ……先輩みたいに見えた後ろ姿……フェンスを越えた先の雑木林……そして朽ちた民家と………あの…………。


「……それが……ずっと……ずっと……私は……夢中で逃げ……て」


「分かった、もういいから。ちょっと待ってて。すぐ戻る」

 私が言葉を続けられなくなると、先輩は立ち上がって、部屋を出て、言葉通りすぐに戻ってきてくれた。


「コンロ、借りるよ」

 何か鍋に入れて、火にかけて、温まったその何かを、カップに注いで先輩は持ってくる。

 

「さあ、これ持って。熱くないと思うけど、気を付けて」

「ありが……とうございます」


 ホットミルクか何かかと思ったけど、違った。この匂いは……。


「お酒……?」

「お神酒だ。燗にして温めてあるけど、アルコールは完全には飛ばしてない。ゆっくり飲んで。温まるから」

「はい……」

 

 ひと口、含んだ。苦い。苦手な味だ。

 すごくきつい。それに……

「うっ……」

 頑張って飲み込んだとたん、お腹の中から何かが込み上げて来た。だめだ……吐きそう。

「大丈夫、これに吐いて」

 先輩は洗面器を用意してくれていた。私は我慢できず、それに吐く。夕食を食べてなかった私は、飲んだばかりのお神酒と胃液だけを吐いた。そのはず。なのにその「吐き出したもの」は、どことなく白く、灰色がかったカタマリのように見えた。

 うわ……気持ちわるい……。


 でも、吐いた分、なんだか少し楽になった気が、しないでもない。少し休んで、まだ温かいお神酒を口に含む。でも、それも上手に飲み込みきれない。たまらずに私はまた、洗面器に顔を向ける。


「ご……ごめんなさ……えほっ……」

「いいんだ。お神酒なんだから。身体を温めることと、清めることができれば、吐いてしまって構わない」


 先輩が手で、背中をさすってくれた。

 服越しでも分かるくらい、その手はやっぱり、冷たかった。


 でも、違う。

 同じように冷たい手でも、あのとき私の足を掴もうとしたそれと、先輩の手とは、全然、違って思えた。


「これ……お清めなんですか?」

 カップのお酒が全部なくなった頃に、私がそうたずねると、

「そうだな。そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。……どっちがいいだろうな」

 と、独り言みたいに先輩は言った。

 私はその言葉に何か返そうとしたけれど、元々重かった頭がぼーっとしてきて、何も言葉が浮かばない。ただ身体の、特に足にのしかかっていた妙な重だるさは、いつのまにか弱くなってきていた。


「楽になったなら良かった。じゃあ横になって、眠れそうなら少し眠るといい」


 私が飲んだり吐いたりしてた間に、先輩は押し入れから布団を出してくれていた。先輩に手を借りて、私はそこへ横になる。


「せんぱい……」

「何?」

「何から何まで、すみません。あと一つだけ、お願いしていいですか?」

「いいよ。何?」

「……怖いんです。まだ。その……」

「……ああ、分かった。今晩はここにずっといるよ。自分の布団を持ってくるから、少しだけ待っててくれるかい?」

「はい……ありがとうございます」

「気にしなくていいから。横になってて」


 私の言うことがあらかじめ全部分かってたみたいに、先輩は迷いなく、私のお願いを聞いてくれる。嬉しいし、ありがたいし……何より、申し訳なかった。


 布団を敷き終えた先輩は部屋の明かりを小さくして、普段着のままで横になった。

「お風呂も着替えも、朝でいいだろうから、今はお休み」と言って。


「はい。ありがとうございます。……お休みなさい」

私はそう言って目を閉じるけれど、


……眠れない。


 身体が少し楽になった分、眠気が遠くなったんだろうか? それに、

 目を閉じると浮かんでくる気がして。

 また、見えてくる気がして。


 あの家。ううん。まるで「家の死体」みたいだった。あの廃屋。そして、その奥に見えた……


「眠れないのかい?」

 先輩の声。

「はい」と、私は素直に白状する。


「なら少し、話でもしようか。よければ、朝まででも」

 先輩がそう言ってくれたので、私は目を開ける。きれいな小さな顔と、黒くて丸い瞳が、こっちを優しく見つめてくれていた。


「そうだな。何を話そうか」

 先輩は考え込んでいる。話すことがすぐには浮かばないんだろうか。それとも、何から話すか迷ってるんだろうか。分からないけど私は、先輩が話してくれるんならなんでもいいやって気になって、普通に前から聞きたかったことを聞いてみようと思った。


「先輩、何のバイトしてるんですか?」

「秘密だ」

「え」

 即答されて私は怯む。何だろう。そんなに切実ってわけでもなさそうだけど、有無を言わさない雰囲気を感じる……。


「悪いがこれだけは、今は秘密にさせてほしい」

「あ、はい。分かりました」

「ただ、バイト先自体はそんなに離れた場所じゃない。車で数十分あれば行ける程度の所だ」

「えっ……じゃあ、今日はどうやって戻ってきたんですか? バスとかもう、ない時間ですよね?」

「ああ、だからタクシーを呼んだんだ。バイト先から、下の国道までね」


 何でもないことのように先輩はそう答えるけど、私は驚いた。普段、食費さえ切り詰める先輩。なのに私が呼んだからって……。

「……わざわざ、本当にすみません。あの……タクシー代は……」

「いいからいいから。そんなことは気にしないで」


 もし返してくれるにしても、いつでもいいよと先輩は言った。私は何だか、涙が出そうだ。

 どうして先輩は、会ってまだ日の浅い私にこんな、優しくしてくれるんだろう。「裏手に入るな」っていう言いつけを破ったのは私なのに。

 そう聞きたかったけど、聞けなかった。言葉でそんなことを今聞いたら、多分私は泣いてしまいそうだったから。


 そんな私の気持ちに気づいてか気づかないでか、先輩は話題をくるりと変える。

「そうだ。さっき話したよね。あの神酒はお清めとも言えるし、そうでないとも言える……だったかな」

「あ、はい」


「ちょっとだけ難しい話をしようか。

 それで眠くなってくれたら、寝てしまっていいから」

 と、優しく笑いながら先輩は言葉を続けた。


「君が今日、いや、日付的にはもう昨日だね。あそこで遭ったこと、見たものについて、私はある程度調べてあって、意見も述べることができるだろうと思う。だけど、その正誤の判断や、何が真実かということまでは断言できない。絶対にね」


 先輩はそこで言葉を切って、

「何故だか分かるかい?」

 と、質問を振ってきた。


「えっと……それだけ難しい問題だってことですか?」

「うん。それも否定はしないよ。だけどもし、とても簡単な問題だったとしても、同じことなんだ。なら今度は、ちょっと例え話をするよ」

 先輩は顔の向きを天井の方に変える。


「実は、あの廃屋にはタチの悪い手品師が住んでるんだ」

「……え?」

「妙な仕掛けで人を誘って、古典的な手品で人を驚かせて喜んでる、悪質な(やから)だ」

「それは……」

「もちろん、嘘だよ。でも、本当にそうじゃないとは言い切れないんじゃないかな。誰にも。どんなに調べたとしても。だって、その手品師はとても巧妙に、他人がどれだけ調べても絶対分からないトリックを仕掛けて、証拠も残さずにすぐ撤去してるかもしれない。誰も、その可能性を否定し切れないだろう?」

 ゆっくりと言葉を選びながら、丁寧に説明する先輩。まるで、講義をする何かの先生みたいだと私は思った。


「それを踏まえて、最初の話に戻すよ。熱燗にしたあのお神酒は、お清めだったのかどうか。

 お清めというのは宗教的、心霊的な意味を持つよね。超自然的な何か『悪いもの』を祓うための行為だ。さっきまでの君の恐慌状態が、お神酒によって清められたとしたなら、そういう『悪いもの』が実際にいて、それを祓えたという解釈が成立する。

 だけどもし、さっきの手品師の例のように、超自然的でない原因のせいで君がショックを受けて、恐慌状態に陥っていたとしたら? ……うん。でもお神酒は効いた。少量のアルコールが血の巡りを良くして、体を温めた。いわゆる気付け薬として機能を果たしたわけだ。

 私はね、大事なのはそういったことだと思ってるんだ。

 『何が本当の原因か?』じゃない。

 『何が君の助けになるのか?』、

 『何が誰かの、恐ろしい想いを少しでも癒すことができるのか?』だ。

 伝承の真実を突き止めるっていうのは、そのための手段に過ぎないんだよ。少なくとも、今の私にとっては」


 先輩はそこで一旦言葉を切って、顔の向きをまたこちらに向けた。


「一つだけ正直なことを言うよ。

 この五日宿には、何か『悪いもの』がいる」


 そう告げた先輩の瞳が、言葉とは別に、こちらに何かを伝えようとしているように見えた。ううん、もしかしたら違うかもしれない。こちらから何かを受け取ろうとしてるようにも、思えた。


「君と出会った最初の日に、出て行くなら早くすべきだと言った本当の理由は、それだったんだ。

 君が本当にそういった「悪いもの」に遭遇するかどうかは分からなかったし、可能性は低いと思っていたけど。……すまない。私の見立ては甘かった。

 君はもう、『何か』と出逢ってしまった。

 だから君はこれから、この土地とどう向き合うか、あるいは出て行くかを決めなければいけないだろう。


 でもね。


 まずは安心して欲しいんだ。君に。

 冷静に判断してもらうためにもね。

 だから今は、不安をあおるような事実も、過剰に楽観させるような嘘も、そんなには言えない。


 ただ、安心して。

 少なくとも、今は。

 君に何か、恐ろしいものが迫ってきたとしても、

 今なら、私も一緒にいる。

 こんな頼りにならない私だけど、それでも、ただ、君と不安を分かち合うことだけはできるかもしれない。

 だから……」


 やさしくて、澄んだ、でも少しだけ不安からの震えが隠せない音。

 先輩の声が、私にはそんな風に聴こえた。

 すごく落ち着いた声なのに。何故だか、小さな子どもの泣き声みたいに。


 なぜだろう。

 遠い遠い昔に、私はどこかでこんな声を聴いたような気がする。

 思い出せないけれど。


 そして、そんな震えの混じった声だからか、余計に私は、なんでだか、

 安心できた。

 やさしく、やわらかい音だと、感じられた。


 私は、その声の柔らかさがあんまり心地よくて、

 身体から余計な力が全部抜けていくのを感じて、

 いつの間にか、瞼を開けている力も抜いて、眼を閉じていた。


 そして声だけを聴いた。眠りへと落ちながら。

 先輩の声だけを。


「……だから、お願いだから、

 安心して。

 君に何か……恐ろしいものが迫ってきたとしても、


 私が君を……守るから…………」



 ***



 部屋に朝の光が差し込んでいるのを感じて、私は目を開けた。


 あどけない、無防備な寝顔が、私の目の前にあった。

 あんなに冷静で、あんなに安心させてくれた、ひとつ年上の女の人の寝顔。

 くーくーと、規則的な寝息を立てながら、気持ち良さそうに眠っている。

 きっと私が寝入るのを見届けるまでは起きてたんだろう。ごめんなさい。ありがとうございます、先輩……。


 私は手足に力を込める。あ、軽い。これなら……立てる。

 できるだけ音を立てないように立ち上がると、静かに冷蔵庫を開けて、目的のものを探す。あった。昨日食べ損ねた、先輩と下ごしらえしたナスと、冷やご飯が少々。これとあと、お味噌汁かな。今日が土曜日でよかった。


 先輩が目を覚ましたら、一緒にご飯を食べよう。

 それから、考えよう。


 昨日、あの廃屋で見た「何か」や、

 この五日宿と、

 これから先、どう向き合っていけばいいのかを。


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