二の宿「五日宿」 その二
「え……っ?」
考えていた通りの場所で携帯を拾い上げて、ポケットへと入れた瞬間に、それは聴こえた。
かしゃん
と、フェンスに何かがぶつかったような音。
何かいる?! 反射的に私はその音の方を見た。止せばいいのに。
そこにもし、何か恐ろしいものが見えたなら、私は一も二もなく逃げ出しただろう。
そこにもし、何も見えなかったとしても、やっぱり私は逃げ出しただろう。
でも、そのどちらでもなかった。
「……先輩?」
見えたのは後姿だった。バイトで今日は帰らないと言っていた、先輩の。
いや……違う。似てるけど、きっと違う。小さな女の子のような後姿。
えっでも、あれは先輩だ。黒い綺麗な、日本人形みたいな髪と、小学生みたいに小さい背なのに、すっと歩く落ち着いた所作。そうとしか思えない。
私はその後姿に引き寄せられるように、フェンスの方へ近づいて、
「先輩? 先輩ですか?」
と呼びかけた。でも返事はなく、その小さな後姿は歩を進めて、遠ざかっていく。
聴こえてないとは思えない。でも、何も答えなかった。なら……。
私はフェンスに手をかけた。フェンスは道を塞いでると思ってたけど、実際には立木に針金で固定してあるだけで、木の隙間を通れば抜けられる。一瞬迷った。これ、抜けて行ってもいいんだろうか? 勿論それはダメなはずで、でも視線の先にあの……え……?
後姿の歩みが止まった。それは一瞬、こっちに向きを変えて、手を振った、ように見えた。
『こっちに来て』?
それとも、
『こっちに来てはいけない』?
どちらとも取れるような手振りを最後に、後姿は見えなくなった。日が暮れて、木に囲まれた山道が急に暗くなったからだ。
「待って……」
私は何故だかそう言った。言われたのは私なのに。「入って行ってはいけない」と。
なのに私は『先輩を止めなきゃ』と思って、木々の間を抜けてフェンスの向こう、山道へと入ってしまった。
見失っちゃいけない。そんな意識だけが頭にあって、恐怖だとか罪悪感だとかは、片隅にすら置かれてなかった。だから走った。その暗い山道を。
ざざざざざざ……と木々がざわめく。
夕凪の時間が終わり、夜の風が少しずつ吹き始めた。
遠くでカラスの泣く声がしてたのも、もう聴こえない。
日の光を失った山道は暗くて、自分の足元くらいしか見えない。私は携帯のライトを点けた。
……よし、これなら暗闇を照らして進んでいける。
…………ううん、違う!! 私は……
何を、やってるの?
私は、今、どこに?
急に我に返った。そうだ、ここは「裏手」だ。入っちゃいけない場所なんだ。
なのに私はいつの間にかここにいて、そして……
「えっ……?」
ライトで照らした先に、道はなかった。木々が行く手を塞いでいた。慌てて私は後ろを振り返って、ライトで照らした。
でも、その先にも道はなかった。
「何で?……何で?!」
小さな、頼りないライトを少しずつ動かして、私は道を探す。無いはずない。ここまで来たんだから、来た道があるはずなのに…………あっ……!
「あった……」
細い道が、木と木の間に見えた。正確には道って言うよりは「藪の隙間」でしかないのかもしれないけど、でも、ここは通れそうだ。うん、多分これが来た時に通った道なんだろう。私はそう考えて、その先に進んだ。
ぞくっ
背筋が震えた。何の前触れもなく。
見上げた。道の先を。ライトで照らした。
軒先が見えた。割れた瓦と、剥き出しの柱が。
崩れた壁と、そこから覗いてるのは……藁?
……これは…………家だ。
私の目の前には、ボロボロの、朽ち果てた民家が一軒、建っていた。
その玄関……だと思われる黒く口を開けた空間の少し手前に、先輩が立っていた。
ぽつんと、何をするでもなく。ただ、こっちを向いて。
その顔は暗くて見えない。ライトの光が照らしてるはずなのに、その光は何の影も形も浮かび上がらせはしなかった。まるで、
そこに顔なんて最初からないみたいに。
そして今度こそ確実に、先輩は手を、招くように手前に振った。
こっちに来るようにと。
それから、
ぐるり
と振り向いて、目の前の家の玄関へと入って行った。
ああ、そうか。ここ、家だし。で、玄関だもんね。ここから入らないとね。
せっかく招待されたんだから入らないといけないよね
入らないといけないよね。
いけないよね。
いけない。
いけない。
いけない。
ーー入っては、いけない。
はっと気づく。
それは先輩が、大家さんが言ってた言葉。私はいつの間にか下に向いてた携帯のライトの光を、上に向けた。ボロボロの民家。割れ落ちた窓枠、黒い口のように開いた玄関、その向こうで
目を見開いた白い顔の女が笑っていた。
あははははっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
「……………………ひぃやあああああああああああぁああ!!!!!!!!」
息を吸うよりも先に、肺に残っていた空気が喉から漏れて音を出した。
足が滑る。山道の、地面の土が表面だけ削れる音。倒れる私の身体。二つ折りの携帯が衝撃で畳まれて、ライトが消える。全ての光が失われて、何も見えなくなる私。どっちが前? どっちが後ろ? 分からない。分かるのは精々、倒れた私の下にあるのが地面だってことくらい。携帯は? 手元にまだ近いところにあるはず……あっ
ぬとり
「ひうっ!!!」
足に何かが触れた。
冷たい何かが。
その冷たい手で捕まれた感触と全く同時に私の手が携帯を掴んだ。習慣的な動作で私の手がそれを開く。そこから漏れ出る光。瞬間。私の足に触れていた何かの感覚が一瞬消えたように感じた。反射的にその足を引っ込める。そして地面を蹴る。
ざかざかざざっ
そんな音がした。私の足元から。それは私が地面を蹴って走る音だと思った。
そうであって欲しい。
そうであって欲しいと思った。願った。
この先に道が、帰る道があって欲しいと思った。
携帯のライトをかざして、頼りない光を追った。
木と、木の間をかき分けて、かき分けて、とにかく、前へ、後ろを絶対に振り向かないように、前へ、進んだ。
だって、ぜったいに、そんなことはできない。
振り返るだなんて、できないから。
だって。
私の背後には、
あの女が
ずっと
ずっと…………………………。
***
なにか冷たいものが私の足を捕まえていた。
それがなにかを見て確かめることは私にはできなかった。
目を開いているはずなのに、なにも見えない。暗くて、冷たくて。
そのなにかが足を引き寄せているのが分かった。引き寄せられた私の身体に、その冷たいものがべったりと張り付いて、引き寄せて、また、張り付いて。
それだけで心臓が止まるみたいに痛くて冷たくて恐ろしいのに、それが腕と肩とをものすごい力で締め上げて引き裂くようにめりめりと音をたてて私の私の身体が私のうでだったものがねじれてきりさかれてあんなあんなふうにいたいあついつめたいもうやめていたいいたいいたい
「…………痛い……」
私は目を覚ましてそう呟いた。内容はすぐ忘れたけど酷く怖い夢を見ていた気がする。それに痛い。これは夢じゃなくて現実の痛みだ。
……ああ、これのせいか。
私の腕の下に、私の携帯電話があった。私はうつ伏せになって気を失っていたので、腕に携帯が食い込んで圧迫していたのだ。それが痛みの原因だって分かった。なので私は身体を少し起こしてそれを引っこ抜く。そしてまた、倒れこんだ。今度は意識を保ったままで。
寒い。
身体の下、床の畳に接してる部分だけは微かに温かさを感じるけれど、そこ以外の全身が冷えきっている気がした。何とかしないと。
……でも、身体が鉛になったみたいに重くて、動くことができない。どうしよう。
そうこうしてる間にも、私の全身はもっと冷えていく。駄目だ。このままここに寝てちゃ、駄目。頭を上げて、窓から差し込む月明かりだけの薄暗い部屋の中を、私は見回した。あ、毛布だ。朝起きたときにまだ寒かったからと、包まったまま過ごして、そのまま片付けてなかった毛布。私は手を伸ばして、足を少しだけ動かして、身体をそっちの方に動かす。もう少し……よし、掴んだ。
引き寄せた毛布を身体にかけて、その中で身体を横たえた。厚い、大きめの毛布で良かった。私自身の体温はその毛布のおかげで遠くへとは逃げていかず、身体の周囲を滞留する。これでもう、それほど寒くはない。なのに。
がたがたがたがたがたがた
ふるえがとまらない。
寒い? 違う。違わない。でも、違う。
怖い。
怖いんだ。
寒さじゃない。寒さだけじゃない。
分からない。何も分からない。
ここは、どこ?
私は、何をしてたの?
手にはさっき腕の下から引き抜いた携帯電話が握られていた。私はその時刻表示を見る。……午前一時。まだそんな、深夜?
本当なんだろうか? 毛布を少しめくって周囲を見た。壁の時計もやっぱり一時を指している。つまり、やっぱり、ここはアパートの私の部屋だ。
引っ越してきてまだ一月程度の。
五日宿の。
「……いつかやど
……うらて
はいっては……いけない……」
ぞくり
呟いた私自身の声。確認した。思い出した。ついさっき。ううん。多分正しくは、六時間くらい前。私がどこで何をして、何を見てしまったのかを。
がらがらがら
「…………っ!!!」
玄関の開く音がした。
がらがらがら
また、音がした。
とすとすとすとすとす……
木の階段を登る足音が、
とすとすとすとすとす……
だんだん近づいてくる。そして
ぴたりと、私の部屋の前で、止まった。