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十の宿 「冷たい誰かの手」 その八

「本当に大丈夫かい?」

「はい、すみません。先輩こそ平気ですか?」

「山道は立ち木で覆われてるし、あれからしばらくは晴れてたから雪はそう積もってないようだ。道を踏み間違えなければ大丈夫だとは思うよ。私も何回かは冬場に登ったこともあるし」

 雪道用のブーツを履いて、防寒着でもこもこに着ぶくれた先輩は冷静にそう言う。

 私はひと月ほど前に大家さんから貰ってたお古のブーツとウェアを身に着けて、先輩にもう一度頭を下げる。

「無理そうなら諦めますから」

「その言葉を忘れないでね。あと、私を見失わないように」

「はい」


 日の出前の山道。東の空は薄っすらと白んでるけど、ヘッドライトの光が届いてないところは真っ暗で何も見えない。先輩と初めて会った竹藪の『神殿』も例外じゃなくて、真っ直ぐに伸びた竹が部分的に照らされると、神殿っていうより牢屋みたいに思える。

 そこを抜けて少し開けた場所へ出る。階段状に整えられた山道に吹き付けられたような雪が積もっていて、先輩の小さな足がそこに跡を残しながら先へと進んでゆくから、私もそれを頼りに進む。

「あの、先輩」

「何?」

 問う私の声と、答える先輩の声。真っ白な互いの吐息。

 うん、大丈夫。信じられる。今ここにいるのは私と先輩で、歩いて目指す場所は裏山の祠だってことを。

 それでもやっぱり、少しは不安だったんだろうな。思わずかけてしまった声の意図を、私は後追いで少し考えて。

「時間的には間に合いそうですか? 初日の出」

 と、それっぽい話題を振ってみる。

「うん、少し余裕があるくらいだ。だから何度も言うけど、無理はしないでね」

「はい。ありがとうございます。ほんとすみません、わざわざ……」

「高い前金を貰ったからね。……いい御節料理だった」

「あー、うちのお母さん。ああいう凝った作りの料理好きみたいで」

「そうみたいだね。夏にいただいた料理も見事だったよ」

 そんなどうでもいいけど大事な思い出の断片を語り合うことで、また少し安心感が増した気がする。

 料理の話から季節の話へ、それから互いの学校の近況について話をした頃、


「少し休もうか」

「はい」

 私達は、前におにぎりを食べながら休んだ場所に着いていた。

 大きめの灌木の下、雪は木で遮られてたみたいでそこには積もってない。倒れた木の幹に腰を降ろして、一息つく。

「お茶を貰えるかな」

「はい。どうぞ」

 魔法瓶に入れたあったかいお茶を二人で交互に飲んだ。風はなくて、木々がそよぐ音さえしない山の中。カップにお茶を注ぐ音や、先輩がこくこくと喉を鳴らす音さえ鮮明に響く。

「……ふぅ」

「はぁー……」

 そんな風に深く吐いた息が小さな渦を巻く。私と先輩のちょうど真ん中に。しっかり歩いた上にお茶を飲んで、身体が温まってたからか、ひどくはっきりと形を描いていたそれも、やがては冷たい空気と混ざって文字通り霧散する。その光景を私は、それに先輩も、見るでもなく見て、互いに何かを想ったらしく感じた。

「ん……」

 喉に軽く引っかかっていた何かを飲み込むように、私は息を吸って、それから囁くように訊いた。すぐ隣で中空を見つめている先輩へ向けて、

「あいつはどうなったんですか」と。

 先輩は一瞬こっちを見て、それから目を少しだけ伏せながら。言った。

「君の勇気のおかげであの悪霊は消えたよ。君を襲いに来ることはもうないだろう」

と。


 それは先輩にしては珍しい、妥協なく断言するような語調だった。私は先輩の瞳を見つめる。少し外れたところを照らすヘッドライトの、ぼやけた反射光を頼りに。

 その黒い瞳がすっとこっちを見上げた。表情の読めない視線。そこには後ろめたさや、その逆の、はっきりとした自信みたいな想いは読み取れない。暗すぎるから……かな。

「……でも、だったら」

「うん?」

「先輩がどうにも出来なかったのに……正直あんなに簡単なことで、本当に消えたんでしょうか?……その……」

「ああ、だけど事実だよ。少なくとも、私の目にもあいつは、もう視えない」

 私が口にした疑問に対しても、先輩は淀みなく答えてくれる。

「今だから言うけど、外からあいつの声が聞こえてきた時……私は君があっちに行ってしまうんじゃないかと思ったよ」

「そう……なっていたかもしれません」

「でも君は、迷わなかったね」

 先輩は言葉を続けながら、顔をこっちへ向けた。

 あ、また聞かれるかな『何故あんな無茶をしたのか』って。

 どうしよう。今度もまた、上手く誤魔化せるかな……?


 でも先輩は、そうは言わなかった。

「どうして私を本物だと思ってくれたんだい?」

 少し軽い口調で、そう呟くように言っただけだった。

「それは……まあ先輩への愛ですかね」

 だから私もおどけて返す。

「それは素敵だ。気の利いた回答だね」

「本当なのに」

「覚えておくよ」

 そう言い合って、笑い合う。何だか小さな、だけどもそれなりに大事な秘密を共有し合ったみたいな気分で。


「そう言えば」

 私は話題を変えた。

「なんで私、あのとき目が開けられなかったんでしょう?」

「ああ、うん。そうだね……」

 不意な質問に対して先輩は、いつもの講義するような口調で答えた。

「私の不確かな眼で視たものと、そこからの勝手な推論で良ければ」

 と、いつものように前置きして。


「あれは……君のお姉さんが……菜種さんがね、守ってくれてたんだよ」

「えっ……」

 全然思ってもみなかった言葉が先輩の小さな口から聴こえて、私は驚く。構わずに先輩は続けた。

「宿りの家の……いわゆる悪霊から君を隠すために、君がそれを視て恐れて、その恐怖に取り込まれてしまわないようにしてくれたんだよ、ほら」

 言いながら先輩は両手で自分の目を覆った。

「こんな風にね」

 と。


「お姉ちゃん……が……?」

 震えてしまう私の声。

「勿論……先に行った通り、これは私の推論でしかないけど……」

「分かってます。ありがとう……ございます、先輩」

「スズ……」

 先輩が私を見つめる。ヘッドライトから射す光を散らす、私の涙。

「行きましょうか……。時間、そろそろですよね?」

「……ああ。うん」

「もう少しですし。頑張ります」

 そう言って私は立ち上がる。そしたら先輩も

「分かった、でも無理はしないで」

 と、やさしく言ってくれた。


「足元、気を付けて」

 雪の斜面に差し掛かって、手を差し出してくれる先輩。だけど私は

「大丈夫です」

 と、きっぱり言って笑って見せた。

「うん」

 先輩はそれ以上何も言わないで、先へと歩んでゆく。

 

 強くなろう、私。

 もっと。もっともっと……強くならなきゃ。

 だよね…………お姉ちゃん。



 ***



 眠い。寒い。疲労感が重くのしかかってくる。

 でも不思議と不快には感じない。

 何故だろうか。


「先輩、疲れてませんか?」

 鈴芽の声が背後の、腰の辺りから背中を追い越して耳に届く。

「全然。君の方がよほど眠そうに見えるよ」

 振り向かずに私はそう答える。


 早めの夕食のあと、鈴芽は一眠りしたと言ってたけど、実際よく眠れたんだろうか。

 私は結局眠れなかった。空じいから借り受けた雪分神社の蔵書を繰る手を、追う目を、止められなかったから。


「あはは……なんか、急に疲れがきたかもです」

「そうみたいだね。……とりあえず、朝日を見終わったらすぐ下山して休もう」

「はい」


 初日の出か。

 畏まって朝日を見るのなんて、一体いつぶりだろう。

 実際そうだった。昔の私は太陽が出るまで起きていたことも珍しくはなかった気もする。布団の中で震えながら、祈るように朝を待ち続けたことも。


 子供のころ、私は酷い泣き虫だった。一日に何回も大声をあげて泣いていた。

 自分の瞳にしか映らない、異形達の存在がとにかく恐ろしかった。

 きっと子供ながらに、こいつらは普通の生き物ではない別の何かだと、本能が感じ取っていたんだろう。

 そして、それは今も続いていて、未だに正体は分からない。


 彼らは一体何なんだろう。一般的に言うところの霊魂だったり、幽霊だったり、あるいは神様などと呼ばれている存在なのかもしれないし、本当は全く違うものなのかもしれない。

 両親にはそのことを何度も訴えた。だけど結局信じてはもらえなかった。

 同年代の子ども達にも伝えようと試みた。だけど嘘つき呼ばわりされるだけで、その評判は両親の、特に母親の心象を更に悪くするばかりだった。

 場所が悪いと考えたのか、あの人達はわざわざ引っ越しまでしてくれた。でも暮らす環境が変わっただけで何も変わらなかった。

 だから私は人と関わることを諦めてしまっていた。今思うと、あの人達には酷く迷惑をかけてしまったのかもしれない。


 そして、鈴……。

 私は、本当は君と仲良くなるつもりなんてなかった。ただの少しもだ。

 君とはアパートの隣同士に住んでいる、それ以上でもそれ以下でもない関係でありたかった。


 だから最初挨拶した時はわざと冷たくあしらったし、なんならおかしなやつと思われても構わないくらいに私は自分のことを正直に話した。

 でも君は驚くほど優しくて素直な子だったね。私の妄想のような話を全て信じて、その上で私を慕ってくれた。嬉しかった。君は初めてできた私の本当の友達だ。


 そんな君に……私はとんでもない嘘をついた。


「ふぅ……っ」

 息をひとつ大きく吐き出して、最後の坂を登りきる。その先に、雪をかぶって真っ白な祠が見えた。

 私は脚を止めずにその前にまで寄り、頭を下げる。


(ありがとうございました。鈴を守ってくれていたのは、きっとあなたですね)

 と。

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