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十の宿 「冷たい誰かの手」 その六

 どれくらいの時間が必要だったんだろうな。

 それが何か解るまでに。


 最初に先輩の手に触れたのは、初めて会ったあの日で。

 感じたのは驚くような冷たさと、ほんの少しの違和感。

 それが小さな震えだったと気付いて、理解するまでにはそれなりの時間と、一緒に過ごす日々とが必要だったんだ。


 先輩がどれだけやさしくて、真面目で、嘘つきで。

 そして……怖がりだったのか。

 それを理解するまでには。


 この人は、先輩は、いつだって私に本心を見せてくれない。


 夏に実家に帰って、お姉ちゃんのことを話して、一緒に泣いてくれたあの時。

 あの時初めて、それに気付いたような気がする。


 だってあの時握った先輩の手は、冷え性のはずのその手は、

 ほんの少しだけ温かくて、なんの違和感も感じなかったから。

 私に『安心して』『守るから』と自信満々に言ってくれた時でさえ冷たく震えていた、その手が。

 だから私は解ってしまった。


 先輩はずっと、怖かったんだ。この人は恐怖と戦いながら、ずっと私を守ってくれていたんだ。私を安心させてくれるために。……って。

 そして

 先輩にそうさせてしまったのは、まぎれもなく私のせいだったってことにも。


『だって先輩が守ってくれますからね』

『先輩が守ってくれるんでしょう?』


 冗談でもそんなことは、言うべきじゃなかった。言ってはいけなかった。

 本気なら、なおのことだ。

 何をやっていたんだろう、私は。『私は何も出来ない』って、あんなにもはっきり言ってた先輩に、私はどこまでも甘えてしまってた。

 だから今度は、今度こそは私の番だと思った。

 私が、私こそが先輩を守るんだ。守らなきゃいけないって。


 だからあの手を離さなきゃいけないって、思ったんだ。


 そして叫んだ。あいつが、あの宿りの家の女が狙っていたのが私だったから。

 ただ、あいつの目を先輩から背けさせたい。って、それだけを願って。

 もし外にいたあの声があの女だったなら、それで目的は達せられる。

 でも万が一、外にいたのが先輩だったなら……でも、それはそれでいい。私の居場所は告げられて、最悪は先輩だけでも、逃げてもらえるだろうって思ったから。


 こんな事…………先輩には言えないな。

 うん、だから一緒だ。私も、先輩も。

 何だっていつだって、必ず全てのことを伝えられるわけじゃない。隠すことや、言えないことはあって、嘘だって時には吐くだろう。


「覚えてません。ごめんなさい。夢中で……」

 半笑いで、私はそう言った。

「ばか……もう……本当に……この馬鹿……っ!!」

 先輩の声。震えてる。

 私は座ったまま、その傍へすり寄る。

「もう……どこにも…………行かないで……お願いだから……」

「はい……どこにも行きません。私は、ここにいます」

 先輩の手が、私の背に回る。

 私も片手を先輩の手に、もう片方の手をその頭へと触れさせる。

 きゅっと、私達は抱き合った。


 冷え切った本堂の空気。私の、精気の失せて白くなった冷たい手。それが先輩の温かな背中に触れて、心地いい。

 それに、

 私の背に触れた温かな手もまた、やさしくて、柔らかで、心地よかった。




 ***




 どれくらいの時間が必要だったんだろう。

 こうなるまでに。

 どれくらいの時間が経ったんだろう。

 あの、弾けるような痛みを感じてから。


 どれくらいの想いを募らせたんだろう。

 私も、あの子も。

 お父さんも、お母さんも、弟も。

 

 もう思い出せない。それとも全部がひとつに溶けて、ひとまとめになってしまったみたいに、思い出さなくても良くなってしまったんだろうか。

 あったことは覚えてる。だから思い出さなくてもいいのかな。

 終わったことはやり直せない。だから悔やまなくてもいいのかな。

 分からない。解らない。けれど、

 

 でもきっと、もう終わってしまったことなんだろうな。

 あの声が、あの子の言葉が、あの想いが、


 もう、届いたから。 




 ***




 ーー倉家 家訓

 五日宿ーー禁ーー連句ーー目録

 逆之手 蛇御神 祝詞正案

 宿家ーー霊祓ーー忌継 承ーー 


 ……欠落が多く意味も断片的にしか追えない幾つもの文書達。それでも幽かに漂う言霊の流れとその淀みから経緯を推論していくことはできる。逆に言えば、私にはその程度のことしかできない。

 あとは精々……実際に視て触れた事象とそれらを紐付けて、結果を独自に解釈するのが関の山だろう。

 実際に視えたものさえ疑わしいという前提からは目を背けられないというのに。 




 ***




「今日……何日なんです?」

「30日。明日で大晦日だね」


 雪分神社の先輩用の私室で目を覚ました私はその返答に目を丸くする。

「え……って、もうそんな日付なんですか? 本当に?」

「本当だよ。嘘であって欲しいとも特には思わないけど、間違いなく明日からの二、三日間が、この神社で一番忙しい時節だ。だからほら」

 窓の外を指さす先輩。その先には臨時で例年よりも多めにやって来たアルバイトやお手伝いの人達が、ばたばたと準備してる様子が見える。見るからに忙しそうに。

 ああ、確かあの倒れた日がクリスマスの一日前くらいだったはずで、日を跨いでこの神社でお世話になり始めて……それからかれこれもう五日も経っててたのか。しかもその間、私はこの寝床から、ほとんど起き上がることもできずに寝て過ごしちゃってて。


 ……ものすごい疲労感だった。怪我も熱もなくて、あの日の夜明け直後に神主さんの車(少し古いけど雪国仕様の、タイヤもライトもすごく立派なやつで、私が倒れた日もアパートと神社をどうにか往復して助けてくれたらしい)で病院にも連れていってもらえたけど、そこでも異常は特に見つからなくて。

 私は『疲労と一時的な栄養不足、それに何かひどい緊張感が続いたせいだろう』みたいな言葉を聞いて、点滴だけ打たれて、薬をもらって神社にまた連れ帰られて。

 どうにか昨日、立って歩けるくらいには回復したけれど。

「でもなんだか、実感が湧きません」

「……仕方ないよ。私だってそうだ。多分、空じいもね」


 半分朦朧とした意識で過ごしたこの数日間と、あの日のあの夜の出来事が今でも混濁して感じられる。あの理解するのがやっとで、それとも理解が追いつかないまま過ぎ去った時間が実は五日間ずっと見ていた夢で、今日やっと目を覚ましたんだ……って言われても信じてしまいそうなくらいに。


「親御さんとの連絡は?」

「ついさっきメールの返信が来ました。無理せず、年明けてから帰るようにって」

「そうだね、それくらいが丁度いいと思うよ。まだ無理はしない方が……」

「でも私、帰りたいです」

「…………そうだね。なら、明日空じいに駅まで送ってもらって……」

「あ、いえ。アパートにです」

「え?」

「無理……ですかね?」

「さあ、どうかな。……まあ、とりあえず朝御飯にしよう。立てるかい?」

「はい、もう大丈夫です」


 私はそう言ってみせて布団から立ち上がってみせる。うん、もう普通に歩ける。先輩と神主さんのおかげで。


でもその後、朝食の席で神主さんに「すっかり良くなりましたから」ってアピールはしたんだけど、

「医者にもう一回診てもらってからにしな」

 と念を押されてしまって。年末でも診療してもらえる少し離れた場所の病院まで往復してるうちに日は傾いてきて、

 結局、アパートに帰れる日は暮れも押し迫った十二月三十一日、いわゆる大晦日になってしまったのだった。

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