十の宿 「冷たい誰かの手」 その五
………………そういえば。
前に宿りの家に行ったとき、私は先輩の後ろ姿を見つけて、ついて行ったんだったけ。
でもあれは本当に先輩だったんだろうか、今になっては違う気がするけど、もう思い出せない。
だけど、そうだ。確か神主の空ノ介さんが、『恋は宿りの家について調べている』って言ってたっけ。なら、あの時の後ろ姿は本当に先輩? 神主さんがあんなに危険だと言っていた場所の、一体何を調べてたんだろう。
なぜ先輩は、一年近くもそのことを詳しく聞かせてくれなかったんだろう。
神主さんに内緒で、私にも内緒で。それぞれに嘘を混ぜて、隠し事をして。
そんな人の言葉を、言葉かどうかすらあやふやな手の感触を、私はなぜ信じて、一瞬でも安心してしまったんだろう。
この人は本当に先輩なのか?
先輩の手はこんなに冷たかったか?
目を開いたら隣にいるのは化け物なんじゃないのか?
私はなんで…………こんなことをしているんだろう?
「………………………………ひっ」
それは、私の口から出た声じゃなかった。
冷たい手の向こう側から、漏れた音。続けて
トントン
トントントントン
何かを叩く何かの音が、
頭の方向、足の方向、横、上、下からも、回るように、らせんを描くように、響き始める。
トントン
トントンドンドンドン!!
「……っ………………ひ…………っ」
「…………っ………………っ……ん」
冷たい手の向こう側から漏れる息の音と、
私の口からも漏れる息の音とが、その叩き回るような祭り太鼓とも足音ともつかない何かのけたたましい響きの中で、混ざりあう。
ドンドンドンドンドン!! ドンドンドンドンドンドン!!
耳が、頭が、身体全体が、揺れて、震えて、割れそうなほどの音。
なのに、床はまるで揺れていないで、震えてさえいない。
ならこれは、音じゃない? 建物を、空気を振動させていないの?
いったい何? 何なの? 何なの?!!
それが、その何かが
ドン!……ドン…………トン……
と、急に勢いを失って、消え失せた。
……遠ざかった?
「…………はぁ……っ」
「鈴芽、大丈夫かい?」
「…………あ、はい……せんぱ……」
「スズ…………っ!!」
え?!
鳴りやんだ何かを叩く音。残ったのは、建物に吹きつける風と雪の音だけだった。
思わず漏れた私の吐息に、私を心配するあの人の声が答えて、それに私が返事をしようと声を……声を……?!
「馬鹿……な……こんなことって……」
冷たい手は今も、私の手を握っていた。強く。さっきまでとは比べ物にならないくらい、強く、固く。
「ああ、ここにいたんだね鈴芽。やっと見つけた」
その手の向こう側からも、そして、その逆の方からも、声が聴こえた。
あの人の声が。
「鈴芽、そこにいる私は偽物だ。騙されている、こっちへ来て」
「聞くなスズ、違うぞ」
「騙されちゃだめ。スズ、早く逃げて」
「違う、偽物はお前の方だ」
「今すぐこっちに来て、その中は危険だから、早く」
「黙れ。私が本物だ。これ以上喋るな」
「お願い、こっちに来て、ここを開けて! 鈴芽!」
分からない。
分からない、判らない、解らない!!!
「やめろ」
「お願い、言うことを聞いて、鈴芽、早く」
「やめてくれ」
先輩の声が、二つ。
どっちも、間違いなく、同じ声で。
トーンも、アクセントも、微かな震えや細かなクセまでも全部、同じ。
鈴のように綺麗な、でもほんの少し舌足らずで、普段あんまり喋り慣れてないのに、私に対してだけはお姉さんぶって、たくさん難しい言葉と強めの言葉遣いで、でもやさしく諭して導いてくれるような、その声が。
両方から、私に、言葉を浴びせてくる。
何が、何で。
どっちが、どっちなのか。
この冷たい手の主が先輩?
それとも、
それを外から糾弾する声こそが、本当の先輩なの?
そして、
そのどちらかが先輩だとしたら、もう片方は、
宿りの家
の
あの女
なの?
「っ……うぁああああああああああああぁぁあああっ!!!!」
「スズ!!」
「鈴芽っ!!!」
二つの声と、私の叫びとが、吹雪の中で響いて交わる。
強く握ってくる冷たい手。
一瞬、振りほどこうとする私。
その冷たさは、本当にあの人のもの?!
それとも、例え本当にあの人の手だったとしても、そうだったとしても、
私はそれを、本当に信じていいの?!
嘘つきなあの人。
大切な事や、本当に怖いものを隠して、最後までは語りきらない、あの人。
『言葉通りの意味だよ。けど、冗談みたいにもし聞こえてたら、そう取ってくれてもいい』
『もちろん、嘘だよ。でも、本当にそうじゃないとは言い切れないんじゃないかな』
『だから今は、不安をあおるような事実も、過剰に楽観させるような嘘も、そんなには言えない』
『いや、何も……』
『嘘だけどね』
私はずっと、最初から、騙されてたんじゃないだろうか。
『……つかえが取れるっていうのは、良いもんだね』
『私は頼れない。だって私にはね……』
『君のお姉さんは……君を今も想ってる。君が今、お姉さんを想ってるのと同じに』
『ごめん、面倒な話に巻き込んで』
『私が君を……』
頭の中がグルグル回る。体が空中に浮かんでいるみたいだ。
自分がどこにいるのか、自分が何なのかさえ、もう、分からない。
でも、
…………でも。
一つだけ分かる。
見えない目じゃなくて、信じられない耳でもなくて、ただひとつだけ、
この繋がれた冷たい誰かの手の感触だけは……分かる。
だから
私が何をして、何をしなければいけないのかだけは、はっきりと、
解るんだ。
「先輩……大丈夫ですよ」
「……えっ……」
私ははっきりと声を出した。そうしてはいけないと、伝えられていたのに。
「安心しててください」
冷たい手に向かって、私はそう囁いてから
ばっ
とその手を一気に振りほどいて、身体をひねる。
「す……スズ!」
「鈴芽っ!!」
両側から聴こえる声。その、今まで「外」だと思っていた方へ向かって、身体を起こす私。
本当はさっと格好良く立ち上がろうって思ったんだけどな。でも脚にそこまで力が入らなくて、せいぜい半身を起こすのが精いっぱいだった。だけど、
これで十分だ。だって、声が出るから。
目も開かない、耳も、記憶も信用できない。だけど声が出るなら、
それだけで……いい。
振りほどかれた冷たい手が、私の首筋に触れる。一瞬、ぞっと震える背筋。
でももう大丈夫。息は吸ってるから。だから、言える。
「私は……横沢鈴芽はここにいるぞ! この卑怯者っ!!!!」
「ス……スズ、鈴芽っ!!」
冷たい手がそう言う。
「スズ、良かった。さあ早くこっちへ!」
外の声が、そう言う。
「うるさい! これ以上先輩を騙るな! この……偽物めっ!!!」
私は、外の声へめがけて、はっきりとそう叫んだ。自分の、心からの言葉で。
***
トントン
「す……スズ……鈴芽…?」
トントンドンドン
「そんな……なんで……私は……」
ドンドンドンドンドンドンドンドン!
「私は……私は……君の…………!」
吹雪の音、何かを叩く音、それに先輩のような声。
それらが私と先輩のいる神社の本堂を包む。
「お前なんか……お前なんか全然怖くないぞ! この卑怯者! 早くここから失せろ! どこかへ行ってしまえ!!」
私は声の限り、叫ぶ。
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン!!
「なんで……どうして……どうして……?!!」
「聴こえないのか? 消えろ!! 早く!!
ドンドンドンドン!! ドンドンドンドンドンドン!!!
「だって……だって……だって……っ!」
「さっさと消えろ! 二度と私の前に姿を現すな!! 消えろおおおおおっ!!!」
「あぁあああぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁあぁああああっつ!!!!!!!」
瞬間、私は何かに押し倒された。
頭が真横に倒されて、何か柔らかいものにぶつかる。
「ぐっ……スズっ!!」
先輩の腕だった。すぐに冷たくてやさしい手の平が、私の頭と頬に触れて、包み込んでくれる。
私を押し倒した何かの正体は、すぐに解った。吹き込んできた風と雪だ。
見上げると神社の本堂の扉が外れて倒れ、白い雪が部屋の中を舞い散っている。
「先輩……火がっ!」
「え…………ああっ……空じい!!」
風にあおられたんだろう。本堂の中で焚かれていた蝋燭が倒れて、床に火の粉を散らす。
多くは風で吹き消されたみたいだけど、それでもいくつかは消え切らず、まだ燃えようとしている。いけない、このままじゃ火事になる。
……って、思った矢先に
「大丈夫だ、こんなもんすぐ消せる!!」
神主さんの声。え、全然気づかなかった。本堂の立派な神棚の前から、空ノ介さんは顔と頭とを汗で光らせながら立ち上がって、隅に置いてあった消化用のバケツを手に、倒れた蝋燭の方へ駆け寄る。
その水がざっとかけられて、火は一瞬にして消えた。とたんに、本堂は真っ暗になる。
「ふう……待ってろ。すぐ明かりを点ける。……おい恋、扉をどうにかしろ」
「えっ…………どうにかって、私が?」
「横沢の嬢ちゃんは無理だろ。あんだけの啖呵切って、しかも目が……って、そうだ嬢ちゃん、目は?!」
「そうだ、スズ、目は?! 見えるのか?」
「あっ……はい!」
そう言われて、私は初めて気付いた。
目が、瞼が、開けられてることに。
空ノ介さんが大きめの懐中電灯を点けて、本堂の中を照らしてくれた。
それから先輩と神主さんは二人で、外れた本堂の扉をどうにか元に戻し始める。
私は見えるようになっていた目で部屋の中を見渡す。
私の寝かされていた布団の周りは、鏡と大量のお札でぐるりと囲まれていて、そのうちのいくつかは割れたり破れたりしている。ああ……これも、あの女がやったってことなのかな。
声のしていた方を見上げた。そこには何もない。ただ、本堂の立派な柱と頑丈な壁とが立っている。そして、声はもうしない。叩くような何かの音も。
「祓えた……んだよな?」
空ノ介さんがそう言った。
「…………確実に祓えたかどうかなんて、解らないよ。でも……」
「ああ、俺にも分るぜ。あの妙な気配はもう、ここには無いってのだけはな」
扉を直し終えて、先輩は神主さんとこっちへ戻って来る。それからへなへなと、私の傍の床にへたり込んで、
「スズ……君は……どうしてあんな……無茶を……」
と、震える声で言った。
「あ、はい。……すみません」
私は謝る。だって、『喋らないで、がまんして』って言われたのに、それを守らなかったから。
「いいよ……どのみちもうすぐ日が昇る。君はよく耐えたし……見事にあの『何か』を退けた。でも……でも何で、あんなことが……あんな声がして……。私ですら私が誰なのか一瞬疑いかけたって……いうのに……」
先輩は顔を伏せたまま、そう言葉を続ける。つかえながら、震えながら。
私は、
私は……だって、分かったから。
解ってたから。
あの冷たい手が、いつだって震えていたのを。




