十の宿 「冷たい誰かの手」 その四
もどかしいやりとり。でも、仕方のないことのようだった。
声を聴かれちゃいけない、悪い何か。
この五日宿に、確かに存在する……そう私達が信じてる何か、悪いもの。
それが近くにいるのだと、先輩は告げている。
耳を澄ませてみた。ほんの少しだけ、遠くでかたかたと音がする。風の音みたいだけど、きっとあれは本当に、外の吹雪の音だろう。
【目はまだ 開かない?】
と訊かれたので、わたしは頷いた。あれ? 先輩は私の目が開かないでいるのを知ってたのかな。さっき教えてたっけ?
【怖いだろうけど がまんして】
そう伝えてくれる冷たい指先。その言葉にも私は頷く。頷いて見せる。
だけど実際は怖かった。とても。
利かない視界。出せない声。
辛うじて、手と手で意思の疎通ができるだけで、それもかなりの不自由さを伴う。細かな事情やこれまでの経緯なんかを詳しく訊きたいけれど、それはとても難しいことで。
でも断片的な言葉をどうにやりとりして、私は可能な範囲で今の状況を先輩から訊き出した。それによると、
【倒れていた君に お神酒を飲ませ 悪いものを 遠ざけた】
【でも それは まだ君を探してる】
【ここ 神社の本堂を 火とお札で守っている】
【あと 九時間 朝まで耐えてほしい】
どうにか理解できたのはその程度だった。力がうまく入らない私の手と指は、少しずつ震えが強くなってしまって、質問の言葉をうまく記せないし、聞き取れない。今はもう、ただ
【私が そばにいる】
と、そう記してくれた冷たい指を私は握るのがやっとだった。入る限りの力で。縋るように。
そしたらもう片方の冷たい手もまた、包むように私の手を握ってくれる。
優しく、柔らかく。
でも、
ぶるぶるぶる……と、
私の手は、震えて、止まらない。
瞼の裏に、少しずつ視えてきたから。
耳の奥に、少しずつ聴こえてきたから。
白い闇のような吹雪。誘う足跡。その先の影。開いた扉。閉じた玄関。黒い土間。軋む廊下。
あはああああああ……
考えるな。
思い出すな! 私。
先輩が教えてくれた今の状況から……考えるんだ。私はアパートで倒れていたと先輩は言った。ならきっと、私は玄関から外へ出て、それから確かに戻って来れてたんだ。
でも多分、吹雪に体力を奪われてそのまま倒れた。そこへ先輩が助けに来てくれたんだ。だから、だから私は「宿りの家」になんか、行ってない。入ってない。見てない。聴いてない。
絶対にそんなはずなんか、ないんだ。
…………でも、
でも何? 何だろうこの違和感は。
だって、先輩はなぜ、どうして、
アパートで私が倒れてるのを知ったんだろう?
それは……いや、落ち着こうよ鈴芽。だって、ほら、メールしたじゃない。
アパートにいることはそれで先輩に伝わったはずだ。そして猛吹雪で、周辺一帯が停電したんなら先輩は当然私を心配する。してくれる……はずで。
でもそれだけで、わざわざ助けに来てくれるだろうか?
そう言えば、前にも同じようなことがあって、そのときは電話を……電話した、はずで……あのときも確か宿りの
……思い出すな! そうじゃなくて、今だ。そう、心配してくれた先輩が、わざわざアパートへ帰って来てくれて、それで私を助けてくれたんだ。うん、きっとそうだ。
……どうやって?!!
バスも止まってしまったあの吹雪の中を、先輩はどうやってアパートまで来て、そして私を神社まで連れて来れたんだろう?
思わず、私は手に力を込めた。一瞬、震えが止まってピクリと私達の手の全体が揺れる。私が握っていた手と、外から包んでくれてた手が、私の動揺を察してか、やさしく手を握り返してくれる。
冷たい、その手が。
それは、その手の冷たさは。
同じじゃ、なかっただろうか……?
あの「家」で私の首筋に触れたあの手と……!
違う!
違う! 違う! 絶対に違う!!!
でも、それは本当?!
本当なの? それとも、嘘なの?
手に触れた冷たい指。記した文字列。それは本当に言葉だった?
意味不明な綴りを私が勝手に解釈したのではないと、自信を持って言い切れる?
言い切れる…………はずだ?
はず? はずじゃなくて、絶対にそうだと、言えないの?
そんなの……そんなの
分からない、でしょ?
分からないよね、鈴芽。
何もわからない。それが本当の事じゃないの?
本当にここが雪分神社なのか。
聞こえている音が吹雪なのか。
この人が本当に真倉先輩なのかさえ。
***
どれくらいの時間が必要だったんだろう。
それが何か解るまでに。
意識はあった。瞳の裏側、脳髄を巡る自分の言葉。意味。思考。
でもそれが全部で、他には何もない。
見えない。聞こえない。触れられない。
意識の外からは何も受け取れないのだった。映像も音声も味も匂いも触感も。
一体、それは何だろう。これは、この状況は、何と呼べば良いんだろう。
闇だ。
多分、きっとそうだ。
私は、闇の中に居る。
私以外に他に何もなく、何も干渉してこない世界。
暗く静かで、あらゆる刺激、痛み、悲しみ、喜びも存在しない場所。
だから私は何も感じず、だから私は何も想わなかった。
無意味に巡らせる自分自身の言葉と思考だけがそこを漂い、繰り返され、霧散し、凝固し、また巡るだけ。
時間も意味を失い、空間も定義されない。
ただ停滞だけがそこにあった。
あの声が、あの手の感触が、
ここに届くまでは。




