十の宿 「冷たい誰かの手」 その三
どれくらいの時間が必要だったんだろう。
この手が届くまでに。
***
同じ風景だ。
どこまでも、どこまでも。
あのとき見たのと同じだ。……あのときって、いつのことだっけ?
その道は歩き慣れた一本道で、子どもの足でもすぐに家までたどり着く短さのはずなのに、歩いても歩いても、ずっと同じ風景で。
どこまで行っても、どれだけ歩いても。
なのに私はそれが苦にならないみたいで、逆に可笑しくて、楽しくて、きゃらきゃらと笑っていた。
まるで目に映るもの全て、耳に響く音の全てが愛すべき宝物だと信じきってるみたいに。
青い空。入道雲。蝉の声。
そんな愛おしい景色と季節の中に、ずっと抱かれてるようで。
帽子を被ってくるくると、踊るように笑って歩く私の影。
それから、
その隣で日傘をさして静かに微笑んで歩く、小さな誰かの影。
「こんなところにいたの」
私は振り返る。日傘の下の顔は影になって見えない。その口元は微笑んでいたままだけど、動いていないようにも見えた。
「ほら、こっちにおいで」
どこからか響く声。
懐かしい声。覚えてる。思い出せる。でも、
「……だめ」
同じ声が、別の声が、空の間から響く。
「だめだ……」
雷のように、あるいは鈴の音のように。
「だめだ、行っちゃ……だめだ!! お願いだ……行かないで……!!!」
***
【ス……! しっか……るんだ!!!!】
【おい……落ち着……急に……すな……血は……ないか?……は?】
【目だった外傷や……はない……息も確かに……だ】
【見せ……体温も……意識は……】
肩に何かがふれてるのを感じる。それと耳が、びりびりと痛い。
えっと……これは、声?
【……ズ、聴こえるか? 私だ! へ……返事を、返事をしてくれ!!】
「……ん…………はぃ……」
返事をしろと言われたから、私も声を出してみた。
【ス……よかった……るのか】
どうやらそれは相手に届いたらしい。
相手って……誰? 声だけじゃなくて顔も見たいと思った。でもなぜか、それができない。
明るい場所にいるのは分かる。さっきまでとは全然違う、光のあるところにいるって感じられるのに。
【声は聴こえて……私が……か? 目は?】
……目?
ああそうか、目が開かないんだ。だからか。
【……私が見え……かい?】
「……ぃいぇ…………」
素直に答えてみる。だって、本当だから。
【目が……開かないのか? いや……今はいい……から、なら……これを】
ん……? 何かの甘い、強いにおい。それと口元にふれた何か。
【飲んで……一口……けでいい】
飲む……? 飲み物? ああ、それなら……
私は言われるままに口を開ける。そこに
「……ん?……がふっ……!!」
う……ぁああああああああっ!!!!
口の中が、全身が、焼けるように、熱い。
気が遠くなる。これは……何?!
【お神酒か…………いた……か?】
【多分……でもま…………ない】
声が聴こえた。でも、その先は聴こえなかった。聴こえなくなった。
焼けるような熱さも同じように感じなくなって、それはありがたいことなんだけど、でもそれって、ああ……。
私が、私のたましいが、また浮かび上がる。
離れてゆく。
ああもう、一体何? 何だったの? あれは。
開かなかった目の向こう側に感じた明るい光もだんだんと離れて、私はまた暗い中に引き込まれてゆく。すごく残念な気持ちと、でももうこれで大丈夫だっていう気持ちとが心の中で行ったり来たり。
その想いを横切るように、かすかな声が、もう一度だけ届く。鈴の音のような、あの声。
私はそれを記憶に刻みながら、闇の渦に吞まれてゆくのだった。
全てがぼやけて、曖昧になって、融けてゆくように。
押し込まれるように、あるいは、抱かれるように。
【安心して。私が……私が絶対に……君を…………】
ああ。
いい声だなぁ…………とても。
***
どれくらいの時間が必要だったんだろう、
それが解るまでに。
何も見えなかった。ううん。正確には少しだけぼんやりと、瞼の向こうにかすかな光を感じる。少し前に、白い闇みたいに見えた夜の吹雪の逆で……黒い光……って言ったらいいのかな。温かで、目を閉じてても解る明りみたいなものが、この閉じた瞳の先にあるのだけが、感じられた。
何も聴こえなかった。ううん。正確には少しだけかすかに、呼吸の音と衣擦れの音が聴こえる。聴き慣れた、あの人の。
そして
「……っ……」
手のひらに、冷たい感触。誰かの手。誰かの指先。私はその指先を握る。細い、なめらかな肌。間違いない。
「せん……ぱ……」
「し……っ」
微かに歯と唇の間から漏れる息の音と、もう片方の冷たい手とが私の口と言葉を塞ぐ。
静かにして、喋らないでという意図を込めた所作。
何が、どうなっているんだろう。
私は思い出す。今まで、何をしていたのかを。
私は考える。今、私はどこにいて、何をしているのかを。
吹雪の中、アパートから大家さんの家を目指して、それを諦めて戻ろうとしたのは覚えてる。
それから先が思い出せない。
とても怖い思いをした気がするけど、目が醒めたら覚えていない夢みたいに、断片的な情景と感情の切れ端のようなものしか頭に浮かばない。
そして、今。
私はどこかに横たわってる。寒くはない。服は多分、普段着のトレーナーとジーンズで、コートは脱がしてもらってるみたいだ。床は柔らかくて、温かい。きっと敷布団の上なんだろう。
お腹は空いてない。昼を過ぎてから何も食べてないけど、胃の中に何かが溜まってるような重さがあって、何かを食べたいという気持ちが湧いてこないみたいで。
それから……それから……
「ん……っ……」
目が、なぜか開かない。まぶたが押さえられてるような、くっつけられてるような感覚が強くて、力をこめてどうにか目を開こうとしても、それが叶わないでいる。
「…………」
私がそんな風にもがいてるのを察したのか、口を押えていた方の手がゆっくりと離される。そしてその冷たい手は、私の握っている方の手を、もう片方の冷たい手と一緒に包むようにやさしく握って、それから軽く指を開かせて、手のひらに何かを描いた。え……文字かな? 何かの文字を、私の手に書いてる……?
【大丈夫】
文字列はそう読めた。ゆっくりとした指の運び。丁寧な筆跡。
【静かに 声を出さないでいて いいね?】
続けてその指は、私の手の平にそう記した。
私は頷いて、肯定の意思を返す。
真倉先輩だ。間違いない。
この手の冷たさを、私が間違う訳がない。
状況は全然分からない。だけど、先輩が傍にいる。いてくれる。それが分かって、私は自分でも驚くほどに安堵してる。
【私が分かるかい?】
指はそう尋ねてきた。私はその手を取って、
【せんぱい】
とだけ、書いてみた。
【そうだよ 安心して】
よかった。伝わったらしい。私は口元をほころばせる。
それが見えたんだろうか。先輩は私の手を少しだけ強く、きゅっと握ってくれる。
【ここ どこですか】
私は尋ねた。
【雪分神社 君はアパートで 倒れていた】
冷たい指先は、簡潔にそう答えてくれた。
【なぜ今 声を出しちゃ だめなんですか?】
そう質問すると、先輩は答えを返してくれなかった。あ、私の筆跡が雑で、少し長い文章だと読なかったのかも。
【声 だめ なぜ?】
単語を区切ってもう一度訊いてみた。そしたらやっと、先輩は答えてくれた。
【悪いものが 近くにいるから】
と。




