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十の宿 「冷たい誰かの手」 その一

 どれくらいの時間が必要だったんだろう。

 それが何か解るまでに。


 意識はあった。瞳の裏側、脳髄を巡る自分の言葉。意味。思考。

 でもそれが全部で、他には何もない。

 見えない。聞こえない。触れられない。

 意識の外からは何も受け取れないのだった。映像も音声も味も匂いも触感も。

 一体、それは何だろう。これは、この状況は、何と呼べば良いんだろう。



 十の宿 冷たい誰かの手



 白い小さな花びらかと思ったそれが空から舞い落ちて風になびいて。

 見回すと同じようなその欠片達が無数に空を漂って、次々に大地へと降り積もっていく。


 雪を見たのは久しぶりだった。実家周辺では真冬でもあまり降らないし、ましてや積もることなんて何年かに一度って程度だったから。

 なのでまさか、ここ五日宿の周辺地域に降る雪がこんなにすごい速さで地面を覆って行くだなんて全然思いもしなかった。窓の外、ほんの少し前は緑褐色に見えてた山肌と地面と木々達が、今はもう真っ白に染まってしまっている。


『可能なら早めに出た方がいいよ』

 早朝、バイト先へと出発する際に聞いた先輩の言葉を私は思い出して焦る。荷物はだいたいまとまったから、後は電車の時間に合わせて駅方面へのバスに乗れればいいんだけども。

『鈴芽ちゃん大丈夫? 困ったらウチに避難しておいでよ!』

 大家の春香さんからはそんなメールが届いてた。奈津美ちゃんと明くんも、昨日似たようなことを言ってくれてたけど、でも明日はご家族でクリスマスパーティーするって聞いてたし、もし今日帰省できなかったとしたら色々お邪魔なんじゃないかと思って気後れする。


『ありがとうございます。でもどうにか頑張って帰ってみます!』

 春香さんにそう返して、荷造りの仕上げに取り掛かる私。大丈夫、ちゃんと実家まで一人で帰れるはず。

 そういえば、この夏の帰省は楽しかったな。先輩が実家まで来てくれたから、長い電車旅も苦じゃなかったし、家でも色々話せたし。


 うん……。楽しいことばかりじゃなかったのも覚えてる。忘れてない。

 でも、だからこそやっぱり、先輩といられて良かったと思う。辛いことも哀しい思い出も、怖い想いも色んな失敗も、全部そこに確かにあったことで、それをあの人と一緒に感じられたのは幸せなことだ。間違いなく。


 この年末年始の帰省も一緒にウチまでっ……て訳にいかなかったのは仕方ない。だって神社は一年で一番忙しい時期だから。特に大晦日は大変らしい。五日宿北集落とその向こう側にある隣町からも多くの参拝客がやってくるそうで、去年はほぼ徹夜で元日の夜まで働き通したって、先輩はため息交じりに話してくれていた。勿論、その分の手当てはしっかりもらったそうだし、今年は事前におみくじや御札を念入りに仕分け整理して効率的にお客を捌くんだ、とも。まあその為に今日も早くから神社に詰めちゃってるんだけれど。


「……よし」


 荷造りはOK。忘れ物も多分ない。時間もちょうどいいし、今から出よう。

 バッグを肩にかけて部屋を出る。向かいにある先輩の部屋の引戸をちらっと見て、

「行ってきます」

 と告げる。もちろん返事はないって分かってる。でも自然に出た言葉だった。

 それから階段を降りて、ドアを開ける。


「わっ……!」

 雪が真横に高速スクロールして見える。地面にはまだ薄く積もってる程度だけど、風がものすごい。これっていわゆる吹雪ってやつなんじゃないかと思ったけど、大丈夫なんだろうか。五日宿の冬の景色としては日常的なレベルなのかな? どうだろう。


 とりあえず、足を滑らさないよう注意しながらバス停まで歩いた。

 トタン壁がカタカタ震えてるけど、それでも十分に風よけにはなってくれてるから助かる。コートにくっついた雪を手で払って、ベンチでバスを待つ。

 ……あれ?

 時間はさっき、着いたときに見て、今ももう一回見たけど……おかしいな。

 雪が駆け抜けてゆく道路を覗き込む。バスの来る様子はない。時計は、予定時刻をけっこう過ぎていた。もちろん、私が着いた直後にはまだ余裕があったけど、その間にバスが通り過ぎたりもしていない。どうしたんだろう……。

 私はそこでもうしばらく待ってみた。すると逆方面からバスが走ってきて、私の目の前で止まった。

「横沢さん、もしかして駅方面のを待ってる?」

 たまに顔を合わせる運転手さんが、ドアの向こうからそう声をかけてくれた。

「あ、ハイそうです!」

「ご免なぁ。今日は運休だよ。この吹雪でな、座間峠あたりでもう視界が確保できなくて危ねぇってんで、あっちからは来れねぇんだそうだ。このバスも、もう回送して終いだ」

「えっ! そうなんですか?!」

「大丈夫かい? 家には帰れるかい?」

「あ……はい。アパートまではどうにか」

「分かった。気をつけてな!」


 ドアが閉まって、バスは走り出す。私はなんとなくそれを見送ったけど、白い雪の膜がバスと私の視界との間に何重にも重なって、赤いテールランプの光もどんどんぼやけて、消えていってしまう。

 時計を見た。ちょうどお昼頃なのに、空はもう既に薄暗い気がする。

 とにかく、ここでぼんやりしててもダメだ。アパートに戻らなきゃ。

 バッグをもう一度肩にかけて道へ足を踏み出す。

「……うっ……」

 風が真横から吹き付けてきて、その圧力が身体全体にかかる。飛ばされるとか倒されるとかってほどじゃないけど、歩行は十分に邪魔されるくらいの強さ。

 あー、そうだな。先輩なら飛ばされちゃうかも。

 ふふ。吹雪に乗って空飛ぶ先輩をコメディタッチに想像するとちょっと楽しい。

 まあ冗談はさておき、先輩の方は大丈夫かな。雪分神社はこの少し北の盆地にあるから、夏は暑いけど冬の雪はこの集落より少しマシみたいなことも言ってた気がする。何にしても、アパート着いたらまた連絡しなきゃね。バスが来ないから帰れなくなったって。


 あー……帰れなくなったのか。

 何だろう。あれ? 変だな私。


 そんなに残念じゃないって、思ってるかもしれない。



 ***


 

「バスが運休して、帰省できなくなっちゃいました。今はとりあえずアパート戻って来てます」

 と先輩にメールを打った。先輩はメールが苦手だから普段は通話で連絡するんだけど、今日は多分忙しいだろうから。それにバスが動かないってことは、先輩も今晩はアパートに戻れないってことだ。私がアパートにいても、実家にいても、先輩にはあまり関係がないはずで。

 でもなぜだか私は変な予感があった。予感っていうか、期待みたいなものかもしれない。


「あ、お父さん? ごめん。こっち吹雪でさ。バス止まっちゃたから今日は帰れない。……うん。大丈夫。大家さんちもすぐ側だし、帰れるようになったらまた連絡するから。……うん。分かった。お母さんと葉太によろしく。じゃあね」

 と、実家に連絡を入れたときにも自然と含みを持たせてしまった。いつ帰れるか分からないって。そう言っておけば口実になるから。

 先輩と年末年始を過ごせるかもしれないっていう。

 あー……やっぱり私はそんな不埒なことを考えてしまってるんだな。やっと私は自覚した。

 思えば天気予報で雪が降るって知ってたのに朝一番のバスに乗らず、モタモタ準備してたのもそういう理由だったんだろうな。……自業自得だわ。


 かたかたと風に震える窓を見つめながら、先輩からの連絡を待つ。でも、それはすぐには返ってこなかった。仕方ないからとりあえず備蓄の食料とかを確認する。あ……帰省予定のせいでお米もカップ麺とかもほとんど残ってないや。お菓子程度ならなくはないし、一日くらいはどうにかなるけど、それ以上は無理だな。直売所にもこの吹雪じゃ行けないだろうし。最悪、大家さんちに避難を考えないとダメかな……。

 とりあえず横になって、電車の中で読むつもりだった漫画をめくる。それを読み終えて、寒くなってきたから熱いお茶を淹れて飲んで、トイレ行って、それから携帯に先輩からの連絡が来てないかなと確認しようとした、ちょうどそのときだった。


 ふっ


 と、一瞬で部屋が真っ暗になったのだ。

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