八の宿 「おどろ岩」 その五
「あ、いや……もし言いにくいことなら……」
「多少はね。でも、こういうことについて切り出すタイミングを探るくらいなら、すぐに伝えた方がいいって言ったのは私だから」
「ああ……はい」
私はお昼ご飯のときの、先輩の口元についていた米粒のことを思い出す。
先輩は「ケースバイケースだろうけど」と小声で付け足しながら、メモ帳をポケットから取り出して、挟んであった地図を広げた。
「これは五日宿西地区のほぼ全域の略図だ。今日は主にこの辺りを回ってて、東地区には殆ど足を踏み入れてない。分かるね?」
「はい」
「おどろ岩は邪魔峠。つまり西地区の南側にある。そして伝承では、おどろは旅人を害したと言われていた。何故だろう?」
「え……なぜって……」
「だって、五日宿は古くからある集落なんだよ? ここから南下した麓には城と城下町もあった。もちろん旅人も多く通っただろうけど、鬼であるはずのおどろは何故『旅人だけ』を襲ったんだろう? 村人ではなく、旅人だけを」
「……あ」
「襲われたのは旅人で、戦ったのも旅人。そして最終的に騒ぎを収めたのも旅の尼僧だという。つまり、この伝承には周辺住民が登場しないんだ。次に、なぜ岩なんか落としたんだろう?」
「でも、それは……」
「鬼だから手強かった、だから岩を……というのは分からないでもない。でも、伝承にはこうある『岩になったおどろには、刀も言葉も通じない』と。逆に言えば、それまで刀や言葉が通じてたってことだ。そんな相手に岩を落とす必要があっただろうか? しかも、罠としてだ」
先輩はそこまで言うと一旦言葉を切る。その瞬間、冷たい風がざあっと、山の木々を撫でて揺らした。舞い散る、紅い木の葉。
「私はね、おどろ岩をもっと別の何かだと考えている。例えば『おどろ』は鬼なんかじゃなく、この五日宿の村民だった。という考えもその一つ」
「…………!」
地図から瞳を上げて先輩はそう告げた。私は言葉が出ない。
「そう考えると『おどろ』という名も暗示的だね。驚かす、騒がす。という意味の『おどろ』。個人じゃなく複数人の盗賊団か、一揆衆か。とにかくそれは西地区を拠点にしていて、その後滅ぼされたという説だ」
黒い瞳に紅い夕焼けの色を滲ませながら、先輩は言葉を続ける。
「事実、五日宿西地区の村民が主導した一揆を、東地区のある神主が領主に密告して決起前に処罰させたという伝承が今も残ってる。その首塚に使われた大岩が西地区の山林に今もある。ともね」
「!……それって……」
「確証はないけど、だから軽々に書くこともできないんだ。今を生きる私達にはそう関係ない話かもしれない。でも古い世代には地区ごとの諍いに対して未だに過敏な人も多い。……おどろ岩からさっさと立ち去ったのも、それが本当の理由だよ」
「あ……。だから?」
私は思い出す。あの時の不自然な、先輩の所作を。
「実際に追って来たのは西地区の老夫婦だった。だから昔話の『おどろ岩』を見たと伝えても害はない。でもあれが東地区の神職とかだったなら、少し面倒なことになったかもしれないね」
瞳を僅かに伏せて、でもきっぱりと、先輩はそう語る。それから、
「ごめん、面倒な話に巻き込んで」
と告げた。私の目を真っ直ぐに見つめて。
「いえ、別に……ていうか、私が色々突っ込んで尋ねすぎたから」
「それが嬉しくて、嬉々として語ってしまった私の方が、罪は重いよ」
首を少し傾けて、申し訳なさそうに先輩はそう言った。言ってくれた。『嬉しくて』と。
ああ、真倉先輩でもそんな風に思うのか。なら……
「分かりました。じゃあ、おどろ岩の写真は諦めます。本に書かれないのも」
「ああ。そうしてもらえるかな」
「はい、もちろん」
私は頷く、それから顔を上げて、
「それに、今のはあくまで一説で、おどろ岩が首塚だって決まった訳でもないんですよね?」
と言った。半分は自分に向けて、言い聞かせるように。
「うん。伝承や口伝だって伝わるうちに変わったり曲解されるものだからね。真実は分からない。分かるのは今に残る事実だけだ」
先輩も薄く微笑んで、そう言ってくれる。
だけど、
「あの場所にあの岩があったという事実。それと、道神様の示す、事実」
「えっ……道神さま?」
不意打ちのような言葉。同時に、山の端から射す夕日の、最後の残光。
その紅い光が、先輩の手元を照らす。
地図には描かれていた。おどろ岩の正確な位置と、道神様達の位置。それに向きとが。
「あ……っ……!!」
「これだけ厳重に護られている何かが、あの岩にはある。確かなのはそれだけだろうね」
先輩はそう言って地図を閉じると、振り返ってまた、歩き出した。
私はそのすぐ後に続いて歩きながら、ただ意味を考え、探して、想う。
全ての道神さまの顔が取り囲むようにあの岩を睨んでいた。その意味を。




