一の宿 「閉塞」 その二
……だから私は、もう一度ここに来たんだ。
昨日の夜に見たものの正体をどうしても知りたくて。
正直怖い。怖いけど怖いままにしたくもないし、気になっちゃったものはハッキリさせたくなるじゃない。
一応準備はした。直売所へ今日の午前中にもう一度行って、お塩(と、お隣さんに差し上げる手土産の粗品)を買った。何か悪いものだっていうなら、これで清めたりできるかもしれない。よく知らないけど。
あとは野菜と一緒に売ってたお花も一輪、分けてもらった。ちょうどお店に来てた人達の話も小耳に挟んだから。
(「春ちゃんの娘さんが……」)
(「そう、あそこに落ちたんよね。かわいそうに……」)
(「でももう、鉄板で塞いでるから……」)
春って呼ばれてたのは、春香さん……大家さんのことかな。勿論、全然違うかもしれないし、この岩と鉄板のことを言ってたとも限らないけど。
でもここにはまた新しいお花が供えてあった。
それにさっき、この小道から出てきたのは……大家さんだった。
なら私は、ここに来ることをあまり怖がるべきじゃない。そんな気もしたんだ。
私は、持ってきたお花をそこに置いた。多分、大家さんが置いたと思われるお花の隣に。それから手を合わせて、目を閉じた。そしたら、
ざぁああああああああ
って、竹藪全体が鳴った。
それは風が葉を揺らす音のはずだ。だけど私には違って聴こえた。人の声とも違う。この竹林か、山そのものの声みたいに思えた。
私は目を開ける。茶色い地面を転々と照らす光が、踊るように揺れて見えた。
「…………誰?」
背後から声がした。
振り返った私は見た。緑の柱の神殿みたいな竹藪の中で、白く光に照らされたその人を。黒い髪の小さな女の子を。
それは確かに、昨晩見たあの女の子だった。
「あなた……誰?」
それは確かに、その女の子の声だった。きれいな、澄んだ音。
ううん、声だけじゃない。その子の真っ黒な髪と真っ黒な瞳。それとは対照的に透き通るような白い肌の色。全部、どこかとても非現実的に見えた。それくらい、全部、きれいだって思えた。
それから……
「あ、もしかしてお隣さん? はじめまして。201号室の真倉です」
と、その女の子は言ったのだ。とても現実的な言葉を。ハッキリと。
***
「…………えーと、つまり。はい……そうです」
私は真倉さんの後ろを歩きながらそう言った。ああぁ……恥ずかしい。
「なるほど。とりあえずね、大家さんの娘さんは亡くなってないし、怪我も大したことないから安心して」
竹藪の中、射し込んでくる陽光に、肩口で切り揃えられた髪を黒く輝かせながら、真倉さんは落ち着いた声でそう諭してくれた。
「えっ、本当ですか?」
「うん」
「よかった……」
私は心からそう言う。つまり私の想像は外れたわけだけど、勿論あんな不埒な想像なんかいくら外れても構わない。大家さんの娘さんがあそこで亡くなってて、その幽霊が夜になると出てくる……だなんて想像は。
「あれは確かに軽い事故の現場にもなったけど、人は死んでないしお墓でもないよ。この辺では珍しくない、古い浅井戸。ただ、使わなくなった井戸を放っとくのは危険ってことになったから、ちょっと前に塞いだんだよ。で、今はお祓い中」
「お祓い?」
「うん。井戸には水神様が宿るって言うから、地域にもよるけど、閉じて塞いだときにはお祓いもするんだよ。今は大家さんと私が、お花やお神酒を定期的に捧げてるけど、それももうすぐ終わるよ」
真倉さんは竹の枝を軽くかき分けて歩きながらそう教えてくれた。
「ああ、じゃあ昨日の夜に見た女の子も……」
「多分それ、私だね。亡くなった子どもの幽霊にでも見えた?」
「ご、ごめんなさい!!」
「いいけどさ、慣れてるし」
真倉さんは何でもないって風にそう言って流してくれる。すごくきれいな声で。
うーん、美人さんだ。しかも物腰はすっごく大人で、かっこいい。
私がかなり背を屈めないと通れない藪の中の道を、難なくすたすた歩いて行けるくらいに小さくてかわいいのに。すごいな。
「横沢さんだっけ。学生?」
「あ、はい。木舟町の専門に今年から通います」
「なら、高校出たばかり?」
「はい。真倉さんは?」
「今年で大学2年。このアパートも2年目だから、分からないことあったら聞いてくれていいよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「ただね」
「はい?」
「このアパートっていうか、この町かな。嫌になったら早めに出た方がいいかもね」
竹藪から抜け出した真倉さんと、その後に続いた私。その私に向かって、真倉さんはアパートの建物を背にしてそう言った。口調も、声のトーンも変えないままに。
「え……と、それは?」
「言葉通りの意味だよ。けど、冗談みたいにもし聞こえてたら、そう取ってくれてもいい」
黒い瞳が、こっちを真っ直ぐ見てた。言葉の上ではそう言ってるけど、冗談には聞こえない声。つまり、それは真面目にそう言ってるってことで。
でも、何でそんなことを言うんだろう。言葉通りってことは、早く出て行けってことだよね? ……いやいや、待って、そうじゃない。
「嫌になったら……って、まあ、そういうこともあるでしょうけど……」
私は言葉を選びながら答える。
「でも、『早めに』っていうのは、どういうことですか?」
私は聞き返した。そうだ、言葉通りだっていうなら、引っかかるのはそこだ。
町が嫌なら誰だって自分の意志で出ていくはず。それを早く決めた方がと、目の前の、一年早くここに来た人が真面目に警告してくれてるのだ。なぜなんだろう。
「うん。そう、そこなんだよ」
よく気付いたね。って続けそうな表情で、真倉さんは視線を上に向けた。空、左右の山と木々、それから私の肩越しにさっき抜けてきた竹藪とを順に見て、
「出て行くのが難しくなるんだよ。この町は。こんな田舎で、息が詰まるくらい閉塞的な所だっていうのに……なぜだかね」
と、今度は本当に冗談だよって風に言った。
それからもう一度私をちらっと見た真倉さんは、その黒い眼をすっと閉じて、軽くため息を吐いた。
「ごめんね。変なこと言って」
「あ、いえ。全然」
「そう?」
「はい」
私が言い淀まずにそう返すのを聞いて、真倉さんはまた眼を開けた。
「真倉さんは、1年早くここに住んでるんですから、それはつまり、先輩としての忠告ってことですよね?」
「うん。まあ、そうだね」
「だったら変じゃないです」
「そうか、なら良かった」
私がきっぱり断言するのを聞いて、真倉さんは少しだけ微笑んだように見えた。
後になって、私はこの会話を何度か思い出したけど、その際は「あれ?」ってやっぱり思い直してしまった。確かに変だ。初対面の隣人同士がする会話じゃない。
だけどこのときは、目の前のこの人の言葉が、妙な真実味を帯びて聞こえたのだ。
それはもしかすると、あの竹藪の神殿の中で、初めてこの人をハッキリ見たときに感じた、あの非現実感のせいかも知れなかった。
「横沢さんはさ」
「あ、鈴芽でいいですよ」
「じゃあ、鈴芽さんはさ、お化けとか幽霊とかは、それなりに信じる方なんだ?」
「あー……はい。そうですね」
ここまでの話の経緯からすると、そう思われても仕方ないかな。それに、あんまり間違ってもいないし。
「宗教とか霊魂とかって、そういう方面のことは分からないですけど、いてもおかしくないかなってくらいには、信じてるかも、です」
「そういうものを実際に見たことは?」
「えーっと……ないですね」
「そう。見たことはなくても、信じないわけじゃない、か。いい心がけだね」
「真倉さんは信じてるんですか?」
「うん」
あっさりとそう答えられた。
「引く?」
「……いいえ」
「なら良かった。正直に言ってさ」
そして、今度はさっきよりもっとハッキリ、真倉さんは微笑んだ。すごく整った、きれいな笑顔で。でも、何だろう。ほんの少し不自然な違和感みたいなものも感じる。
気のせいかな……?
まるでその黒い目の奥に、何ていうか凄く優しいのに寂しい、夜の闇みたいなものが見えたような。そんな感覚が胸の内側をかすめた。
なんの理由も根拠もなく。
それから私達はまた、そろそろと歩き出した。アパートの表側へと回って、玄関を開ける。
「大学での専攻もそういう方面なんだ。宗教とかじゃないよ。伝承とか民俗学なんだけどね。そういう、当たり前に生きてきた人の心の中の話で。分かるかな?」
「はい」
靴を脱いで整え、木の階段を上りながら、分かりやすい整った言葉ときれい声で真倉さんは続ける。
「そこには確かにいるんだよ。不思議な存在が。それを無下に否定したくないし、もっと正確なことが知りたいんだ」
「それで、この町に?」
「うん。実家もそう遠くはないんだけど、ここが一番いいと思った。ここには古い史跡や伝承が色々残ってるからね」
淡々と真倉さんは語る。そう言われてみれば、今日までに見て回った村内のあちこちに、何だか古そうな石碑やお地蔵様みたいなのが置かれてたような気がする。
「お隣さんが理解ある人で良かったよ。今後ともよろしく」
「あ、はい。こちらこそ」
互いの部屋の前で差し出された白い手。私はそれを握った。
「……あ…………」
「どうかした?」
握った手を私は離す。そして、振り返りながら言った。
「……ごめんなさい! 忘れてた!」と。
「え?」
「引っ越しの手土産です!! すみません。すぐ持ってきます!!」
「あ、いや。そんなのいつでも……」
真倉さんの声を背中で聞きながら私は引戸を開けて自分の部屋へと入る。
別に嘘を吐いた訳じゃなかった。
実際、私は忘れてたのだから。直売所で買った洗剤セットひと箱、それを渡すのを。でも。
驚いて、それをどうにか誤魔化そうとして言い訳に使ったのが、本当の本当だった。
冷たかったのだ。
真倉さんの手が。すごく。驚くほどに。
それは多分、冷静に考えたら大したことじゃないはずだった。季節はまだ春になったばかり。夕方にもなれば気温は十分に下がるし、真倉さんの体温や血圧が、その楚々とした外見同様に穏やかなら、別にそんなに不思議な事でもない……はず。
でも。
「はい、これ……良かったら使ってください」
「わざわざありがとう。じゃあ、遠慮なく使わせてもらうよ」
笑顔で受け取ってくれたその人の手に、私の指がもう一度触れた。そのとき感じた温度は、今度は、
その笑顔の通りに、柔らかくて、温かかった。不思議なほどに。