八の宿 「おどろ岩」 その四
邪魔峠は五日宿の南西部にあたる場所で、そのバス停から北東方面に向かう路線に乗ると、私達のアパートの裏手側にある山の中腹にまで行くことができた。
「まだ歩けるのかい?」先輩が聞いた。
「バスに乗ってる間に休めましたから、大丈夫です」私はそう答えて微笑む。
その山は春先に、先輩と上ったところだ。『宿りの家』の穢れを払ってくれた場所。
山道を頑張って登りきると、西の方に沈もうとする夕日と、それに照らされた道神さまの祠とが見えた。
二人で手を合わせて、目を閉じる。私は感謝の言葉を心の中で響かせるようにして祈りながら。
先輩はどうなんだろう? 目を閉じてるから見えないし、勿論、心の中でどんな風に祈ってるのかなんて分かるわけもないけど。
「実はここには結構来ているんですよ」
目を開けてから、私はそう言った。
「そうなのかい?」
「はい。お花とか簡単にお供えして手を合わせる程度ですけど。景色いいし、運動にもなるし」
「いい心がけだね」
「先輩に言われましたから」
付き合いを続けていけば太くて強い縁になる。先輩はあのときそう言った。それは逆に、付き合いを断てば縁が弱くなるってことだと思ったから。
五日宿を去らないという決心への、自分からの後押しみたいな意味も込めて、私はそうしていた。できる範囲っていう程度だけど。
「こっちの方に来てごらん」
先輩が手招きする。山の端に、沈もうとする夕日が映える。
「うん……綺麗だ。確かに景色がいい」
「ですよね」
「ここの朝日は見たことあるかい?」
「いえ。だいたい昼前か、夕方に来てたので」
「夕日もいいけど、朝日はまた違う美しさが感じられると思うよ」
言いながら先輩は髪を指でさらりと梳く。その白い指にも、丸い頬にも夕日の紅色が彩られて見えた。
「じゃあ、いつか見てみたいです」
朝焼けは紅より碧に近い色だろうか。それとも、夕焼けが油絵なら、朝焼けは透明水彩みたいな感じかな? 朝靄に溶けるような、紅くて少し碧い情景。それは素敵だろうなと思い描きながら私は答える。
「まあ、寝坊助の君には難易度が高いか」
そんな私の想像を、先輩の少し意地悪な言葉が遮った。
「そんなことないですよ。起きようと思えば起きられます。今日だって超早起きしましたし」
「まさか君、今日の朝やたらと張り切った恰好してると思ってたら、朝っぱらからおめかししてたのか」
反論する私。茶化す先輩。
「だって先輩と出かけるの楽しみだったんですもん」
「それなら悪いことをしてしまったね、今日は変なことに付き合わせて」
「や、いやいや、まあ最初は驚きましたけど、でも楽しかったですよ」
私は本心からそう言う。そしたら、
「楽しかったなら良かったけど」
と、先輩は照れるように一度、少しだけ顔を伏せ、そのまま
「帰ろうか。秋の日はつるべ落としと言うくらいだし。暗くなる前にね」
と言いながら、下山道へと歩き出した。
「はい」
私もすぐ後ろに続く。
そうしてアパート裏の竹林へと続く道を歩いた。木の葉を踏みしめながら。
流石に一日の疲れが出たからかな? 口数も少な目に。
でもその山道を半分と少しくらい降りて来た頃に、先輩はまた言葉を切り出した。
「私はね、将来ここの郷土誌を出したけどいと思っているんだ」
と。
「郷土誌って、本ってことですか?」
私は高校の図書館の入口付近にそんな見出しの本がまとめてあったような記憶を掘り起こしつつ、聞き返す。
「うん。既に先人が編纂したものは街の図書館とかに何冊かあるけど、それらでは触れられていない時代や地域、伝承や伝奇について、特記したものを纏めたいんだ」
「じゃあ、今日とか、今までに調べてたことなんかも……」
「いずれは本の形にできる……かもしれない。分からないけどね」
「素敵ですね」
「どうだろう。やり甲斐のある仕事だとは思ってるよ」
顔を前へ向けて歩き続けながら先輩はそう語った。照れてるのかな? 妙に事務的で、他人事みたいに。
「私もその協力者ってことになるんですよね?」
私は軽めのトーンで、そう聞いてみる。
「うん。本になった暁には、名前を載せさせてもらうだろう」
「今日撮った写真が使われたりも?」
「いい写真ならね」
半笑いの混じった軽い返答。でも嘘っぽさは感じない。なら先輩は……きっと本気なんだろう。
あっでも……。私は思い出す。
「そう言えば、おどろ岩の写真だけ撮りそこねたんだった。どうします? またいつか、撮りに行きますか?」
「いや、あれの写真はもういいよ」
先輩は特に思案もせずにそう言った。
「何でですか?」
「うん……多分、おどろ岩については書かないから」
「……えっ」
確かにあの場所にあったのに? 今日一番の調査対象だって、言ってたのに。
そんな私の思案をよそに、麓への道を歩き続ける先輩。その黒い小さな後ろ頭が、不意に振り返って言った。
「理由を言おうか」
と。少しだけ迷ってるような、困ってるような表情で。
黒い大きなその瞳は、夕焼けが透けてるみたいに仄かな紅色を帯びて光って見えた。




