八の宿 「おどろ岩」 その三
「さて」
その、最後にしようといったお地蔵を調べ終えた直後、先輩はメモ帳を畳みながら言った。
「今日最後の調査に挑もうか」
と。
「え?」
私は聞き返す。
「このお地蔵で、最後ですよね?」
「ううん、このお地蔵の次が、最後だよ。そう言わなかったっけ」
しれっと笑顔でそう返す真倉先輩。ああもう、悔しいくらい可愛いなこのひとの顔は。
「まだ、この先に行くんです?」
「いや、ここを降りるよ」
ガードレールの手前、お地蔵さんの目の前に、ほんの小さな降り路があるのを指さしながら、先輩はそう言った。
マジですか先輩。
「方角的に、多分間違いはない。この先にあると思うんだ」
「何がですか?」
「おどろ岩だよ。それさえ見つけられたら、今日の調査は百点満点なんだ。勿論、君はここで待っててくれてもいい。疲れてるだろうし、それに怖いだろうから……」
「怖くないです。行きましょう」
目を伏せて私は断言する。
「後悔しないかい?」
「しません!」
「了解、なら行こう。例によって足元には気を付けて」
そう言いながら微笑んで、先輩は手を差し出す。
「はい」
後悔だなんて、しない。するはずない。そう思って。そう信じて。
私は先輩の冷たい手をきゅっと握りながら、その小路を降っていった。
一歩ずつ、下へ、下へと。
***
鬱蒼……っていう言葉はこういう情景のことを指すんだろうなって思った。
晴れてるはずの空。なのに届かない光。鳴ってるはずの優しい音達。なのに冷たくて静まり返った空気。
そんな暗さと寒さ、静けさに満ちた杉林の中に、その岩はあった。
「これが、そうなんですか?」
「どうかな……確実なことはまだ、言えないけど」
古いしめ縄が周囲をぐるっと一回りしている。それ以外に、人工的な装飾や彫刻なんかは見当たらない。苔むした、古い大きな岩。
「えっと……これも高さを?」
「いや、それはいいよ。第一、君の背丈よりも高いから正確には測れないだろう。写真だけお願いするよ」
先輩はコンパスで方位を確認し、それからメモ帳に何かを書き記しつつそう言った。私は「はい」とだけ返事をして、岩の写真を撮る作業にかかる。
大きいな。もう少し下がらないとフレームに入りきらない。それに周りが暗すぎるからフラッシュも要りそうだ。私がそんな風に、どう撮ろうかと考えていると
「いや、やっぱり写真はいいや。戻ろう」
と、先輩が急に顔を上げて言った。
「え?」
「こっちへ、急がなくていいから。カメラだけ仕舞って」
「は……はい」
私は言われた通りにする。
「いいかい。多分慌てなくていいから、普段通りにしてて」
「……何が……どうしたんですか?」
「……が来てる」
小さく先輩がそう呟いた。…………えっ?
何が? 何が来てるんですか? と聞き返すよりも先に
「石碑もこれで一通り巡り終えたし、いい調査ができたよ。ありがとう」と、真倉先輩の柔らかな声が響いた。
「興味深いのはさ、五日宿の東側と西側で石碑の様式が微妙に異なってるってことなんだ、ほら、気付いたかもしれないけど……」
普段通りの、少し饒舌になったときと同じか、それより少しだけ高めのトーンで先輩は語り続ける。歩調はゆったりと、まるで散歩でもしてるみたいに、穏やかに。
でもそれは私にとって、言いようのない違和感を与えた。だって、何で急に? 何かが視えたの? それに、『来た』って……何が?!
「……石材自体はかなり似たものがどの時代でも使われてるんだ。何故なら五日宿周辺の石切り場は多くないからね。でも土台と本体との体積比や積み方を見ただけでも……」
私の返事を待たずに続ける先輩の声だけが、林の中でりんと響く。
それは強制された静けさだった。鬱蒼と広がる木々を満たして支配する音のようで。
私の声も、二人の足音も、冷たい風の音も、全部上書きしてるみたいに思えた。
その、無理矢理作り出された静寂を切り裂くように、
「……お前んだなんでこんなとこにいるんだ? 何にもないべえ!!」
と、声が響いた。私達の前方から。
***
「本当に何でまだこんなとこによぅ……」
お爺さんはまたそう言った。五日宿のお年寄りでもそんなには使わない、なまりの強い言葉で。
「この辺りの石碑なんかを調べていたんです。大学の課題で」
先輩は余所行きの涼しい顔でそう返す。私は頭を下げながら、
「あの、勝手に入ってしまって……ごめんなさい」と、どうにか口にする。
「そりゃ別にええだよ。そういやあんだら、春香ちゃんのアパートさ住んでだ子達か。勉強熱心だなぁ」
お婆さんはお爺さんの隣で額の汗を拭って一息ついてから、冷静にそんな言葉をくれた。
どうも、私達は道迷いの遭難者だと思われたらしい。道路から下の山林に降りてゆくのを、上の果樹園で作業していたお爺さん達夫婦が見つけて、追いかけてきたのだと聞かされて、本当に申し訳ないなと思い、後悔する。なるほど……先輩が『来てる』って言ったのは、この人達のことだったのか……。
「んで、目当てのモンはめがったべ?」
と、お爺さん。
「ええ、見たいと思っていたものは、一通り」
先輩は背筋をすっと伸ばしてそう答える。
「ここら、だいしだモンながろ」
お婆さんは笑いながら首を横に振った。
「いえ、あの上の道のお地蔵さんとか……」
私は喉元付近に漂う申し訳なさを振り払うように、思いついたことをただ口にする。すると、
「道神さまか?」
お爺さんが、ふいと顔を上に向けて、そう言った。道神さまって……確か……。
(「……そういう神は一般的には屋敷神と呼ばれているけど、この地方ではミチガミと呼ばれている。名前の通りで、道の神様だね」)
春に先輩から教わった、山の上の祠の神様のことだ。確か、お地蔵様は仏教のものだから、神様とは違うんじゃないかと思ったけど。
「ええ、道路が新しく造り直されても、場所は動かされていなかったようなので、調べ易かったです」
先輩がするすると言葉を補足してくれたので、私はうんうん、と頷くだけにして、余計な言葉を飲み込む。そう言えば神仏混交……だっけ、この辺りでは仏様も神様も変わりなく扱われてるって先輩が言ってた気がする。
「昔からあるもんだからなあ。動がして悪いみたいなことは聞かされてたけど」
お爺さんの声。ちょっと野太いけど、威圧感とかはない、優しい口調。
「それと、おどろ岩についても調べていて」
「おぉ?」
えっ。
先輩がその岩のことを口にして、お爺さんとお婆さん、それに私も少し、驚く。
それ聞いてもいいんだろうかと思った。先輩が急に調査を切り上げて、何食わぬ感じで引き返したから……てっきりおどろ岩のことは隠しておきたいのかと思った。けど、
「なんだあんなとこさ行ってきたのが、今はもう誰も近づかねえよ。」
お爺さんは口調を変えずにそう返した。
「あれも昔からあるんだ、あの辺は山が近いから動物どがいっぱい住んでてよ、変な鳴き声とかよく聞こえてくるんだっけ」
お婆さんも、驚きはしたものの別に咎めたりもせず、普通に話し続けてる。
「だからあの岩よりも奥さは進んで悪いとか脅されてたなぁ」
なんだ、それじゃ別に隠すことも怖いことも、何もなかったんだな。
「もしかして、その変な鳴き声って、おどろの鳴き声とかだったかもしれませんね」
私はそう言ってみる。
「んだがもなあ」
「あはははは」
お爺さん達夫婦の柔らかな笑い声が響く。その先に、峠の道路へと続く小さな上り路が見えた。




