八の宿 「おどろ岩」 その一
おろしたてのワンピースにお気入りのショールを羽織って、髪にもしっかりと櫛を通して、グロスとファンデーションを薄く伸ばして。
それから、一歩引いて全身を姿見に映してみる。うーん……悪くはない……って思いたいけど、どうだろう?
時計をもう一度見た。もう何分もない。なら、うん。これで行こう。決まり!
バッグを手に取り、忘れ物がないかの最終確認。パスケースよし。おサイフよし。あと……あ、携帯!
充電機に繋ぎっぱなしだったそれを急いでバッグに入れたのとほとんど同時に、入口の引戸をノックする音が二回、とすとすと鳴った。
「おはようスズ。準備はいいかい?」
「はい先輩! お待たせしました!」
私は裏返りそうになるのをどうにか抑えた声でそう答えて、自分の部屋の扉を開けた。先輩のかわいい顔が、その向こうで待っていた。
「おや……その恰好で山道を歩くのは、少し難しいかもね」
「え……?」
先輩のその奇麗な顔の下に、長袖のワークシャツ&パンツの淡い土色が見えた。
「ああ、ごめん。どこに行くとも言ってなかったっけ。今日はここら近辺の旧い石碑巡りをしたいんだ。勿論、君が嫌なら……」
「いえ……着替えます! もうちょっと待ってください!」
「あ、うん」
ぱしんと引戸を閉めた私は、大急ぎで普段着の収納ボックスを開けて、雑に畳まれた衣服の中で一番動きやすそうなやつを選び出すのだった。……デザイン度外視で。
八の宿 おどろ岩
先輩がバイト先から電話をくれたのが、昨日の夜。
『明日、バイトは無しってことになったから、出かけようと思うんだ。君もどう?』
たったそれだけの言葉に二つ返事で答えた私。
学校や課外やアルバイトやらで、ここ何日も会えないでいた先輩が、やっと空いた休日にわざわざ私を誘ってくれたんだからと舞い上がってしまったのがこの失敗の原因だった……んだけども。
「見えて来たよ、次はあれだ」
坂の中腹に見える灰色の構造物を指さす先輩。
「あ、はい……」
それに答えて呟く私。
普通はね、思わないじゃないですか? 若い女学生が休日に二人で田舎の石碑巡りするだなんてさ。
まあでも、実際にやってみると思ったよりも楽しかったりした。十月の里山は暑すぎず寒すぎず、ところどころに見え隠れしてる紅く染まりかけた木々達も鮮やかで。地図とコンパスとを頼りにバスと徒歩とで目的地を捜し歩くっていう行為も何となくゲームっぽかったりもするし。何より、
「よしよし。これも地図の通りだった。幸先良さそうだ」
抜けるような秋晴れの空の下、涼しげに笑う真倉先輩の笑顔は、いつも以上に眩しく見えたから。
「写真、お願いしていいかな。あとサイズをこれで測って欲しい」
「あっハイ。えっと……」
「写真は全体が入るように、正面からと左右からで二枚ずつ。背後に回れる場合はそれも撮って欲しいけど、これは崖を背にしてるから無理だね。サイズは地面からの高さだけ測ってもらえたら、あとは写真から逆算するよ。測った高さはこのボードに書いて、最後にボードごと正面のアップ写真を一枚。よろしく」
「わ、分かりましたー……」
先輩はそう指示しながら取り出したメモ帳に何やら書き込んでいる。石碑の文字……かな? 私には読むのも難しい字体を、苦もなく読み解いて書き写してるんだとしたら、すごいな。
私は言われた通り、細長くて四角い岩の柱を自分のデジカメで撮って、長さを測る。どうだろう……これでいいのかな?
「そっちはできたかい?」
「はい、多分」
「ありがとう」
にこっと笑ってそう言ってくれる先輩。かわいい。
「よし、それじゃ次行こう」
「は……はいっ……」
すごい元気だな、先輩。得意分野について語ったり調べたりするときは別人みたいに饒舌になったり活気づいたりする人ではあるけど、今日の先輩はそれ以上だ。ここ最近、ずっとアルバイトや学校のことで忙しかったみたいだから、その反動なんだろうか? テンションがちょっと壊れ気味にも見える。
「あの坂の下に一つ。その更に下にもう一つあるはずだ。そしたら麓のバス停に出るから、お昼をとりつつ、バスを待とう」
「バスにも乗るんですか?」
「そのために自転車じゃなくて徒歩で回ってるのさ」
「なるほど……」
一体いくつ石碑があって、どれだけ見て回るつもりなんだろう?
まあいいや。少し気が遠くなりつつも、こうなったら乗り掛かった舟だと私は開き直る。
怪我だけしないように気を付けながら、先輩の後を離れずについて歩く。歩く。そうしたら一つ、また一つと旧い石碑や石柱が、落ち葉のたまった道の向こうから顔を覗かせてくれる。
「これ……今まで見たのより高いですね」
「供養塔だね。私にはちょっと測れない高さだから、君が来てくれてよかった」
嬉しそうに語る先輩。私も役に立ててることが少し嬉しくなって、言葉数が少しずつ増えてくる。
「供養塔? お墓みたいなものですか?」
「ちょっと違うかな。お墓みたいに特定の人だけを対象にするんじゃなくて、この辺り一帯で亡くなった人達を供養するために建てられたんだよ。飢饉とか土砂崩れとかで、この場所でたくさんの人が亡くなったんだね」
「へぇ……」
「他にも、お墓に近いものと言えば首塚なんてものもある。斬首された罪人や武将の首を供養するものなんだけど、有名なものだと……」
「あっハイ。測れましたから次行きましょう……!」
その石塔の次には、びっしりと苔に覆われた石板が麓道の脇に待っていた。
「これは?」
「これは彫られてる通り、草樹塔という碑だね。貴重なものだよ」
先輩が指さした場所、苔が僅かに薄くなっているその部分に『草樹』という字が辛うじて確認できる。
「昔、五日宿の南にあったお城と城下町が大火事で燃えてしまったことがあってね」
「お城……? こんな田舎にですか?」
「うん。廃藩置県の前まで、ここら一帯もそこそこの要衝だったんだよ。そして、燃えてしまった城を再建するにあたって、五日宿にある山から大量の木が伐採されて運び出されたんだ」
石板の背後に生い茂る木々を見上げながら、先輩は言葉を続ける。
「そういったことがキッカケになって、植物に感謝の意を表そうという意味でこの草樹塔が建てられるたんだと言われているよ。諸説あるけど」
「じゃあ、これは?」
私はその石板の隣に立っている、苔の生えていないがっしりした構造物を指さして尋ねた。
「もう使われてないただの灯篭だね。コンクリート製の」
「え……ああ、はい」
「よし、次へ行こうか」
そしてまた、道を進んでゆく私達。やがて目指すバス停が見えて来る。
「あ……あれは?」
バス停の少し手前、大きなため池のほとりに石碑が佇んでいた。私の背よりも高い、立派なのが。
「あれは記念碑だよ。このため池が出来たときに一緒に建てられた。工事にかかわった人の名前が彫られてる」
近くに寄ってその表面を見た。確かに人の名前らしい文字と、何年何月築みたいなのが彫ってある。
「へぇ……凄い立派なものですね」
「そうだね。見てくれだけは」
それだけ言うと、先輩はその石碑を一瞥だけして通り過ぎた。え? この石碑は?
「調べないんですか?」
「こんなのは多分に、工事の金が余ったから作られた物にすぎない。でかいだけでそんなに大したものではないよ」
「辛辣だ……」
***
そのままバス停に着いた私達は、次のバスの着時刻を一応確認してから、先輩の用意してくれてたお昼ごはんを広げた。
「おいしい……」
ジャコと大根葉のゴマ油炒めを、炊き立てのご飯に混ぜ込んだおにぎり。あとは自家製のお漬物とお茶だけ。
それだけなのに、めちゃくちゃおいしい。
歩き疲れた身体に沁み込む自然な甘味と塩味。大根葉の爽やかさとゴマ油の豊かな香り。お漬物の甘辛さがアクセントを利かせて、冷えた緑茶のちょうどいい苦味で喉を潤す。ああ……おいしい……。
「そう? なら良かった」
先輩が微笑む。口元に小さな『お弁当』を付けて。
食べ終わってもまだ付けてたら、そのとき教えてあげよっと。
秋晴れの日差しは徒歩の背中を地味に焼いてきてたけど、バス停のトタン屋根はそれを遮ってくれている。
田舎の道路は車もほとんど通らずに稲穂を撫でる風が吹き抜けてゆくばかりで。
それが草木を揺らす音と、鳥の鳴き声と、少し遠くで稲を刈る機械達の音が、優しく、でも活き活きと耳をくすぐる。そんな豊かな静けさの中で、私は楽しそうに微笑む先輩の横顔を見つめながらおにぎりをひとつ、もうひとつと口へ運ぶ。
「この辺りはこんなものかな」
食べながらも地図を広げて、先輩がそう言う。その地図は大きめの本屋さんなんかで買えるような、この地域を大きな縮尺で収めた地図のコピー束で、先輩の手による書きこみが赤いペンでいくつも足されていた。
「すごいですね」
「そうだね。この狭い域内だけでもこの数だし、どの碑もちゃんと意識的に配置されて、手入れもそれなりに続いている。やはりこれは、この集落特有の……」
「いえ、そういうんじゃなくて……先輩が」
「私が?」
「よくこんな調べられるなぁって」
私が正直にそう言うと、先輩は地図を脇に置いて、
「有名な石碑とかは調べれば名前があったりするから分かるけど、こんな田舎のくすんだ石碑の情報なんて表に出回ることないからね。文献も少ないし。知ってる人ももうほとんどいない。だから調べられることを自分で調べるしかないんだよ」
と言い訳するみたいに早口で言ってから、手に持っていたおにぎりの残りを、その小さな口の中に入れた。
自分で調べるしかない……かぁ。確かにそうなんだろうなとは思う。今日歩いた道のいくらかは私も普段何度も通った場所だったけど、そこにあった石碑を気に留めたことなんかなかったし、誰かが話題にしてたような記憶もない。
だけど先輩は、それを調べてどうしたいんだろう? 大学の専攻がそういう方向だっていうのは聞いたけど、その課題の一つなのかな? それにしては……
「そろそろバスが来るね」
「あ、そうですね」
時計をちらと見て、私達はそう言い合う。先輩は地図を畳み、私は最後のおにぎりを頬張った。
「ほぼ時間通り……あのバスだ。停まったら乗るよ」
「はい」
やっぱり、いつもより少し弾んで聴こえる先輩の声。つられてトーン高めの声で答える私。
課題をただ、こなしてるだけっていう風にはどうしても思えないな。
「あの、先輩……」
「何?」
私は尋ねようとした。ほんの軽い気持ちで。でも一瞬、どう質問しようか考えてしまった。聞きたいことは色々あったし、知りたいことも色々あって。それに……あっ……!
バスが停まった。ドアが開く。
まだだった! 乗る前に、どうにかしないといけなかったことが。
私はとっさに手と指を伸ばす。先輩の口元に。
「……?!」
人差し指の先で小さなお米の粒をすくい取って、私はしれっと、それを自分の口へと運んだ。
「さ……乗りましょ!」
『何気なく』を精いっぱい装って、私はバスに乗り込む。先輩もすぐ後に続いて、二人で乗客のまばらなバスの後部座席に座った。
「…………スズ」
小声で囁く先輩。
「あ……はい」
私もぼそぼそと返す。
「そういうのは、気づいた時にすぐ指摘してくれていいから……」
「はい……ごめんなさい……!」
謝りながらちらっと見た先輩の横顔。
丸いほっぺたが、真っ赤だった。




