七の宿 「古代ヶ丘」 その三
私は知りたかった。それが何なのか。
話を聞いてもらいたかった。ここがどこなのか。
だから躊躇わずに叫んだんだ。
……そしたら、
にゅっ……と、伸びてきた。
黒い何か。霧のようにぼやけた輪郭の、かたまり。それが火の中か、そのもうちょっと手前側の空間から急に、私の目の前へと伸びて進んできた。
えっ? と思うよりも早く、そのかたまりは形を変えた。ぼやけていた輪郭がはっきりとしたシルエットを浮かばせて見せた。私に判る形に、解るように。
「手……?」
それは手の形だった。そう、ちょうど瞳子ちゃんの、坂手家の「逆の手様」の祭壇で見たような、人の手。……こっちは黒いけど。
その手は一度、ぱっと開かれて、手のひらをこっちへ見せた。それからくるっと半回転して指を閉じ、一本だけ、人差し指だけを伸ばして横へ向けた。
「……こっち?」
私は尋ねる。その手に向かって。
でも手は手だから口も耳もなくて、何も答えない。こっちの言葉を聞いてるのかどうかも分からない。ただ、私から見て右の方をじっと指さしているだけ。
右……なのかな。バンガローがあるのは。
私が尋ねたのはバンガローに帰る道の方角。そしたら返ってきたのは右を指し示す手と指。なら……
「あ、ありがとう……ございます」
私は頭を下げて、その指示に従ってみることにした。
何度呼びかけても何も返って来なかった中で、たったひとつ、返ってきた反応。なら、それに従ってみる他には何もできそうにない。そのときの私は、そう考えたのだ。どう考えてもまともじゃない状況なのに、なぜかそう、冷静に。
私は歩き出した。炎に背を向けて。篝火はとても大きい光を放っていたから、その周囲は広く照らされてるはずだった。
なのに、行く先には何も見えなかった。
木も、草も、山も。ただ地面と、そこに長く伸びる私の影だけが見えた。
一瞬、私の中で驚きの声が上がった。おかしい。絶対こんなのおかしい。森に囲まれてたスポーツ公園に、こんな広い、開けた場所なんかなかった!
でもすぐにその声は消えた。だって、仕方ない。
この先には何も見えないんだから。それが正しいんだ。
記憶や思い込みがそうじゃないって言ったからって、目の前の景色は覆ったりしない。私は冷静にそう思考を無理矢理まとめて、また歩いた。歩き続けた。やがて、
さらさらさら。
そんな音が、耳に入ってきた。
さらさら。さらさらさらさら。
これ……水だ。水の音だ。……川?
足をもう一歩、進めた。そしたら小石か何かがそこにあったみたいで、サンダルの先に何かがぶつかった感じがして、そのすぐ後で、
ぽちゃん、と音が続いた。
あ、やっぱり川だ。私は足を止める。それから身をかがめて、そこを覗き込んだ。
それは黒い水だった。闇の中でもはっきりと分かる黒さ。
それが私の右手側から左手側に流れている。さらさら。さらさらさら。
綺麗な音。異質なものを含んでいない純粋な水と地面との摩擦音。なのに、黒い。
これが、もしかしたら「穢れ」なんだろうか。ゴミや水質なんかの問題じゃなくて、穢れが歪んだ流れを作るんだという言葉の具現。分かんないけれど。
その黒い水面には満月が映っていて、周囲をぼんやりと照らしている。
向こう岸を見つめる。距離は約2メートル。深さは分からない。
「…………どうしろって、言うの?」
私は振り返った。遠くに光が揺らめいて見える。篝火の。
あのときの手と指はこっちを示した。でもその先にあったのはバンガローじゃなくて川だった。もしかすると、この川を超えたらその先にこそバンガローが待ってるのかも知れない。だけどさ、
さらさらさらさらさら、
得体の知れない水と、測りようもない深さと、それなりの幅を持つこの川を、こんなサンダル履きの足で渡るのは無理だ。
うーん……どうしよう。私はもう一度見つめる。水面と、そこに映る月とを。
…………あれ? ……月?
さっきまで隠れてた月が、川に映ってる?
私は空を見上げた。ええっ?!
そこに月は見えなかった。なのに、水面には丸い月が、輝いている。光の屈折? 錯覚? それとも、川の中に照明でも沈んでるの?
私は川を横に見ながら、少し歩いた。私から見て左手側、下流方向に。そうしたら、水面の月もついて来る。普通の、空に浮かんだ月や、それを水鏡に映した月と同じように。
なのに、空にはやっぱり月が見えない。
不意に、足を止めた。私の視界も止まる。なのにその月は
「あっ!」
一瞬、私を追い越すように下流側に動いて、それから慌てて止まった……ように見えた。
もう一度、私は同じようなことをやってみる。今度は上流側へ。歩いて、止まる。そしたら……やっぱり! 一瞬だけ私を追い越して止まった! ならあれは月じゃない。月なのに、月じゃない。じゃあ……何?!
私はもう一度身をかがめて、その月らしい何かを見つめた。そうしたら、
にゅわっ
っと、その月が笑った。
「ひっ……ぁあああっ!!」
叫ぶ私。その声に、月も驚く。瞬間的にその光が水面に広がって、流れの中に溶け込んでいくように見えた。けど、またそれが少しずつ集まってきて、元の形に戻った。何これ? 生き物?!
そしてまたそれは顔のようになり、薄く微笑んで、こっちを見た。どこか子どもみたいな、悪戯好きそうな笑顔。
「あ……あなた、何?」
そう聞いてみても、それは何も答えない。笑ってるだけ。
「ここは、どこなの? 何なの?」
そう尋ねてみても、やっぱりそれは応えない。言葉、通じてない? それとも、質問が悪いのかな……。
「えと……じゃあ、どうやったらこの川を渡れますか?」
私がそんな風に「川」と言った瞬間、その月みたいな何かは口の端をつり上げて、目を見開いた。その目が、上流の方を向いた。
「あっち? ホントに?」
私は聞いた。『月』はやっぱり何も答えない。
「あー……分かりました。ありがとうございます」
らちが明かないや。しかたなく私はお礼だけ言って、その目が見つめてた上流へと向かった。
『月』はその後、ついては来なかった。
「……おぉ」
上流へ向かう道。少しずつ少しずつ、きつくなっていった坂道。どれくらい歩いたんだろう。左手に見える川の水面がどんどん下がっていって、これ大丈夫なんだろうかと脳内で十三回くらい繰り返して呟いた頃、やっとそれが見えた。
川のこっち側の岸と、向こう側の岸とを繋ぐ唯一の通路。つまり、橋。
木を二本切って縄で縛っただけみたいな、ごくごく簡単な、凄く凄く、頼りなさそうな橋が。
……えぇえええええぇ………………?
そりゃ、確かに橋を渡れば川の向こうには行けるけどさ。これ……渡るの? 渡れるの? 渡ってもいいの?
私は振り返る。上って来た坂道の下の方は最早暗くて全然見えない。暗い。そう、暗いのになぜか自分の足元と、川の縁と、橋だけは見える。空には月も星も出てないのに。
迷うなぁ。どうしよう。
いや、そりゃね。渡らないと帰れないっていうんなら渡るよ。渡りますよ。でもさ、心情的に一応は、確かめておきたいじゃない。
この場所の高さが、橋から落ちたら死ぬようなものなのかどうか、くらいはさ。
………………よし。
私は決心し、覚悟した。落ちて死ぬような高さだったとしても、落ちなければいいんだ、って。
丸太の上に足をかけ、ゆっくり体重をかける。サンダルの底を擦らせながら、少しずつ前へ。前へ。ぐらぐら。……ゆらゆら。
あ……あああああ…………あ。
そうやって、どうにか渡った後、私は川の縁からそっとその下を覗き込んだ。
真っ暗で何も見えなかった。




