七の宿 「古代ヶ丘」 その二
いくらなんでも少し食べ過ぎたせいなのか、それとも少しだけ舐めた冷酒のせいなのか、私は深夜、バンガローのベッドでぱっちりと目を覚ましてしまったのだった。
昼間に日の光が射し込んできていた窓からは、もっと静かな、それでいてきらきらと冴えて輝く金色の光がフローリングの床に窓枠の四角い影を浮かばせていた。
窓から空を見上げてみる。綺麗な丸いお月様が見えた。眩しいくらいの光。
同室の先輩はくーくーとあどけない寝顔でしっかり寝入っていて、話しかける気になんてとてもじゃないけどならない。起こさないよう物音に気を付けながら、私は自分のベッドから降りて、外へ出た。
「わぁ……」
部屋の中では金色に見えた月光。それが、森の木々を照らすと蒼く見える。
バンガローの建っている小高い稜線から見下ろす斜面。そこに生えている少し背の低い木立とその枝葉が、波のない静かな海みたいに広がっていた。
空には丸い月と、明るい星たち。少しだけ月の周りを囲うように浮かんでいる以外に雲の影はなくて、晴れ渡る初秋の夜空は真夏の蒸し暑さとも、冬の冴え凍るような寒さとも違う、どこまでも穏やかな空気で満ちていた。
そこへ、
「……うへっ?!」
バシバシバシと、思いもしない方向から物音が飛んできて、私は思わず声を上げてたじろいだ。何? 何の音?!
音の方へ振り向く。大家さんたちのバンガローの軒下からだ。覗いて見るとそこには、昼間見たあの虫カゴが転がっていた。
バシバシバシバシ。もう一度同じ音が鳴った。間違いない。あの虫カゴが鳴ってるんだ。
そっと近づいてみる。やっぱり。
バシバシ。あの大きなバッタだ。一生懸命羽ばたいて、ジャンプして、透明なアクリルの壁にその身体をぶつけてる音だった。
あ……。
その虫カゴは横倒しになっていた。小さな、多分どこにでもある量販店の軽量虫カゴ。
バッタがバシバシと身体や羽根をぶつける度に、アクリルが細かく震えて、虫カゴが揺れてるのが分かった。
それによく見たら、かごの上にある蓋の、小さな扉の留め具が、外れていた。
……すごいな。
素直にそう思った。このバッタは、懸命にその身体をぶつけることで、虫カゴを横倒しにして、しかも多分その衝撃で、扉まで開かせかけているんだ。
バシバシバシバシバシバシ。
何度も何度も、あきらめずに、がんばって。
バシバシバシバシ。
バシバシバシ…………バシ。
「あっ」
そしてついに、扉は開いた。
身体のすごく大きいそのバッタにとって、それはとても狭い隙間なのかも知れない。でも、それは確かに彼あるいは彼女が通り抜ける事のできるはずの、外の世界への扉だった。
どうしよう。
私は一瞬迷う。
明君がせっかく捕まえたのに、このままにしてたらバッタは逃げてしまうだろう。
私はもう一度、虫カゴを見た。バッタは隙間に気づいてるのかいないのか。一旦休憩するように、かごの中に入れられているエサの葉っぱをかしかしと齧ってる。今なら、そっとカゴを起こして蓋と扉をちゃんと閉めてしまえる、はず。
……だけど。
ううん……止めておこう。
あのバッタが、開いた隙間に気づいて逃げてしまうかどうかは、私には分からない。でも、その権利はあっていいんじゃないかと思った。少なくとも、それを邪魔しないといけない義務は、私にはない気がしたから。
「逃げたいなら、今のうちだからね。……頑張って」
心の中でそれだけ呟いて、私はその場所を後にした。
それから歩いた。月の下を。
風のない夜のスポーツ公園。山の端に浮かぶ月に照らされた小路を、私はひとりで、静かに。
そして、先輩が昼に言った言葉を思い出せたのは、
月に雲がかかって、不意の、本当に不意の一瞬で、
何も見えない真っ暗闇な空間の只中へと落とされた、その直後のことだった。
***
道は見えてたはずだった。
何処に向かってるわけでもなかった。
バンガローの前の小路。何棟もある小屋たちを結ぶ何でもない道で、月も外灯も照っていたから迷うだなんて考えもしない、そんな場所。
でもほんの一角だけ、木々と小屋とが影を作って、点在してる外灯の光が届かない所もあって、私がちょうどそこに入ったときに月が隠れたんだ。
「あっ」
そう声を出した。振り返った私。
何も見えない。
前も後ろも。
でも、来た方にバンガローがあるのは間違いない筈だからと、私はそっちへ歩いた。転ばないよう足元に気を付けて、ゆっくりと。
でも暗いままで、見えるものは何もない。
おかしい。さっき通った場所にはいくつか外灯があった。月が隠れても外灯は消えてないはず。
なのに。
「何で……?」
思わず漏れる声。方角を間違えた? 方向を見失った? 道に迷った?
え……? えっ……?
『古代ヶ丘で道に迷うと見たこともない別の場所に行き着く』
そう語った先輩の声が脳裏にこだまする。でも、そんな。森の中に入った訳でもない。ただ、バンガローの前の道を歩いてただけで?
違う。きっと違う。これはただ、ちょっと暗闇に目が慣れきってなくて、道に迷っただけ。
でも……でも。
…………迷う。
迷うって、どういう意味での「迷う」なんだろう。
道を見失ってしまうっていう事がらを表す意味での「迷う」?
それとも、考えが定まらなくて何を信じたらいいのか分からなくなるっていう、精神的な意味での「迷う」?
そんなことを考えてしまってる時点で、もしかしたら、私は…
………………あっ。
「光……だ」
進もうとしていた方角から少し左手側の先に、小さな光が見えた。ちらちらと揺らめき瞬くような、小さな。
その方向へ足を向け、数歩進む。そうしたらその光も、少し大きく見えて来るような気がした。
なら、星や月みたいな遠い場所にある光じゃない。近くにあるんだ。
焚き火? キャンプファイア? だったら、誰かいるかも知れない。
私は一瞬だけ、今の自分の服装や恰好を思い出す。寝てる途中で起きて、近場用のサンダルだけ履いて外へ出た私。
携帯電話も何も持ってない。普通のパジャマと、肩に羽織ってるショールだけのひどい恰好。だけど仕方ない。このままずっとこの暗闇の中にはいられない。
行ってみよう。私は歩いた。光の方へ向かって、恐る恐る。
歩いていくのに従ってだんだん大きくなってく光。揺れるその橙色。やっぱりあれは、火だ。
「うわぁ……」
その火、その立ち昇る炎の前にまでやって来た私は圧倒された。
凄い火だった。焚き火なんてもんじゃない。これは……篝火って言うんじゃなかったっけ?
何十本もの、伐り倒された木や枝が積み重ねられて燃え盛っていた。火の粉が舞う。熱風が唸りを上げてる。
「あっ…………? 誰か、誰かいるんですか?」
その炎の放つ光の向こうに、何か動く影が見えた。人影が。私は声をかける。
返事はない。見間違いかな? 私はもう一度視線の先、炎の向こう側に目を凝らす。そうしたら、
すっ……っと、やっぱり何かの影が、ひとつ……ふたつ……左右にふらふらと揺れて見えた。人の頭と、肩みたいに見える影が。
「すみません、ここはどの辺りでしょうか?」
もう一度私は声をかけてみる。でもやっぱり返事はない。
「誰か、いるんですよね?」
「あの、私、スポーツ公園の宿泊客なんですが。道に迷ったみたいで」
「すみません、ちょっと話だけでも聞いてもらえませんか?」
何度も声をかけたけど、影は揺らめくだけ。
「……あのっ! ちょっとだけ、いいですか?!」
そう言いながら、火の向こう側に回り込んでみようともしてみた。だけどその先には誰もいない、何もない。
なのに篝火の向こうに目を凝らすと、確かに何かの影が、見える。それもだんだん濃く、はっきりと。
「すみません! 道に迷ってしまいました。バンガローはどっちにいったらいいですか?!」
私は叫んだ。だって、いるんだ。何かが。誰かが。
良い人じゃないかも知れない。おかしな人とか怖い人達なのかも知れなかった。
それどころか、ヒトじゃないのかも知れなかったけど。




