七の宿 「古代ヶ丘」 その一
「好きです」と私は言った。先輩に。
「私もだよ」と先輩は言った。私に。
「なのに……駄目なのかい?」
「はい……」
先輩の方を見ることができないまま、私は首を横に振った。
「……チョウチョは好きでバッタは駄目か……基準がよく解らないな」
「だって全然違うじゃないですか」
「触覚があって脚は六本、羽根も四枚。そっくりじゃないか。私はどっちも好きだよ」
「そういう生物学的な問題じゃなくて、もっと感覚的な問題なんです! 色とか形とか雰囲気とか!」
虫カゴを前にして、先輩と私はそんな議論をしたけれど、互いの主張は平行線のままだ。
「めっちゃカッコいいのにね」
と、そのバッタを捕まえた本人である明くんが言う。
「いや、キモいよ! バッタにしてもデカすぎだって!」
と、菜津美ちゃん。
「野菜農家にとっては普通に害虫だからねぇ」
と、春香さん。
虫カゴの中に入れられたその信じられないくらい大きなバッタは、透明なアクリルの板の存在に気づいていないのか、それともそんなものには構う気もないのか、繰り返し飛びかかってはバシン、バシンとけたたましい音を上げている。
「んじゃ、次は本命のクワガタを狙うよ。恋姉も来る?」
「いや、虫を見るのは好きだけど採るのは専門外だ。遠慮するよ」
「じゃあスズ姉……」
「無理無理!」
私は首と両手を左右に振る。カブト虫やクワガタならそんなに怖くないかもだけど、他に何が出るか分かったもんじゃない山の中へ入って虫捕りのサポートをこなすなんて想像の範囲外だから。
「明ぁー。無理言って困らせないの。ごめんね鈴芽ちゃん。いいよ、私が行くから、奈津美を見てて」
「あ、はい。分かりました」
私はそう答えたけど、
「えー、いいよスズ姉。大丈夫、私も行く」
奈津美ちゃんはそう宣言して、母親である春香さんの側にすっと寄る。
「虫はそんな好きでもないけど、山は好きだし」
微笑む奈津美ちゃん。麦わら帽子の下、緩んだ口元。生え変わったばかりの永久歯が白く光っていてかわいい。
大家さん一家の三人が揃って山へ入る道へと向かっていくのを見送ると、私は先輩に尋ねた。
「これからどうします?」
「ん?……そうだな、持ってきた本でも読むよ」
「こんな森の中で、ですか?」
「我々のアパートだって山林の中だ、ならアパートと同じように過ごしても構わないだろう」
涼しい顔で先輩はそう言うと、バンガローの中へさっさと引き上げてゆく。
「そりゃまあ……構いませんけど……」
私は周囲を見渡した。
緑。
翠、ミドリ、みどり。
見渡す限り緑の木々。
その遥か上には青い空。涼しい風が白い雲を西から東へとゆっくり運んでゆく。
太陽が照りつける芝生の広場には丸太のアスレチックと、古墳や埴輪を思わせるオブジェ、それに炊事場とが並んでいて、小さな鳥たちがそれらの上に止まって羽根を休めている。
五日宿スポーツ公園「古代ヶ丘」。
ここはそう呼ばれている、五日宿で唯一のレジャースポットなのだった。
七の宿 古代ヶ丘
「こんな穴場があったんですね」
「そもそも五日宿で穴場じゃない場所を探す方が難しいと思うけど、静かで良い所だという意見なら賛成だ」
バンガローのベッドに腰掛けた先輩は、本から目を上げずにそう答えた。私は自分のベッドの上に置いた荷物の中から公園のリーフレットを取り出して、開く。
五日宿の山地の一角に造られたそれなりの規模の施設で、見取り図によると駐車場やトイレ、遊歩道なんかもちゃんと規模に応じて用意されてるし、どの設備も十分綺麗に整っている。ただ、この手元のリーフレットはまだ初版のものが使い切られずに残っていたもののようで、少し色褪せていた。
「地元の、特に古い世代の人間はあまりここには来たがらないからね。外に向けてもっと宣伝でもしてれば違うんだろうけど」
先輩は続けてそう言う。
「理由があるんですね?」
私はそう返す。
「ん?」
「地元の人がここに関わりたがらない理由、です」
私は確信を持って言う。
「ああ、読めてたか。そうだよ、理由はある。大した話じゃないけど」
読めますよ、先輩が五日宿のことを話す際に何か含んだような言い方をするクセくらいはもう、覚えましたからね。私はドヤ顔でそう言いたいのを堪えてベッドに腰掛ける。
「道にね、迷うんだってさ」
先輩は本を閉じてこっちを見つめながら、簡潔にそう言った。
「え、それって……遭難じゃないですか」
「普通に考えればね。もちろん、今のこの公園は遊歩道や案内板や外灯なんかをしっかり整備している。だから基本的には何の心配もないはずだ」
「なのに?」
「言い伝えでね、『古代ヶ丘で道に迷うと見たこともない別の場所に行き着く』らしい。文献にも例がある。最も新しいので言えば、大正時代に当時の村長の娘がそんな目に遭ったとか」
「見たこともない別の場所……ですか。異世界的な?」
「断片的な供述は残ってるけど要領を得ないものばかりだ。詳しくは分からないけど、強いて一言で言うなら……そうだね、ひどく幻想的な場所らしいよ」
私の肩越しに、窓の外をちらと見る先輩。外から射し込んだ光がその黒い髪を照らしている。
「もしかして先輩はそれを調べたくて、大家さんの誘いを受けたんですか?」
瞳子ちゃんの家に泊まったときの事を思い出しつつ、私はそう尋ねる。
「どうだろう。もちろん興味はあるけど、そう簡単にそんな現象が起きるとか視られるとかなんて、思ってないよ」
「でも、道に迷ったらっていう条件で起きる現象なら、わざと道を外れて歩いてみたりとかしたらどうですか?」
「普通に危険だからそんなことはしないよ。私だって山で遭難なんかしたくない。君も面白半分でそんなことはしないでくれ」
「あ……はい。もちろん」
先輩が少し怒ったように言うので、私は素直に頷く。
「実際にやって来て、ここの雰囲気や地形とかを肌で感じられるだけでも十分価値はあるんだよ。供述の内容と符合する地形や風景が見られた、あるいは見られなかったならそれでもいい。それらの情報が供述の真偽を判定する材料になったりするかも知れない。フィールドワークっていうのは本来、そういうものだと私は思ってる」
「へぇ……」
先輩はいつも熱心だ。私はその研究内容や興味の方向について全然理解が追いついてないのだけど、真摯に、真面目に、冷静にものごとへと取り組んでるっていうことだけは、その眼差しから解ってるつもりだ。
あ、でも……そうだ。
「大家さんたちは? 森へ入って行きましたけど、心配しなくていいんですか?」
「ん? ああ、大丈夫だよ。だいたい考えてみてごらん。過去、そんな目に遭遇した彼ら彼女らの供述が遺ってるってことは、無事に帰って来られるってことでもあるんだから」
「ああ……確かに」
「勿論、帰って来られなかった人もいたのかもしれないけど」
「じゃあ駄目じゃないですか!」
納得しかけてた私の思考を、先輩は一瞬で覆す。
「でも大丈夫。大家さんたちが道に迷うだなんてことは万に一つもない筈だよ。だって兎峠家ご夫婦の本業は、ここの従業員なんだから」
と、身も蓋もない追い打ちの言葉を放つのだった。
***
大家さんたちは当然何の問題もなく帰って来て、それから私たちは全員で予定通り、晩御飯のバーベキューの準備をし、炭火で豪快に、裏も表もしっかり焼いたお肉たちをいただいた。
ロース、ハラミ、バラ、カルビ……。きらめく赤身、とろける脂、はじける肉汁!
言葉では到底説明できないレベルの美味しさ……。ていうか、お米! お肉も勿論最高なんですが、ご飯がまた!! 飯盒で炊いて少しおコゲのついたご飯にフライドガーリックと岩塩って最強すぎませんか?!
クワガタが一匹も採れなくて沈んでた明くんも、すっかりご機嫌に戻ってる。奈津美ちゃんもよく食べるし、先輩は春香さんと冷酒を楽しんでる。いいなぁ。私はどうも体質的に飲めないっぽいけど、いつか先輩とあんな風にお酒飲んだりできるんだろうか。
試しに少しだけ舐めさせてもらったけど……うぅん、これは……無理だ。とにかく苦いし、匂いだけでくらくらする。
仕方ない、食べよう! 折角こんなに美味しいんだから、食べないと損だ。
鶏モモのホイル焼き、ホタテの焦がし醤油焼き、ジャガイモのバター焼き、豚トロネギ胡椒、そしてシメには焼きマシュマロ!!
「スズ姉、いったいどこにそんだけ入るの……?」
「……胸じゃないか?」
「え? 女の人って、胃袋が胸にもあるの?」
奈津美ちゃん、先輩、明君がひそひそ話してた声は、聴かなかったことにします。
明日、山を下りるときにしっかり歩くだろうから、それでカロリー消費できるはず。
……だよね?
***
そんな心配は要らなかったのかも知れない。
私は夜空を見上げる。
夜空のはずの、暗い空を、見上げる。
何もない。
星も、雲も、月も。
首を左右に振って、私はまた、歩いた。
暗い道を。暗い筈なのに何故か足元だけは見ることのできる山道、あるいは獣道を。
星も月も出てないのに。もちろん、外灯も懐中電灯もないのに。
そうやって歩いた先、その先に、
私が帰り着ける場所があると信じて。
あるいは、あってほしいと、祈りながら。
ただ、ひたすらに、
左右の足を動かし続けた。




