一の宿 「閉塞」 その一
「裏手の方には行かない方が良いよ」
と、大家さんは言った。
私は「なぜですか?」と聞く。大家さんは口の端をちょっとだけゆがめて、言葉を選んでるみたいに考えてから、
「あんまり『良くないもの』っていうのもさ、あるもんなんだよ。どこにでも」と答えた。
【一の宿 「閉塞」】
ぎしぎし鳴る木の階段を上って、その先の木の引戸の鍵を外してすーっ……と開ける。ここが私の部屋か。古くなった木と、微かにホコリっぽい匂い。それと、下の町よりちょっとだけ涼しい風の肌触り。
窓とカーテンレールだけは妙に真新しくて、多分私が越してくるちょっと前くらいにリフォームしばかりなんだろうなとか、そんなとこもなんだか可愛らしく思えるこの六畳一間。
ここが私の最初の城。私の領地!
実家からここに来るまでに乗った物。新幹線、在来線×2、バス、それとバス停からは大家さんに借りた自転車で、計五つ。うーん、ちょっとした旅行だね。窓を開けて下を覗くと、生け垣の内側、砂利の上にさっきまで乗ってた自転車のフレームのくすんだ銀色が見えた。何て言うか、風情……だなぁ。
来る前に持ってたイメージだと、もっと開けた河原沿いの、例えば桜並木の先にある小洒落た学生向けアパートみたいなのだったけど、正しくは小高い丘の中腹、菜の花が点々と咲く細い道の奥にある古い民宿をベースに改装したアパートが、ここ「メゾンド五日宿」の実際だった。ネットの情報や地図からだけだと分からないもんだわね。……でも、うん。悪くない悪くない。
「荷物は今日届くんだっけ?」
「あ、はい。そう聞いてます」
「運び込みもやってくれる業者さんなんだよね。でも手伝いが要るなら言ってね。私はあの向かいの家だから」
大家さんは私の隣にやって来ると、窓の外を指さしてそう言った。
「ありがとうございます。多分、大丈夫だと思いますけど」
「そう? なら良かった。とりあえず、これからよろしね。えっと……横……」
「横沢です。横沢鈴芽。こちらこそよろしくお願いします」
「そうそう、すずめちゃんだね。可愛い名前だからもう忘れないよ。私は兔峠春香。うさぎにとうげって書いて兔峠ね。春香さんでも、大家さんでもいいから、困ったらいつでも呼んでね」
長い髪をゆるく束ねて、動きやすそうなパンツスタイルにベージュのエプロンを着けた、元気なおば……いや、お姉さんって言うべきかな……大家さんは優しく笑ってそう言ってくれた。
「お昼は食べたの?」
「はい、来る途中で」
「夜は?」
「届く荷物の中に、お米とかも入れてます」
「そう。ならいいけど、この辺は何にもないからね。あの自転車は好きに使ってくれたらいいよ。バス停のもうちょっと先にまで行ったらお店も一応あるから」
「ありがとうございます」
あれ? 今「一応」って言った?
ちょっと引っかかったけど、大家さんの笑顔を曇らせたくなかったから私は聞かなかったことにした。そしてその判断は正解だったようだ。だって「一応」の意味はそのあと、割とすぐに分かったから。
***
大家さんと入れ違うように業者さんが荷物を持って来て、ざっと設置までしてくれたのを見届けて、これで私の引っ越しはほぼ終わった。
一人暮らし用のおもちゃみたいに可愛い冷蔵庫は通電開始から二、三時間もすると普通に使えるようになるらしいので、次はとりあえず食材の調達だ。そう考えた私は保冷マイバッグを持って自転車にまたがった。来るときは登りだったけど出て行くときは下りだから楽だな。風はまだ冷たさを残してるけど日差しが暖かくてちょうどいいや。キイキイと音を立てて走る銀色の自転車。そのタイヤの回る道が土からアスファルトへと変わってもうちょっと走った先に、その店は確かにあった。
「しんせん直売所」
そう書かれてた。しんせんって「新鮮」? なんで平仮名? あとで分かったけど、店主さんの名字が「深浅」さんだったからそれにかけたらしかった。そんで確かに、ここは「一応お店」って呼ぶのがぴったりな所だった。あるのは野菜、野菜、野菜やさいヤサイ。あと卵と、お米と、小さな冷蔵ケースに肉類が少しと、申し訳程度にお魚も。それから隅の方にお菓子や常温のジュースと日用品が少々。それでだいたい、全部。営業時間は朝の7時から夕方5時まで。うーん、省電力。エコロジー!
とりあえず私は野菜を色々と卵、それと比較的日持ちするベーコンを買った。ぱっと見頑固そうな感じなのにすごく丁寧に話す店主のおじいさんは、私が越してきたばかりの学生だって分かると、細い缶のジュースを一本おまけしてくれたりも。大家さんもそうだったけど、今日会う人たち皆、めっちゃ親切だ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、今後ご贔屓にお願いしますね。南の山を超えた先まで出たらもっと色々店とかありますけど、注文してもらえたらウチでも大体の物はご用意できますんで」
「分かりました」
「あ、あと。帰り道気を付けてくださいね」
声のトーンをあまり変えないで、おじいさんはそう言った。
「何にですか?」
私は一瞬だけ考えて聞き返す。え、だって。車もほとんど走ってない開けた道ばかりの場所で、こんな明るい時間帯に気を付けることなんてあるんだろうかって思ったから。
「ん? ああ、だって山の方に帰られるんでしょ?」
おじいさんも少し意外という感じで答える。それから、
「……ああ。ごめんなさいね。街から越してきたってこと、もう忘れちゃって」
と、苦笑いしながら続けて、不意に
「出るんですよ、山にはね」
「え」
おじいさんの言葉。驚く私。
(「あんまり『良くないもの』っていうのもさ、あるもんなんだよ。どこにでも」)
大家さんの言葉が何でだか思い出されて、私はどきりとする。
おじいさんはそんな私の反応にも全然かまわずに、視線を窓から見える山の方へ向けて、言葉を続けていた。
「───が、出るんです。自転車なら特にね、気を付けてください」
「……え、何が?」
「だから、イノシシですよ。この辺多いんです。そのベーコンもシシのですから」
「……いのしし」
「そう。イノシシです。美味しいですよ」
***
幸い、帰り道でイノシシに襲われることはなかった。軒下に自転車を止めて、マイバッグを持って私は玄関に向かおうとする。あれ、でもそうだ。ちょっと気になったことがある。
止めた銀色の自転車の隣には、赤くて小さい自転車があった。いわゆる折り畳み式の小径車だけど、スポーツ用のじゃなくて、カゴとかドロよけとかもついてて、ぱっと見お子様用の自転車みたいなやつ。午前中からずっとここにある。誰のだろう?
あ、そうか。私は玄関の郵便受けを見た。大家さんから部屋番号と名字を書いといてと言われて忘れてた郵便受けを。そこには部屋番号と名字が既に一つ、書かれてた。
「201号室 真倉」
……「しんくら」? それとも、「まくら」かな? 分かんないや。
さておき、とにかくどうも私の部屋の隣には既に入居者がいたみたい。大家さんもそう言ってたっけ? どうだっけ。
でもここに書いてあるってことは、誰かもうこのアパートにいるのは間違いないんだろうね。なら挨拶しないと。
あ、でもでも忘れてた。手土産とか要るじゃん! しまった、それ考えてなかっ……
がさがさがさ──────
アパートの裏手から音がした。完全に不意打ちで。
「ひゃっ?!」
反射的に私はビクっと弾かれたみたいに飛び退って、郵便受けの陰に隠れる。
イノシシ? ……かもしれない。どうなんだろ? 分かんない。
体感で二、三分くらいの間、私はそこでじっとしてたけど、それからは物音は特にせず、何かがのっそり出てくるようなことも勿論なかった。
何の音だったんだろ。私は自転車置き場になってる軒下を回って、裏手を見る。そこはちょっとした竹藪になってて、山の斜面が続いていた。誰もいないし、何もない。あ、だけど。
よく見ると竹藪の一か所だけ、竹が生えてなくて、道みたいになってる部分があった。道みたい、って言っても上の方には葉っぱが生い茂っている。なるほど、ここを何かが通った音だったのかもしれない。斜面とアパートの間は大き目の石というか岩がまばらに埋まってる道になってて、人も普通に歩けるようになっていた。表には生け垣があるけど裏は素通りかぁ。防犯的にはどうかと思うけどご近所の行き来はしやすいかもね。
とりあえず私はその「何かが通ったかもしれない道」というか穴みたいな部分を覗き込んでみた。あ、やっぱりこれ道だ。斜面を登りやすいように板が埋まってあってちょっとした階段になってる。屈みこんで葉っぱをくぐって、それを少し登ってみた。
おおー……。
竹藪の中は不思議な感じがした。
風はなくてすごく静か。斜面には少し傾いた太陽の光が葉っぱを透かして点々と降り注いでる。タケノコがところどころに生えてて、その一部はもう新しい竹になりかけてたりするけど、そういうもの以外には茶色い地面と緑色の竹しか見えなくて、なんだか柱がいっぱいの神殿みたいに思えた。
階段状の道を少し登ってみる。階段はその先で分岐してて、斜面をずっと続いてるみたいだった。うわ。これをずっと登っていく元気はないなぁ。あ、それに
(「裏手の方には行かない方が良いよ」)
って大家さん言ってたじゃん。ここ、まんまその場所だよ! って、今になって私は気づいた。言われたその日に入るのは流石にあり得ない。そう思ったからとりあえず、私はすぐに引き返そうって思った。思ったんだけど。
……何だろう、あれ。
階段状の道の先の一つに、茶色の地面でも緑色の竹でもない、灰色の何かが見えた。
少しだけ、私は近づいてそれを見た。それは、岩と鉄だった。
自然のものじゃなかった。この階段と同じで、人の手が入ってるものだ。
もう少しだけ私は近づいて、でも気づいて、足を止めて、引き返した。
理由はよく分からないけど。引き返した方がいいって思ったから。
その岩と鉄でできた「何か」の上には、真新しいお花が供えてあったから。
***
「おいしい……」
脂の甘さと燻しの独特の苦みある後味を口の中で堪能しながら、私はベーコンの感想を一人でそう呟いた。これは、ご飯めっちゃ進むわ。リピート確定。こんなおいしいベーコンになってくれてありがとうねと、会ったこともないイノシシに感謝しながら私はここでの初めての自炊料理を食べ終えた。まあご飯炊いてベーコンと野菜と卵炒めただけのディナーだけど。
いいアパートだなぁ。居住スペース自体は六畳しかないけど、キッチンスペースもお風呂も、各部屋に一つずつちゃんとある。まあどれも小さめだけど単身用なんだし十分だ。よーしお皿片づけたら次はお風呂入ろう。
私は荷物の中からちょっと苦労してお風呂とお風呂掃除の道具ワンセットを取り出してお風呂のドアをからりと開けた。換気のための小さな窓が湯船の上の方にあって、鉄格子が外からそれを覆ってる。
あれ?
夜だから窓の向こうはもう真っ暗だし、方角的に窓の先は昼間に入った竹藪しかないはず。
なのに、その窓の向こうに薄く光る何かが見えた。
誰かいる? こんな暗い中に?
私は窓に寄って外を見た。浴室からの光が地面と竹藪とを照らしてる。けどそれ以外には何も見えない。あれ、やっぱり見間違えかな。浴槽の光が何かに反射しただけかも。……そうは思うけど気にはなる。だって山の斜面から浴室が見えるんなら、この窓はできるだけ閉めとかないといけなくなる。でも換気はしないとだし、何より……。
色々頭の中で考えを巡らしながら、私はとりあえず浴室の明かりを消した。とたんに窓の中も外も真っ暗になる。これで、外に何か見えたならそこに何かいるってことだけはハッキリする。はずだ。
でも、窓の外には何も見えなかった。ただ、夜になってから少し風が出てて、それが葉っぱを揺らす音が聴こえるだけ。
がさ、がさがさ、と。
しばらくそうやって外を見てたけど、ああやっぱり誰も何もいなかったな。そう思って私は浴槽の明かりをもう一度点けた。古い蛍光灯がチカチカと点滅して、それから光った。その点滅の、ほんの最後、光が消えたとき? それとも点ったとき?
どっちだか分からないけどそのとき確かに私は見た。びっくりして、声も出せなかった。
窓の外、竹藪の小道の穴の陰から、
小さな女の子の白い顔が、こっちを覗いていたように見えたのを。