六の宿 「鵺返し」 その三
「呪符、だろうとは思うんだ。恐らくは」
紙を自分の部屋へと持ち去って、すぐに戻ってきてくれた先輩はそう言った。それから私の返事を待たずに、
「先に言っておくけど、あの紙自体にはなんの意味も価値も力もない。断言するからそう信じて欲しい」
と、続けた。
「……分かりました」
私は答える。躊躇はしないでもないけど、先輩がそう言うんだから、そう答えないといけない。
「ああ、もちろん紙には紙の持つ意味や価値はある。そこまでは否定しないよ。つまり、人に意思や情報を伝えるために文字や図形を書き記して示す、そういう紙本来の力は、あの紙にも、君や私の部屋にある本やノート全てに共通して備わってる。分かるよね?」
「は、はい」
流暢に補足説明を付け足した先輩に少し面喰いながら私は相槌をうつ。言われた言葉の意味は半分程度しか飲み込めてない気がするけど。
「その『紙本来の力』だけで言うなら、あの紙には興味深い点がないわけじゃない。繰り返して登場するのは『鵺』『返』この二文字だ。しかもご丁寧に赤い文字で強調していた」
一瞬、脳裏にあの紙の不気味な文面が浮かぶ。同時に、「あの粘ったような赤黒い色は、何を使ったものなんでしょう?」っていう問いが喉元まで出かかったけど、どうにか私はそれを飲み込んだ。
「そして私個人にもああいう手の込んだ呪符を活用した苦い記憶はある。君も知ってる通りに」
「あ……はい」
小学校の旧校舎。古い放送室の思い出話。
確かにそれと同じか、近いものと言えなくもない気がした。
「私としてはもう忘れ去ってしまいたい記憶だけど、それを君に話した甲斐があって少し嬉しくも思うよ。そう、あんなのはただのコケ脅しだ。実害を引き起こす力なんて、本来ありはしない」
斬って捨てるような先輩の言葉。
私はさっきの、先輩の怒った顔が一体何に対する怒りだったのか、少しだけ分かった気がした。勘違いかも知れないけど。でも、
「あの……」
私はおずおずと口を開く。
だって信じたいから。先輩の言葉。あんな紙に大した意味なんかないっていう先輩の気持ち。
それを信じ切るために、私はできるだけ知らないといけない。
先輩の知ってることで、私に分かっていないことを、曖昧なままにしてはおけない。そう思ったから。
「何?」
「鵺……って、怪物ですよね? 確か……」
「うん。良く知ってるね」
「ゲームとかにはたまに出てくるんです。空想上の、伝説の怪物とかって感じで」
「ああ、それで。なら、話は早いかも知れない。そうだよ、鵺は平安時代の文献から登場する伝説上の怪物だ。猿の顔に、狸の胴体、虎の手足を持ち、尻尾は蛇。夜には恐ろしい声で鳴くらしいけど、その鳴き声を出す鳥はまた別にいるだとか、いや鵺自体が妖鳥なんだとか、実は雷獣だとか、色々言われてる」
「怖い怪物なんですか?」
「そうでもない。弓矢の一撃で打ち取られたらしく、どちらかと言えばその打ち取った人物……確か、源頼政だったかな? 彼の業績を誇張する存在と見る向きが一般的なんじゃないかな」
「へぇ……」
「ただ、この場合鵺に『返』と付けてるのが妙だ。鵺に返す? ぬえがえし? そんな熟語は聞いたことがない。君は?」
「……いえ、全然」
「だよね。五日宿固有の言葉にもない。鵺は祟る妖怪だという伝記もあったはずだけど、その祟りを返すように願う? いや、多分違うな。何だろう」
「祟り……? でもそうなら、あの紙……」
私は思い出す。中心に書かれた『死願』という言葉。
「呪符って……つまり誰かを呪い殺すための紙なんですよね?」
「必ずしもそうだとは言えないよ。それに、その意味だとやっぱりおかしい。鵺の妖力なんてものがもし本当にあったとして、それによって呪うのなら『返』なんて言葉は要らない。それに、呪符なら呪う対象をはっきり示すものが必要だったはずだ」
「そうなんですか?」
「私の知る限りではね。呪うという行為はそもそも、呪いたい相手がいて、それがはっきりしてるからできるんだよ。そうしないと呪いは自分に返ってきてしまう」
「えっ……」
「そうなんだ。有名な丑の刻参りなんかもそうだけど、呪いたい相手をはっきり示して呪い、更にそれを他人に一切知られてはならないっていうのが定説だ。だから相手の髪の毛を入れるとか写真を貼るだとかっていう手順を、ごく秘密裡に踏む必要がある。なのにさっきの紙にはそれらしいものが付けられてない上、あまりにも簡単に見つかった」
「じゃあ……」
「そう、呪いだったなら完全な失敗だよ。だから少なくとも君は心配しなくていい。あの紙は、君には何の害ももたらさない」
先輩はきっぱりと断言する。ただ、その顔には表情がなかった。
私を努めて安心させようというような笑みも、自分の言葉に対する自信のなさから来る懐疑も。
ただただ、例えば「雲が出てないんだから雨は降らないよ」とかって言うときと何も変わらない顔をしていた。
「えっと……なら、私のこの不調や、紙を見たときの悪寒とかは……」
「それは元々罹ってたタダの夏風邪に、いわゆるプラシーボ効果が重なっただけだよ。ああえっと……正しくはノシーボというべきなのかな?」
「プラシーボ……って……つまり、気のせいってことですか」
「言ってしまえばそうだ。でも、馬鹿にもできないものだよ。現に君は酷い恐慌状態に陥りかけた」
「……ああ、まあ……確かに」
微妙に納得がいかない気もしたけど、私は頷いた。
「『呪い』なんてものが存在を許されたのは、結局そういうことだったんじゃないかな。いや所謂、『言霊』全般がそういうものかもしれない」
「ことだま……?」
「そう、言葉自体がもつ霊的な力のことだよ。霊に干渉したり、逆に干渉されたり、あるいは祓ったり、逆に憑かれたりするきっかけになったり」
「言葉だけなのに、そんな力があるんです?」
「心無い悪口で傷つく人は古今大勢いるし、励ましの言葉で元気になる人もいるだろう。勿論、それは適切なものでないと意味はなく、時には逆効果にすらなるから危ういものだけど」
無表情なままの先輩はそこで一旦言葉を切り、私の目を見てから続けた。
「人の精神と肉体は無関係じゃない。だから誰かに害を及ぼしたければ、それは肉体じゃなくて精神を呪っても効果があった。そして、それなら対処もまた精神の側で行うことができるはずだ。つまり?」
「気にせず寝てればいい……ってことですか?」
「その通り。よくできました」
促されるままに私が正解を言うと、先輩はようやく頬を緩めて微笑んでくれた。
「それでもまだ不安があるなら、これをあげよう」
そう言って先輩は、半透明の小さな袋を手渡してくれる。……粉薬?
「これは?」
「いつだったかのお神酒と同じものだと思ってくれていい」
「……じゃあ、いただきます」
私はそれを、白湯で飲んだ。苦い。すごく苦い。……いや、めちゃくちゃ苦い。
「よく飲めたね。なら少し眠りなさい。寝付くまで見てるから」
「……ありがとう……ございます」
何だかいつもに増して、先輩に子ども扱いされてる気がする……けど、いいかな。今日くらいは。
不安がまだ、なくなった訳じゃない。
でも、全然安心できない訳でも、ない。
目の前のこの人。私より全然小柄で幼い顔をした可愛らしい人は、安心しろと言う。不安なんかないって言ってくれる。
なら、そう考えてみよう。
自分の心でそう決めて、従ってみよう。
それでどうなっても、きっと……少なくとも後悔はそんなに、しないと思うから。
まだ少し熱い頭の中で、ふらふらと、そんなことを呟きながら私は眠った。
電話の音は、もうしなかった。