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六の宿 「鵺返し」 その二

 そうだった。ちょっと前に先輩が様子を見に来てくれて……。

 私は床を見る。枕元にお盆が置いてあって、先輩の部屋の食器とレンゲが乗っていた。 さっき食べさせてもらったお粥の残りと一緒に。

「夏風邪は体温調整が上手くいかずに身体が参ってしまいがちだから、無理はしない方がいいよ」

 優しい声。温かい言葉。

「はい……ありがとうございます」

 それだけで悪寒が少し引いたみたいに感じる。

 私はどうやら、そんな風に語りかけてくれる先輩の声に安心してしまって、寝入りかけていたらしい。

 多分、そのまま眠ってしまった方が身体には良かったんだろうけど……でも、なんだか、

 ………………そうならなくて良かった。

 そんな気が、した。

 なぜだろう。あのまま眠ってしまって、それであのまま、電話を……

「デンワ……」

「え?」

「電話が、鳴ってたんです」

 そこまで言ってから私は自分の手を見た。

 何か硬いものを握っている自分の手。それを軽く開く。

 携帯電話。充電コードの刺さったままの、私の携帯。

 眠りかけてたはずの私は、いつの間にかそれを握っていた。

 画面を開いて見る。着信履歴はない。

「……先輩の電話ですか? さっき鳴ってたのは」

「いいや。私の携帯も鳴ってないよ」

 なら、夢の中でだけ鳴ってる音だった……んだろうか?

 あんなにはっきりと、繰り返し、繰り返し聴こえてたのに?

「その鏡……フリーマーケットで買ったんです」

 私はくらくらする頭を枕に埋めさせて、思いついた言葉をぼそぼそと呟いた。

「?……ああ、この鏡の話か。うん」

「それから何だか身体が変で、それに、電話の音が……何度も聴こえて……」

「この鏡を買ってから?」

「は……い。全然関係ない話して、ごめんなさい。でも……」

 何だか、似てる気がして。

 漆塗りの鏡の黒い艶と、黒電話のイメージが。どこか重なるからなんだろうか。

「失礼。これ、持ってみてもいいかな?」

「あ、はい」

 先輩が鏡に手を伸ばす。細い指が黒い持ち手に絡まって、すうと持ち上げる。

 黒い髪に黒い瞳の先輩。その姿を黒い鏡が映す。

 一瞬、私はぞっとした。

 その鏡面じゃなくて、鏡の縁や持ち手、それに先輩の黒。黒い色全てが、

 本来、光を吸収して、黒く、暗く見せるはずのその色が、逆に光を反射して真っ黒な鏡像を映し出したような、

 そんな錯覚を見た気がしたから。


「ただの鏡だね」

「……え……あ、はい」

 先輩の冷静な声。私は我に返る。

 だめだ、やっぱり熱がまだあるんだろうな。頭がぼんやりして、視界もなんだか変だ。

「あれ? でも」

 先輩は少し首を傾げて、鏡を左右に振った。

「少し音がする」

 そう言いながら。

「ほら、聴こえるかい?」

 鏡を私の耳元に少し近づけて、先輩は尋ねる。言われてみれば少しだけ、カタカタと何かの音が鳴ってるような気がする。

「鏡と持ち手の間に何か入ってるのかも知れない」

 先輩はそう呟いた。

「え?」

「ここの隙間だよ。鏡の本体は木の持ち手に嵌め込まれてるわけだろう? そこに隙間が少しあって、薄い板みたいな何かが挟まってるのかも」

 先輩は鏡を見つめながらそう続ける。

「ちょっと、調べてみてもいいかな?」

「あ、いいですよ。どうせそれ、十円で買ったものだし……」

「十円?」

「はい。なんか『どれでも十円』って札が置いてあるとこで、ちょうど十円玉が一枚……手元にあったんで、いいかなと」

「そんな怪しい物を買ったのか」

「ああ……やっぱり怪しいですかね……」

「いや、ごめん。不安を煽りたいわけじゃないんだ。なら取り合えず、預かって調べさせてもらうよ」

「はい。ありがとうございます」

 先輩が、預かってくれる。

 そう決まったら何だか気が少し楽になった。別にこの不調が鏡のせいって決まった訳でもないけど。

「じゃあ私は部屋に戻るから。何か困ってたら遠慮なく呼んで」

 先輩はそう言いながら、食器の乗ったお盆の端に鏡をそっと重ねて持ち上げ、立ち上がる。

「あ、はい。ごめんなさい……私、ずっと寝転んだままで……」

「いいんだよ」

 そう言って微笑んでくれる先輩。だけど私はこのまま寝たきりの姿でいるのが少しだけ嫌だなって思って、

「ん……よいしょ……」

 と、腕と脚に力を入れて起き上がってみる。

「起きるのかい? 無理はしないで」

「大丈夫です。さっきより、少し……楽になったんで」

 上体は案外、楽に起こせた。なら、

「ちょっと顔洗ってみます。暑いんで」

「ああ、気を付けて」

「はい」

 私は膝と床にそれぞれ手をついて、ゆっくり立ち上がる。

 よし……立てた。そのまま流しまで歩いて水を出し、顔を洗う。

 冷たい。気持ちいい。

「…………ふう……」

「ちょっとは元気出てきたみたいだね」

「はい。先輩のおかげです」

「私は別に……」

 特に照れもせずに先輩はそう言うけど、ただ顔を洗って戻るだけの私を、お盆持ったまま見守ってくれてるってだけでも、私がどれだけ嬉しくて安心できるのか、先輩は知らないんだろうな。

 そんなことを考えながら布団に戻ろうとした私は、足元の注意が少し、疎かになっていた。

「……あっ」

 右足の先が、置いていた体温計のケースを軽く踏んだ。伝わったその感触に反応して、そのまま体重をかけちゃダメだと命じる私の脳。でも、左脚はもう次の動作に移ってて、だから、バランスがもう、取れなくて、

「危ない!」

 先輩の声。それから、先輩のいつも少し冷たい手。

 その冷え性の手が私の両肩を支えてくれた。

 転ばずに済んだ私。でも、

「ああ……」

 がしゃんと大きな音を立てて、先輩の手から離れたお盆が床に落ちた。跳ねる食器と、黒い鏡。

 幸い、お粥は殆ど食べてしまってたのでお盆の上からはそんなに飛び散らなかったし、食器も割れなかった。

 ただ、

「ご……ごめんなさい……」

「いや、こっちこそ。とりあえず、布団に戻って。破片は飛んでない?」

「……はい。大丈夫みたいです」

 鏡は、割れてしまっていた。

 ちょうど鏡面が床に真っ直ぐぶつかったみたいで、持ち手から外れた鏡の本体は幾つかの破片に分かれて転がっていた。

 私は言われた通り、破片に注意しながら布団へ戻る。

 上体は起こしたまま座って、割れた鏡の欠片たちをぼんやりと見た。

「それ……何でしょう?」

「え? これは……」

 私が指さしたものを、先輩が摘まみ上げた。白い、四角形の薄い何か。

 折り畳まれた……紙? 何かのメモ?

「これ多分、さっきの音の正体だよ」

「あ……なら」

「うん。鏡の内側にあったこれが、かたかた鳴ってたんだね」

 そう言って、先輩は紙を広げた。

「………………?」

 途端に、先輩の目つきが歪んだ。


 初めて見た。

 奇麗な先輩の顔の正面、眉間の平らで真っ白なその部分に、皺が寄るのを。

 桃色の口元がきつく結ばれて、頬も片方が少しへこんで曲がったのを。


 ……怒ってる? 先輩が?

 そう思った。怖い表情。

 いつも優しくて冷静な先輩。大抵は無表情で、たまに笑ってくれて、そして、一度だけ泣いてくれた。その少し幼くさえ見える整った顔が、

 歪に、ねじ曲がって見えた。

「何だ……これは……」

 その唇がそう呟いた。黒い目が、開かれた紙の上に視線を何度も走らせて、動く。

 私も見た。その視線の先を。


挿絵(By みてみん)

『鵺返 鵺返 此者死願 鵺返 鵺返 鵺返 鵺返』


 私の脳が、目に入った線をそう認識した。赤い線。粘ついたインクを無理やり塗りたくるように書かれた文字。

 紙の四方に踊る『鵺』と『返』の文字。それらの取り巻く中央付近に『此』『者』『願』の三文字。

 そして、ひときわ大きく中心に書かれているのは……『死』。


「……………………ひっ!」

 息が、私の口から洩れて喉を鳴らす音が聴こえた。

 先輩の眼が一瞬、紙を離れて私を見た。

 それからすぐ、視線を手元に戻して、その紙を畳む指先。

 私を庇うように、守るように。

 その紙面を私の眼から遠ざけてくれる所作。でも、それは、

 ほんの少し、遅くて。

「な……何ですか? そ……それっ」

「………………分からない」

 しまったという顔を見せてから、一瞬の思案。それから観念したように呟いた先輩。

「何で、そんなのが……鏡の……中から?」

 震える声しか出せない私。

 背筋に冷たい汗が走る。

「分からないよ。今すぐにはね」

 無表情な呟きだけを返す先輩。

「でも、それ……変です。普通じゃない……」

 息が、うまく吐けない……。ううん……違う。うまく吸えてない。

 胸が重くて、酸素が入ってこない。だから、吸えてないから、吐けない。

 ……苦しい。首筋が、寒い。

 暑いのに……寒い。

「それはその通りだよ。でも、だからって君や私までがそれに乗る必要もない。まずは、落ち着こう」

 これ以上どう落ち着くんだろうっていうくらいに落ち着き払った冷たい声で、先輩はそう言った。

 その頬はまだ歪んでいて、ぎり、と奥歯を噛み軋んだみたいな音が、少しだけ聴こえた気がした。

 先輩……その顔、止めて。

 やめてください。

 怖い。それに、怖いよりもっと、嫌だった。

 先輩が怒ってるのが。

 何で先輩がそんなに怒ってるのか、私には分からないのが。

「…………分かりました」

 私は息をどうにか吸い込んで、ゆっくり吐きながらそう言う。

 しっかりするんだ、私。

 目を閉じて、頭を左右に振る。

「大丈夫……です。少しだけ、どうにか……落ち着きました……から」

 震えた声。でも、ちゃんとそう聴こえるように。先輩に。

 そうしたら、

「……そう、それでいいよ。少しずつでいいから、息をゆっくり吸って、吐くんだ。ね、大丈夫だから」

 先輩も表情を少し緩めて、こっちを見て、それから、

「大丈夫。何も怖くない」

 と囁いてくれた。


 冷たい手で、私の頬を拭ってくれながら。

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