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五の宿 「横沢鈴芽」 その四

「事故で…………いなくなったのがあんまり突然だったから」

 と鈴芽は語った。それから唇を軽く噛んで、肩を少し震わせた。


 その件で最も深い傷を負ったのが誰なのかなんて事は、誰に断じられるものでもない。ただ少なくとも表面的には、それはやはり彼女らの母君のようだった……らしい。

『私が代わってあげたかった』

 菜種の名を聞くだけでそう泣き叫ぶ程に心を病んだ母親のため、家族たちはできるだけその話題を避けた。

 当時、葉太君はまだ物心がついておらず、突然いなくなったもう一人の姉のことは全く覚えていない。

 父君は以後、亡くなった長女の墓参りや供養を、時には独りで、時には鈴芽だけを連れて行ったそうだ。

 これ以外の写真や思い出の品も殆ど処分され、残った僅かな痕跡もまとめてしまい込まれ、隠されてしまった。

「昨日、物置だから開けないようにと言ってた、一階奥の扉がそれかい?」

「はい。私も普段は近寄ることもなくて……それがもう当たり前みたいになってたんです」

 隠すつもりじゃ全然なかったんですけどと、今夜何度も聞いた言葉をまた付け足しながら、鈴芽はそう答えた。


「忘れてたんですよ。本当に……ひどいですよね。あんなに大好きだったのに。

 お母さんが葉太を見てくれてて、私とお姉ちゃん、お父さんとで行った最後の夏祭りでも……迷子になった私を見つけてくれたのはお姉ちゃんでした。お父さんったら全然頼りにならなくて、帰ってからお母さんにも怒られて……それが可笑しくて、お姉ちゃんと二人で大笑いして……」

 訥々と鈴芽は語る。その目に涙は見えないが、笑顔もまた見えない。

「そのお父さんが、言うんです。俺を恨んでいいから、酷い親だって言ってくれていいからって。お姉ちゃんの遺品を片づけて、普段はそのことをもう、話さないようにしてくれって私に頭を下げて、泣きながら、お願いだからって……私……だから……」

「うん……」

 分かるよ。と、言ってやりたいのを堪えながら、私はただ頷く。

「でも酷いのはお父さんでもお母さんでもない。私ですよ。……私、本当に忘れかけてたんです。小学校での六年間、中学と高校のもう六年間……たったそれだけの時間。

 お母さんのために『お姉ちゃんがいない家が当たり前』っていうのを演じてればいいだけだったはずなのに、家を離れてその必要がなくなってたのに、私……この写真も……持って行けたはずなのに忘れ……忘れてて……!」

「君のせいじゃない」

「じゃあ誰のせいなんですか?!」

「少なくとも君の罪なんかじゃないよ。誰も君を罰せられない。むしろ、罪だというのなら私にだってある」

「えっ……?」

 顔を上げた鈴芽の瞳に私は真っすぐ向き合って告げる。

「私が祭太鼓に気を取られて、君を見失ってはぐれたりしなければ、君にその記憶を思い出させずに済んだ。それだけじゃない。電車を待つときや、歩いてる最中にも、私は不用意なことを言った」

「でも……それは……」

「それが私の罪じゃないって君が言ってくれるのなら、私にだって言う権利がある。君は何も悪くない」

 私は冷静にそう告げた。あくまで冷静に。……その、つもりだった。

 ……おかしいな。そんな筈はないのに。

 私にそんな感傷なんか、ある筈が、残ってる筈がないのに。


 慌てて私は顔を背け、頬を拭った。鈴芽には、その様を見られてしまった。

 だけど、

「…………ごめんなさい」

「いいよ……これくらい」

 だから私は、少なくとも赦してもらえたようだ。

 方法の不器用さはこの際気にしないでおく。とにかく、冷静にはなれた……筈だ。


「ごめん……私こそ、部外者なのに……偉そうなことを」

「いえ……ありがとう……ございます。先輩……」

 鈴芽はまた、そう言って赦してくれた。

 同じように頬を拭って見せながら。


 ***


「来てもらえますか?」

 鈴芽はそう言って、私は頷いた。涙で濡れた手を取りあって、立ち上がる。そのまま部屋を出て、階段を降りた。

 時間はもう深夜になっており、家の中も外も、静まり返っていた。

 進んだ先、奥まった場所にある扉。鈴芽はそこを静かに開けた。

 

 中は丁寧に整えらえた和室だった。隅に小さな仏壇と、伏せられた写真立てが置いてあった。

「子どもの頃、お姉ちゃんはずっとここにいるんだって思ってました」

 鈴芽はそう言った。

「ここから私たちのことを見ててくれてるんだって。だから私毎日こうやってここにきて、仏壇に向かってお話ししてたんです。今日こんなことがあったよとか」

 私たちは、仏壇の前に座る。

「それを止めるようにってお父さんに言われたあの日から……ここに来ることも、お姉ちゃんの話をすることもなくなりました。でもこの部屋……あの頃から何も変わってないです。綺麗に掃除されてて……この写真立ても……」

 そう言って、鈴芽は埃ひとつ着いていない、古い写真立てを持ち上げた。

 少女が一人、楽しそうに笑っていた。

「優しいんですよ……私のお姉ちゃんも、お父さんもお母さんも葉太もみんな……本当に……」


 ***


「昨日の夜、夢を見ました」

 電車を待つ駅のホームで、青い海と空を見ながら鈴芽が言った。

「私ともう一人、小さな女の子が並んで歩いてるんです。どこまでも」

「お姉さんとだね?」

「……どうも私、その前の場面でまた迷子になってたみたいで、何か慰められてました。『泣かないで。大丈夫だよ。もしすずめが一人になったら、おねえちゃんが迎えに来てあげるからね』そんな事言ってもらいながら」

 被っていた帽子を脱いだ鈴芽。ふわりと弧を描くその前髪の下、鳶色の瞳。それが一瞬閉じられる。

「でも、微妙に変な夢でした。どこまで行っても道が終わらないんです。それに何となく、ちょっと前にも同じ夢を見た気がします」

「……ふうん」

 転がる鈴のようなその声に、私は言葉をそれ以上挟むのをためらった。「なら、やっぱり君はお姉さんの事をちゃんと覚えていたんだね」そう言ってやりたい気持ちを抑えて、時計と時刻表を私は見比べる。

 私の滞在はここまでで、これから私は五日宿へ戻る。バイトもあるし、片付けたい事も色々あるから仕方ない。

「あ……あと、その夢の、私の隣の女の子なんですけど」

「うん」

「いつの間にか、日傘をさしてました」

「へぇ」

 帽子派じゃなくて日傘派なのか。親近感が湧くねというニュアンスをその返事に込めたつもりだったけど伝わったかどうかまでは分からない。

 私は今朝から考え事がまとまらなくて、その焦る気持ちを抑えながら、もう一度時刻表の数字を見るでもなく眺めた。人の利用する時間に合わせて散ったり集まったりしている様々な数字達。どこか似ていたり、全然違ったり。

「あ」

「どうかしました?」

「思い出した。二日前の、あの会話」

「二日前?」

「うん、ちょうど電車を待ってた時に」

「ああ……えと、確かお盆の……」

「うん。お盆が何故、案外静かなのかっていう、その理由だよ。それはね、私の考えでは生きてる人間側の影響なんじゃないかと思ってるんだ」

「……生きてる人の……ですか?」

「うん」

 我々以外に人のいない無人駅のホームで、遠慮せずにそう語り合う私と鈴芽。

 さざ波の音と、セミの鳴き声だけを背景音にして。

「普段、私のような捻くれた例外を除いて、生きている人間が死者のことばかりを考えたりはしない。それも当然で、死者には死者の、生者には生者の、それぞれの世界や事情があるからだ。互いに取り組むべき問題がちゃんとあるんだから、それに向き合う必要が各々あるんだね。だいたい、生者同士ですら四六時中他人のことなんか考えないだろう? ……まあ、それにも例外はあるだろうけど」

 私は滞在中の葉太君の様子を少しだけ思い浮かべたりもしつつ、続ける。

「でも、お盆やお彼岸の時期は違うんだよ。生者たちはその季節に、皆で死者のことを想う。それぞれのやり方でね」

「想う……ですか」

「そう」

「そしたら、霊たちは静かになるんです?」

「そりゃそうだよ。だって彼らも我々と同じ、魂持つもの達なんだよ? ……普段知らんぷりされてれば騒がしくもできるだろうけど、それが一転、急に注目されたら?」

 他に人のいないホームで、私は憚らずに自説をぶって見せる。

「ああー……」

「借りてきた猫みたいに大人しくなるのが当然じゃないか……ってね。これが私の説だ」

「あはは、何だか可愛いですね」

「まあ、私の認識では大半の魂持つもの達は、そんなものだよ。想われるから想い、想うから想われる」

 そう考えないとやり切れない時もあるから……とは続けなかったけれど。私はこれで、とりあえず言いたいことが一つは言えた気がする。だから、

「だからね……」

 その流れで、一呼吸だけ置いて、私は言葉を継ごうとした。

 そうしたら丁度そのタイミングで、電車の到着がアナウンスされる。時計を見た。間違いない、乗るべき電車だ。

 私は決心を引っ込める。……まあ、いいか。

 何でもかんでも伝えればいいっていうものでもないだろうし。


 私は荷物を持った。鈴芽も手を貸してくれる。

 横沢家の父君からいただいた古書と、母君からいただいたお弁当を手渡され、到着した電車のドアへと私は歩く。

「それじゃ、先に帰って待ってるよ」

「はい。待っててください」

 横目で見た彼女の顔。そこに翳りはない。

 でも何故だろう。

 私は思い直した。ドアを抜けて乗り込み、出発しようとする電車の、そのドアが閉まろうとする土壇場で、どうしても

 彼女に伝えたいと想う気持ちが、勝った。

「スズ……君のお姉さんはね」

「……え?」

 発車を告げるアナウンスの合間を縫わないといけない。私は声をもう一段上げて

「君のお姉さんは……君を今も想ってる。君が今、お姉さんを想ってるのと同じに」

 と、言った。


 その言葉は鈴芽に届いただろうか?

 私の貧相な声。ドアの閉まる音。

 少しだけ必死になって叫んだ私。思わず閉じていた目。

 それを開けて私は見た。窓ガラス越しに。

 その向こうに、


 笑顔で手を振る彼女の姿が遠ざかって行った。


 ***


 鈴芽は一度も訊かなかった。

 姉のことを私に明かしてから別れるまでの間、

「菜種お姉ちゃんの魂が、どこかに視えますか?」

 とは、一度たりとも。


 それは彼女なりの姉への、あるいは私への思いやりだったのだろうか?

 それとも怖かったからなのだろうか?

 それとも、そんなものが視えるはずなんてないと、本心では思っているからなのだろうか?

 私には判断がつかない。

 そもそも、私にはそこまではっきりとは視えないし、視えていない。

 ……幾らかの仮説がないではないけれど。


 私はあの祭りの夜に視た情景を、思い浮かべてみた。

 夏祭りだなんてものを真面目に見たことがなかった私には、思いもよらなかった。あれだけの魂。あれだけの想い。

 もっと「視える」人の目にはどう映るのだろう? もっと大きな祭事だとどうなるのか? それとも、あれはあの祭りだけの特異な現象なんだろうか?

 疑問は後から後から湧いて、尽きない。

 いや、今はひとまず、この辺りで止めておこう。

 きっと……私のように「視える」人々は世界中にいるのだろう。だけど、その視え方はきっと完全には一致しないだろうし、その各々の証明も不可能だ。

 何度も繰り返すけれど、どだい、「他者の視点でものを見ることなど誰にもできない」のだから。

 ……なら、

 彼女には、ああ伝えて良かったと私は思うし、

 私はこの目を、今だけは疎ましく思わないことにしよう。

 だって、私は。きっと彼女の…………。


 次の駅が近づくアナウンスが車内に響く。

 家路は遠い。距離はまだまだ長い。それに、時間も。


 夏が終わるまであと二週間か。

 長い。長いな。

 早く終わって欲しい。

 ……そうしたら、また…………。


 ***


「ただいまです!」


 私が五日宿のアパートに帰ったその翌日の夜。彼女は高らかにそう言った。

「……随分早い二週間だね。君の田舎は別の時空にでもあるのかな?」

「あはははは。いやー、実家はゴハン多い上に美味しくて、体重やばくなってきたのと、葉太がうるさくて……」

「弟君が?」

「先輩のこともっと聞きたい聞きたいって」

「別にいいじゃないか。私は構わないよ。自分で自分のことを話すのは嫌だけど、君は人のことを話すのも好きな方じゃないか。坂手さんとかにもね」

「何か嫌ですよ。弟相手に先輩のこと語るのって、何か嫌」

「随分子どもっぽい理由だ。……まあいいや、座って。ちょうどお茶にしようと思ってた所なんだ。疲れたろう」

「はい。ありがとうございます!」

 鈴芽は何の遠慮もなく手に持った荷物ごと私の部屋へと上がり、自分の定位置に座る。

 私はコンロに火を入れ、湯飲みを準備する。

「あとですねー」

「何?」

 座った場所から鈴芽が、言葉を投げるように放ってきた。

「葉太があんまり先輩のことばっかり聞くでしょ? そしたら嫌でも先輩のこと、思い出さなきゃいけないじゃないですか」

「うん」

 そうだろうね。『嫌でも』とはご挨拶だけど。

「そしたら、私も帰りたくなっちゃったんですよ。五日宿に」

 しれっと、天井に顔を向けて鈴芽はそう言った。

 それからこっちを見て、いつものように笑って見せた。悪びれもせずに。


 やっぱりね。横沢鈴芽は変な人だ。

 私は改めてそう思った。


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