五の宿 「横沢鈴芽」 その三
「いきなり……お恥ずかしい所をお見せしました」
「いや、楽しかったよ。賑やかな家で、正直羨ましい」
半分以上本心から私はそう言って、荷物を置いた。調度品の少ない六畳の部屋。どことなくその雰囲気は五日宿のアパートの部屋にも似ている。ここが鈴芽の自室かな。
「あ、狭い部屋でごめんなさい。好きなとこで寛いでくださいね」
鈴芽は部屋の隅からクッションを取り上げて並べた。私たちは各々、普段通りのタイミングと所作で座って一息つく。
「ありがとう。十分広いし片付いてるから、ゆっくりさせてもらえそうだ」
「部屋にあった大抵の物は、五日宿に持って行っちゃいましたから……」
えへへと笑って鈴芽はそう言った。そう言われると確かに、あっちの部屋に置いてある小さな縫いぐるみなどは結構年季が入っていそうにも見えた。……父君の言っていたことにも、やはり分はあるようだ。ただ、その話を今蒸し返すのは止めておこう。
「ところで弟君……葉太君だったかな……彼は相当な恥ずかしがり屋さんなのかな。それとも単に、私が怖がられてるだけか?」
私は話題を変えるつもりもあって、そう聞いた。
「……え? 何でですか?」
「いや。だって彼は私と殆ど目を合わせなかったし、君や父君とばかり喋って、私が言葉をかけても相槌で頷く程度の反応しかしなかったし」
「ああ、そりゃそうでしょう」
鈴芽は意外だといったような態度で言葉を返す。
「あの子、先輩があんまり可愛いから照れちゃったんですよ」
「…………は?」
想定外の返答に、私の思考が止まる。
「気付いてなかったんですか? あの子、先輩のことばっかり見てましたよ。多分、一目惚れですよ、あれは」
「そういう冗談は……」
と私は言いかけたが、鈴芽を見ると普通に真面目な意見として言っている目をしていた。
「罪な人ですねぇ」
「いやいや……ちょっと待ってくれ。そもそも彼は中学生くらいだろう?」
「十分にそういう感情を持つ年頃ですよ」
「私は大学生だぞ」
「はい。知ってます」
鈴芽は笑顔で即答するが、言葉はそこで切った。多分「外見は中学生みたいですが」と続けたいのを堪えたのだろう。有り難いけど不要な気遣いだ。
「そう言われれば、親御さん達は私を見ても特に驚かなかったね」
「ああ、はい。すごく綺麗で可愛い方だって、事前に何度も伝えてありましたから」
「言葉を選んでくれてるのは嬉しいけど、もう勘弁して欲しい……」
「ごめんなさい。でも、本当の事ですし」
鈴芽は笑う。何も含むものを隠していないような、輝く瞳で。
「葉太の気持ちも、多分本当ですよ。まあでも、本人がその口から言わない限り外野からは何も断言できませんし、先輩もそんなに気にしなくていいですよ」
「……ああ、うん。いや……しかし」
「まだ気になります?」
「どうかな……と言うより、よく分からない」
「何がです?」
「人を好きになるとかって、どういう感情なんだろう」
「そのレベルからですか」
私は本心から言ったつもりだったが、鈴芽は冗談半分のように受け取って返す。
「ああでも、そう言えば先輩とは、そういう女子トークみたいなの、したことなかったですね。ちょうどいいや、今晩しますか?」
「……遠慮するよ」
「残念。じゃあ、また今度で」
鈴芽はそれ以上食い下がらずに微笑み、ややあって「お風呂とご飯の用意、手伝ってきますね」と言い残して階下へと降りていった。
……恋か。私には心底縁のない話題だ。自分の名前なのに。
いくらそれが私自身の気に入らなくても、今更逃げようもないほどには刻まれてしまった、私の名前。
どうせなら「恋」じゃなく「変」ででもあれば良かったのにとすら思う。
だってそれなら、お似合いじゃないか。
私にも。それから例えば、彼女にも。
***
「今日は少し涼しいですね。良かった」
「うん。潮風が気持ち良いよ」
翌日は少し遅めに起きて外へと出た。鈴芽が幼少時によく遊んだのだという海辺の岩場を見て回ったり、バスで街の方へも行って私好みの古書店などをひやかしたり。昼食は鈴芽が高校の頃によく食べたのだという中華ソバの店に行ってみたのだが、盆休みで開いていなかった。仕方なく別の店を回り、それからスーパーへ寄って夕食用の食材を買った。そのスーパーの店内も盆を迎えるためのお供えや飾りが売られていて、季節を感じさせる。
ああ、でも横沢家では全くそういう準備などをしていなかったな。多分、そういう家風なんだろう。
バスを待ち、乗って揺られ、降りて歩くとその家へ帰り着いた。父君は不在で、母君と葉太君は各々引っ込んで別のことをしているらしい。静かでありがたいが、少し寂寥感もあるかな。
そうしたら、ややあって鈴芽と母君が一緒になってやってきた。その手には浴衣。綺麗な可愛い生地だが、鈴芽にはどう見ても小さすぎるだろうサイズの。
「……私に?」
「はい。私のお古ですけど、良ければぜひ!!」
***
「葉太も一緒に行く? それとも友達と行くの?」
「約束はしてないけど、多分みんな来て現地集合すると思う。だから着いてくけど、いい?」
「いいよ、行こ」
鈴芽は弟君とそう会話を済ませると、私の隣に立ち、
「こっちです。行きましょうか」
と微笑んだ。薄桃色の生地に、白い流線が可愛らしい浴衣が良く似合っている。本人はその少しクセのある髪の毛や、体格などが和装には合わないと言っていたが、全然そんなことはなく、通りを歩く人々の視線も集めていた。私は橙色の生地の、華やかな柄の浴衣を借りていたが、こっちこそ私には不似合いだと思う。和装には慣れているけど、私のような地味な容姿だと衣装が可哀そうにすら思える。
「あーもう。先輩超可愛いです……」
「ありがとう。君も良く似合っているよ」
お世辞に本音で返す、いつも通りのテンポの会話。ああ、隣を歩く美女の引き立て役でも私は全然構わないよ。それが他ならぬ君ならね。
「葉太も静かについて来てますね。いつもは横からうるさいくらい話しかけてくるのに」
「お姉さんによく懐いてるんだよ。良いものだね、姉弟っていうのは」
「…………はい。そうですね」
ひそひそとそんな会話を交わすうちに、賑やかなお囃子が聴こえてきた。
あれが祭りの会場かな。提灯に模した電灯に飾られた鳥居が見える。
「じゃあ、葉太はここで別行動? 帰りは一人でも戻れるだろうけど、何か困ったら携帯に連絡してね。もうすぐ暗くなるから、気を付けるんだよ」
「ああうん。お姉ちゃんも……真倉さんも気を付けてね」
そう恥ずかしそうに呟いてから葉太君は人込みへと消えて行った。
「じゃあ一回りしましょう。何食べたいですか?」
「……いきなり食べ物からかい? 帰ったら晩御飯もあるのに」
「こういうのは別腹でしょ。じゃあまず、かき氷から!」
いつも以上にはしゃぐ鈴芽。どこかオーバーな程のテンションなのは、やっぱりこれが、幸せに生まれ育った場所での祭りだからなのかな。
かき氷、焼きそば、フライドポテト、わたあめ、射的、投げ輪、くじ引き、ヨーヨー釣り。
よくもまあこれだけ食べて遊べるものだと思う。熱気の中で楽し気に舞う彼女の後を、私はどうにかこうにかついて歩く。半分目を回しながら。まるで夢でも見てるかのような気分で。
その最中、突然、何かの声が聴こえた。
雑踏のざわめきの中、微かに誰かを呼ぶような、縋るような声が。
続けて、
叫ぶような、歌うような。あるいは吠えるような別の音が聴こえた。はっきりと。
それは確かに、実際に私の耳と胸を震わせた。
どん。
と、周囲の空気が揺れたのが分かるほどの音響。
皮を叩く木の棍。共鳴する木の胴。
それが和太鼓の音だと分かったのは、最初の響きから数拍遅れての事だった。
祭りの最高潮を高らかに告げる、盆踊りの為の拍子。
恐らくそれはこの現代における地方行事では珍しくなりつつあった、神社で正しく神事として使用され続け、霊験を得ている、由緒のある古い和太鼓だったのだろう。その打ち手もまた、正しくそれを扱い、響かせたのだろう。その瞬間、
周囲の霊気が爆ぜた。
熱気で朦朧としかけた私の目に、光る霧がかかる。
視える。視えてしまう。
周囲の人間と、それに縁のある魂たち全てが。
それは光の洪水のように視えた。
日は沈み、電灯にだけに照らされていたはずのこの場所。
その暗がりが、逆に魂のもつ輝きをより強く、私の目に溢れさせる。
あ……鈴芽は。
鈴芽は? 何処に?
見えない。視えない。
太鼓の音が響く度に溢れる光が私の視界を遮る。
盆という特異な、現世と常世の境が曖昧になる季節ゆえ、なのか。どうなのか。
この溢れる、光る霧たちの正体が集まった人々の生きた魂なのか、あるいは本当に彼岸から還って来た死せる者たちの魂なのかも、判別などとてもつかない。
ただ、視界が効かない。「視る」ことを止められない。
落ち着け、私。
大丈夫だ。祭り太鼓だって永遠に鳴る訳じゃない。
下手に動かず、状況が安定するのを待てばいい。
あるいはそうしていたら、鈴芽がきっと私を見つけてくれるはずだ。
だから、落ち着け。落ち着いて……
『おねぇ……ちゃん……』
声が聴こえた。今度はより、はっきりと。
鳴り響く和太鼓の間。行きかう人々と魂の雑踏の間を縫って、その声が私の耳に伝えた。
『どこ……? お姉ちゃん』
……葉太君か?
鈴芽を呼んでいる? 鈴芽によく似た声で……。
……いや…………違う。
『ねえ……お姉ちゃん……どこ……?』
この声は、このよく知った声は……。
私は思わず、一歩前へ踏み出した。すると光る霧たちは私の動きに合わせて流れる。あるいは留まったままの場所もあるけれど、それはきっと人込みで、そうでないところは人が少ないのか? かき分けて進めそうだ。
私は声を頼りに進む。何故か聴こえるその声に向かって。
いわゆるカクテルパーティ効果と呼ばれるものだろうか?
雑多な音たちの中で、聴きたいと想う声だけがはっきりと聴こえるという現象。
近いかもしれないし、全然違うのかもしれないけれど。
その声は聴こえ続けた。晴れない光る霧と同様に。
それはもしかすると、私には目だけでなく、耳にも特異な資質を持たされているということなのかもしれない。
あるいは元々、私の感覚器官か脳神経全体がそういった……いや、止そう。それより、今は……。
『お姉ちゃん……』
「……鈴芽」
私は、ほとんど目の前で呼びかけられた程にはっきりと聴こえるようになったその声に向かって、語りかけた。
思わず、彼女の本当の名を。
「!…………菜種お姉…………ちゃん……?」
聴こえた。今度は確かに。
本当の音で。声で。
その瞬間。霧が晴れ始めた。
和太鼓が少しだけ、遠くで鳴っているかのように聴こえる。目を凝らすと、ここは祭りの中心から少し離れた雑木林に近い場所だった。
そして私の目の前には、薄桃色の浴衣を着た人物の後ろ姿。鳶色のくせっ毛。
「!……お姉ちゃ…………」
「スズ」
振り返った彼女と、散り輝くような光が見えた。
「……せん…………ぱい」
「うん」
眩しい霧が晴れ、闇を取り戻してゆく世界の中で、彼女の頬だけが光って見えた。
祭りの喧騒を照らす提灯型の電灯の、その現実的な光を照り返す、彼女の涙で。
***
お祭りでしっかり食べてきたからと言い訳し、私と鈴芽は部屋へと引き上げた。
交代で入浴させてもらい、どうにか一息ついた後、鈴芽は自室の奥からアルバムを一冊、出して見せてくれた。
幼い頃の鈴芽。特徴的なくせっ毛の少女と、今より若い家族達の写真。それから……
終わり際のページに隠すように挟まれた一枚。そこには、
鈴芽とよく似た、でも明らかに違うもう一人の少女が、鈴芽と並んで笑っていた。
少女の名は、横沢|菜種。
鈴芽の一つ違いの姉だったそうだ。