五の宿 「横沢鈴芽」 その二
その霧のような「それ」は、生きている人間の周囲には必ず視えた。そしてごく珍しい場合には、生きている人間のいない場所でも視えることがあった。
煙のような匂いはなく、霧や湯気のような湿り気もない。ただ視えるだけの何か。
明るいところでは薄ぼんやりと。そしてむしろ、暗い場所では瞬き光っているようにさえ見える「それ」。
「それ」がいわゆる霊魂や霊気と呼ばれるものと同一なのか否か。私はまだ確証を持っていない。ただ、そう考えるのが最も理に適うと、今は信じている。
また私には、「それ」がはっきり視える時期と、そうでなかった時期、全く視えなかった時期とがある。
だからいわゆる普通の人々には「それ」が視えず、微かな気配さえ普通は感じられないということも今では理解できているつもりだ。
勿論、誰だって「他者の目や視点を借りる」なんてことはできないはずだから、断言なんかしないけれど。
ただ鈴芽は「それ」を視ることができないようだし、また、ほんの限られた瞬間、そう例えば「宿りの家の怪異」や「逆手の蛇神」は視えたとも言っていた。
私はその言葉も信じている。かつて信じてもらえなかった自分の代わりに……だなんて思いが、まるでないと言えば嘘になるかも知れないけれど。
子どもの頃、拙い言葉で私は親たちに訴えた。「そこにみえるよ」「ほら、あそこにも」と。
結果、何軒も眼科や総合病院、心療内科等々をたらい回しにさせられた。妙に度のきつい眼鏡を常時かけさせられたのも今では少し懐かしくさえ思える。
ある程度知見を得て論理を組み立て、「結局、何がどう見えているのかなんて人それぞれ」だというごく当たり前の結論に至れたのは有難いことだった。
気にさえしなければ飛蚊症と何も変わりはしないとさえ言える。特に強がる必要もなく。
勿論そんな結論に、若輩者である自分一人の力で至れたとも思っていない。私は多分、比較的幸運だったんだろう。
私は鈴芽の後頭部付近をちらりと視た。微かに立ち上り漂っている彼女自身の「それ」。その他には特に何も視えず、感じられない。今は。
他の乗客を視渡す。比較的濃く視えるその人物自体の「それ」の他、背後付近に薄くまた別の「それ」を漂わせている人が何人かいた。
オカルト的な用語でいえば前者は「生霊(あるいは生者の魂)」、後者は「背後霊(あるいは守護霊。またあるいは、憑き物)」なのだろうか? やはりこれらも、結論には至れてない。
ただ、鈴芽の背後にも後者の存在は一時期視えていたはずだった。具体的には出会った直後から……あの「宿りの家」の怪異に触れられたという日までの間には。
あの時の光景を思い出すと背筋が寒くなる。
彼女自身の魂は極度に委縮し、逆に、掴まれたという足元付近を中心に全く異質な何かが蝕んでいた。
お神酒を飲ませて吐かせた後はかなり落ち着いたようだったが、それでも足首には輪のように纏いつく何かが視えていて、それが翌日、完全に消え去ったのを確認できた際には内心で泣くほど嬉しかった。
と同時に、気づいた。その事件の直前まで確かに視えていたはずの彼女の背後の「それ」が、視えなくなってしまっていることに。
その原因や、事件との因果関係は一切分からない。せいぜい何通りかの推論が立てられる程度。ただ、はっきりと断言できるのは、あの「家」が間違いなく関わっているという、一点だけ。
以来、私は鈴芽を定期的に見守っている。いや、「監視している」というべきか。
これほど身近に、私自身の究明すべき謎へと関われた存在がいる。こんな機会は今後訪れないかもしれない。
それは打算だった。言い訳など一言もない。でも本当のことで、本当の気持ちだ。
私は彼女を見守りたい。
たとえそれが徹頭徹尾、自分自身のためだとしても。
***
「うわぁあ……」
鈴芽が声を上げた。私も目を見開く。
二度乗り換えた電車の辿り着いた先。五日宿周辺の町とそう変わらない程度の田舎町。その駅から歩いて出た先の街路。
そこには一面の青と蒼と碧とが広がっていた。空の青と、海の蒼、そして木々の碧。
少しだけ海に突き出た岬。その丘の上にある駅から見下ろす路を、私と鈴芽は並んで歩いた。
つまり、
「あ……暑いぃぃ……」
「これは……堪えるね」
雲一つない快晴イコール遮られない直射日光シャワーのお出迎えだ。私は日傘を差して、鈴芽は鍔の広い帽子を被ってそれをどうにか避けようとするけど、道路から照り返す光と立ち上る熱だけはどうしようもない。
「あと……どれくらい?」
「ありがたいことにもう少しです。あの標識の角まで……」
互いを励ましながらどうにかその角まで歩き切ったとき、どことなく似た外観の家屋が三軒、並んで建っているのが見えた。
「あれかな?」
私はその一番手前にある家を指さした。
「あ、そうです。よく分かりましたね」
「単に一番近い家であって欲しいと思っただけだよ……」
「ああ……確かにそうですね。あははは……」
言い合いながら、私たちはその家の門まで何とか辿り着いた。表札には勿論「横沢」と書かれている。
「ただいまぁー……」
玄関のドアを開けながら鈴芽が家の中へとそう呼びかけた。
「お邪魔します」
私もその後へと続く。ドアの内側は、外に比べると涼しい。日陰がとても有難い。
「はーい。お帰り、鈴芽。それに、いらっしゃいませ……ええと……」
鈴芽に少し似た声の女性が奥からやって来た。母親だろうか。
「はじめまして、真倉です。二晩ほどご厄介になります」
私は頭を下げてそう告げる。
「ああ、真倉さんでしたね。鈴芽からよく聞いてます。いつもこの子に良くしてくださって、ありがとう。どうぞ上がって、ゆっくりしていってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
私はできるだけ愛想のいい笑顔でそう受け答えした。マニュアル通りにやっているつもりだけれど、これで本当にいいのかどうか、実は自信がない。
鈴芽は私の所作をいつも「ちゃんとしてて、すごい!」と褒めてくれるが、それは(色々といい加減な)彼女から見てのことで、第三者から客観的に見られたなら穴だらけなんじゃないかと思う。
ただ、鈴芽の母君は穏やかな、人の好さそうな笑みを浮かべたまま私を奥へと案内してくれたので、ひとまずは及第点以上の挨拶はできたのだろう、と思う。
「ああぁ……涼しいぃぃい!」
廊下を抜けた先の、十畳ほどの洋室は奇麗に片づけられていて、冷房が効いていた。歓喜の声を漏らす鈴芽。私も同様にこの冷気を有難く感じてはいるが、外気温との差が大きすぎるのも身体には負担だ。肩に羽織るための服を準備しておこう。
「先輩どうぞ座ってください。あ、お茶も用意してくれてる。お母さんありがとー!」
鈴芽が部屋の奥に向かって言葉を投げかける。母君はこの部屋へは来られないのかな?
「多分お母さん、お父さんを呼びに行ったんでしょうね」
「仕事場へかい?」
「はい、事務所が離れにあるんです。ほら、ドアの音が」
勝手口なのだろうか。玄関とは別方向からドアの開閉される音と、続いて足音が響いた。
「お帰り、鈴。ようこそ、真倉さん」
部屋のドアを開けて、鈴芽と同じ鳶色の目をした背の高い男性がそう挨拶をした。
「ただいまー。お父さん」
「お邪魔しています。真倉です」
鈴芽と私は挨拶を返す。すると、
「はじめまして真倉さん。鈴の父です。娘がお世話になってます。……ああ、良かった。こんな辺鄙な場所にまで無事に来てもらえて。これでやっとご挨拶ができた。お礼もずっと言いたかったんですよ。本当に、鈴に毎日良くしてくださってるそうで。この子は、外見だけは大人に見えますけどまだまだ全然子どもで我儘で甘えん坊で大変でしょう。ありがとう。これからも娘をよろしく!」
父君は私のような小娘に向かってぺこぺこと頭を下げながら、早口にそう言った。私は少し面食らう。
「い、いえ。こちらこそわざわざ電車賃までご用意いただいてのご招待。痛み入ります。ありがとうございます」
何とかそう挨拶を返すが。
「そんなそんな。当然ですよこれくらい。狭いとこですが、どうか自分の家だと思って寛いでくださいね。ん? どうした鈴。変な顔して、腹でも痛いのか?」
「誰が子どもで我儘で甘えん坊だって……? お父さんに言われる筋合いはないなぁ!」
「え、でもお前。引っ越しの荷造りしながら泣いてたろ?」
「お父もでしょ! 私はもらい泣きしただけで」
「大差ないだろそんなの」
「めっちゃあるよ! 全然違うし!」
それまで全く聴いたことのなかった声と見せた事のなかった剣幕で鈴芽は父親へ声を上げる。
「だいたい、専門だってお父の知り合いが講師やってるからって理由であの学校に行かせたんでしょ? 親バカ過ぎだよ。ねぇ先輩?」
「え、あ、うん」
「そうかぁ? でも、それが嫌なら大学受験でちゃんと結果出せば良かったんじゃねぇのよ。それができなかったのに文句言うのは筋が違うんじゃね? ねぇ真倉さん?」
「あ、ああ、はい」
困った。埒が明かない。
何だろう。テンションが通常の三倍くらいになった鈴芽が二人いて口喧嘩を始めたみたいな空気だ。
収まるんだろうか、これ。というか、もしかしてこうなるのを見越して、鈴芽の母君は戻って来られないんだろうか?
私がぐるぐるとそんな思考を巡らせていると。
「お姉ちゃん帰ったの?」
と、もう一つ別の声がドアの向こうから聴こえた。
「「葉太ぁ~~!!」」
声を揃えて、その人物を迎える鈴芽と父君。迎えられた人物……日に焼けた細身の、だけどしっかりした体つきの少年は呆気にとられる。
「何? ……まさか帰ってくるなり口喧嘩してたの?」
「だってお父が……」
「いや、鈴が……」
「二人とも待った。久しぶりだからってそんないきなり仲良くしないでいいよ。お姉ちゃん、次の週末までいるでしょ? ならまだまだ時間あるんだし、慌てずじっくり、仲良くケンカしたら?」
「……うう……」
「……うむむ……」
鈴芽も父君も、彼の言葉で冷静になったのか、ばつの悪そうに俯く。
おお……。私は感心した。この子が鈴芽の弟君か。
歳の割にしっかり者だとは聞いていたけど。その通りのようだ。
「はじめまして。お邪魔しています」
私は訪れた静寂への感謝も込めて、彼に挨拶の言葉を贈る。
「……え……? あ、はい」
声をかけられたのが自分だと気が付いた少年は、そこで初めて視線をこっちに向けた。……もしかして私の背と存在感が小さ過ぎてそれまで視界に入ってなかったのかも知れないけれどそれは今、考えない。
「鈴芽さんと同じアパートの友人で、真倉です。よろしく」
「…………」
内心の懸念を悟られないように、私はできるだけの笑顔で言葉を続けたつもりだったけれど、少年は返事をすぐにしない。こっちをじっと見て。少し驚いたように目を丸くして、それからやっと
「あ、は、はい。よ……横沢、葉太です。よろしく……お願いします」
と、視線を逸らしながらぼそぼそと呟いた。
とても恥ずかしそうに。耳まで真っ赤にして。