五の宿 「横沢鈴芽」 その一
私は自分自身が変な人間なんだろうなという自覚がある。
だけれど、
横沢鈴芽も大概、変な人間だなと常々考えている。
***
彼女はよく喋る。人付き合いの良い方でもなければお喋り好きという訳でもないと自分で言う割には、だいたい常に何か喋っている。
でもいつだったかそのことを指摘したら
「先輩の方がよく喋ってますよ」
と真顔で返された。
「それは君が色々話のネタを振るから、結果的に私も喋らせられてるだけだよ。私はそもそも人と話すのは得意じゃないんだ」
そう私は反論するが、
「え、じゃあ先輩は私にだけ、そんなに喋ってくれるんですか?!」
と、大きな鳶色の瞳をキラキラさせながら両手を胸の前で組んで笑って見せたりする。リアクションもいちいちオーバーだ。子どもっぽい……いやむしろ、子どもそのものだ。
彼女はよく笑う。
夏休み前の月末だったか、私の食費と備蓄食料が尽きかけた時、彼女は喜んで夕食を恵んでくれた。
「任せてください! お料理手伝ってもらえるなら、ウチの冷蔵庫空にしちゃっても全然OKですよー! あ……でも今日は、食卓のメイン張れるタンパク質ってあんまり残ってないんですよね……せいぜい、シカ肉くらいしか。シカだけに!」
直売所の自家製鹿肉ベーコンのパックを取り出して見せながら、鈴芽はけらけらと笑った。
山間に建つこのアパートは夏が来ても涼しい風が吹き込んできて過ごしやすいのだけど、冬でもこの調子だと凍えてしまうだろうなと、私は身震いした。
彼女はよくやって来る。ついて来る。
私の部屋にも、出かける先にも。
「先輩、ちょっとお邪魔していいですか?」
「どうぞ。散らかってるけど」
「先輩、どこ行くんです?」
「食料の買い出しに」
「私も行っていいですか?」
「もちろん」
「先輩、この後どうします?」
「そうだね、図書館経由で帰ろうか」
「先輩、一緒に行きませんか? 私の田舎へ」
「ああ、いいよ」
私はいつも、特に躊躇もせずに返答する。せいぜい断るのは、私のバイト先にやって来ようとした時だけだ。
それ以外なら、村の様々な場所や大学の構内にまで鈴芽はついて来た。
私よりずっと長い脚で時には悠々と。
私より若干重い身体で時には汗と泣き言を散らしながら。でも、健気に。
「じゃあ、準備しといてくださいね!」
不意に鈴芽の、どこか歌のように弾んで響く声が私の耳を実際に震わせ、思考を中断させた。
「え? 何の?」
私は持っていた本を別の本の上に平置きしつつ尋ねる。
「帰省のですよ。さっき一緒に来てくれるって言ったじゃないですか」
「帰省? えーと……君の田舎へ?」
「はい、そうですよ。何にもないとこですけど、家族みんなで大歓迎しますから」
にこにこと笑いながら彼女はそう言った。
いつだったか話してくれた、海の近くだという彼女の実家。
きっと奇麗な場所なんだろうねと私は言い、そんなことないですよと彼女は首を振った。
でも多分、私の予想は当たると思うな。
だってそこは、君が生まれ育った場所なのだから。
五の宿 横沢鈴芽
バスで数十分かけてやって来た駅のホーム。くすんだ赤色のベンチに私たちは並んで腰を下ろした。まだ午前中だというのに暑い。時計を見ると次の電車が来るまで二十分は待つようだ。
「アパートとの温度差すごいですねぇ……」
鈴芽が額の汗を拭きながら言う。
「君の部屋と比べたら、そりゃそうだろうさ」
私は持っていた本を開きながらそう返す。
「そんなに私、エアコンに頼ってますっけ?」
「あの古いエアコンの消費電力を考えたら冷や汗で涼しくなれそうな程度にはね。日中は仕方ない日もあるだろうけど、朝夕なんかは使わなくても乗り切れるはずだよ」
「確かに先輩はあんまり使わないですよね……さすが我慢強いというか……」
「電気代をケチってるだけだとはっきり言っていいよ」
「えええ……いくらなんでも、本気で言ってます?」
「半分はね」
「あはは」
私は本をぱらぱらと捲り、目的のページを探し当ててから軽く視線を上げて彼女の横顔を見た。長い睫毛の下、目を細めて笑っている鈴芽。その名前の通りの、鈴の鳴るような、あるいは小鳥のような声が人のまばらな無人駅のホームに響く。
「じゃあ、残り半分はどんな理由なんです?」
「冷房の風が苦手なんだよ。冷たい風を浴びていると具合が悪くなる。冷え性なものだから」
「ああ、だから……」
鈴芽がふと、私の手元……いや、それとも持ってる本か……を見て呟く。
「ん?」
「あ、いえ。何でもないです」
今の話題と、この本とに何か納得するような関係でもあったかな。古い風土記の注釈付き写本。少なくともエアコンや冷え性とは全く関連性が見いだせないけども。
「ところで、本当に良かったの?」
何となく気まずくなりそうな感じがして、私は話題を変えた。本はまだ開いたままで。
「何がですか?」
「往復の旅費とか全額出して貰ったりして」
「ああー、そんなの当然ですよ。こっちが誘ったんですから!」
それはもう何度も聞いた。だけど未だに納得できかねている。電車賃だけでも決して少額ではないはずだし、鈴芽はアルバイトも大してやってはいない。つまり多分この旅の予算の出所は、例の過保護なご両親だと推察できる。深く詮索はしないけれども。
「先輩こそ、迷惑じゃなかったですか?」
「全然。楽しいよ」
「本当に?」
「うん。だって私は旅行なんて修学旅行くらいしかしたことがないし、五日宿とその周辺にしか住んだこともないからお盆の帰省だなんてものも、本でしか知らないからね。正直とてもワクワクさせてもらってる」
私は割と本気でそう答えたけれど、鈴芽はやや訝し気だ。
「えええ……それってまるで、社会見学か何かみたいじゃないですか」
と漏らす。まあでも、その言い草も間違ってはいないか。
「言い得て妙だね。でも、楽しいのも本当だよ。……君はどうなんだい?」
私は矛先を鈴芽へと向け返す。
「私ですか? うーん。別にどうってことは……ただ家に帰るってだけで」
「とは言っても、君だって帰省するのは初めてのはずだ。一人暮らし一年目なんだから」
「あ、確かに」
「だろう? ご先祖の霊の気分を味わってみるのも一興だよ」
「……え?」
本の活字を追いながら私が言った何気ない一言。
「ん? どうかしたかい?」
何でもない言葉だったはずなのに、それまで一定のテンポを保っていた鈴芽の返答が不意に途切れた。私は本から目を離し、見上げる。どこか呆気にとられたようなその表情を。
「霊の気分って……どういうことですか?」
「言葉通りだけど……」
私は困惑する。いや、先に困惑したのは鈴芽の方なのだけど、一体何が原因なのかが、私にはまるで分からない。
「だって、お盆なんだよ? 日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した季節行事だ。地方や宗派によって多少は違いもあるだろうけど、亡くなった祖先の霊を祀るっていうのがその考え方の基本だと思ってた。君の実家では違うのかい?」
「……あ。ああ、そうか。そうですよね……お盆って、そういう行事ですもんね。あはは」
え? まさかとは思うけど……
「君はお盆がどういうものか、知らなかったのか」
「い……いやいや! 知ってましたよもちろん!」
「誤魔化さなくていいよ。成程ね……」
私は呆れ気味にそう言ったが、すぐに少し考えなおした。クリスマスを祝った数日後には寺が鳴らす除夜の鐘を聞きそのまま神社へ参拝するような現代日本では、別に珍しいことでもないし実害も特にないだろう。
五日宿のような閉鎖的な地域でさえなければ。
「私がさっき言った言葉の意味は、そういうことだよ。亡くなった人の霊が還って来ると云われている時期に合わせて、君も久しぶりの実家へと帰るわけだから、何かしら感じられるものがあるんじゃないかっていう。それだけの事でね」
「ああ……そうですねぇ…………亡くなった人かぁ……」
鈴芽は俯いてそう呟く。
私は内心、自分の語調が強すぎて彼女を戸惑わせていないか少し心配になってきていた。何か言い足そうか。あるいはまた話題を変えようかと思案していると、
「先輩は、その……視えるんです? 何ていうかこう、お盆だと特に多い……とか」
と、鈴芽が先にまた、口を開いた。
「ん……ああ。お盆はむしろ、逆に静かだよ」
「そうなんですか?」
「うん。多分その理由は……」
と、私が説明しようとしたその貧相な声を、不意に電気的な野太い声が遮った。
「次の電車、参ります。ホームの内側、黄色い線までお下がりください」
アナウンスに応じて、それまであまり気にも留めてなかった他の乗客が寄って来るのが見えた。その数はほんの僅かでも、電車は一両しか来ないから必然的に同じ乗車口へと集うことになる。
「また後にしようか」
「あ、はい」
私たちはそう言い合って、足元に置いていた荷物を拾い上げる。
やがて、ホームへと入ってきた電車のドアが開くと、降りる客はいなかったので私達はすぐに乗り込んで、空いている座席へと座る。まったく混んではいないけれど、まったく人がいないわけでもない閉鎖された空間。そこでは普段一緒に過ごしているアパートのように会話をするわけにもいかない。必然的に私と鈴芽は口を閉じて、本や携帯電話を相手にし始める。先ほどまでの会話の内容は一旦保留して。
まあ、仕方ない。それに、うまく説明できたかも自信がなかったし。
電車が動き始めた。私はほんの少し視線を上げて、車内を視る。
意識を少しだけ朧げにして、電車内の床でも壁でもなく、中空にピントを合わせるように、「視る」。
すると、
ああ……視えた。
薄い霧のようなものたち。座っている人々の周囲にだけ、留まるように立ち込める何かが、私の目に写った。
前方の座席にも、後方にも、それから、
私の友人、横沢鈴芽の周囲にも。