四の宿 「五怪談」 その三
あれ……でも、これって……。
「ちょっと待ってて」
先輩はそう言うと、放送室のドアのもう少し先にある、古い机や棚のような物が転がっている一角まで歩いて、
「ん…………あ、あった」
その壁板のほんの少しの隙間に細い指を滑り込ませて、何かを引っ張り出した。
「それって……」
「うん」
それは、鍵だった。凹凸の大きな、古い鍵。短い帯みたいな紐がついてて、よく見るとその端に「放送」って書かれてた。
先輩はその鍵を、放送室の扉にあった鍵穴へと差し込む。
「んっ……くっ………よし」
先輩は少しだけ手間取りながらも、その古い鍵を時計回りに回す。すると、かちゃりという小さな金属音がした。
「開けるよ」
そのままノブを回して、先輩は扉を開いた。部屋の中と外の空気が、扉の動きにつられるようにして動き、流れる。埃が舞って、先輩の持ったライトの光に霞んだ影を落とす。
「うん。何も異常はないね。安心した」
先輩はライトを部屋の中へ向けてそう言った。私もその中を見た。
きれいに整頓された部屋が見えた。部屋の窓は表の校庭に面していて、カーテンはかかっていたけどその隙間からほんの少し、外の世界の光が漏れ入ってる。
古いマイクとスピーカー。それらを操作するためのコードとスイッチ。それに、何かの本や書類。
全部あるべき場所に整えられて、並んでるように見えた。
「ここが、呪いの放送室……なんですか?」
「そうだよ。もちろん呪いなんかはここにはない。君が見てる通り、私にもただの古い放送室としてしか見えていないからね」
怪談に出てきた「血のように赤い文字とも記号ともつかない何かが描かれた紙」なんか、一枚も見当たらなかった。
ただ一つだけ、それに近いイメージのものが、扉に書かれていただけで。
「じゃあ戻ろうか。ナツやアキもそろそろ本を選び終わってるだろうし」
「……はい」
私がそう返事をすると、先輩は放送室の扉を閉めて、鍵をかける。
それから鍵を元あった場所には返さないまま、元来た道を引き返した。
私もその後へ続く。
「足元、気を付けるんだよ」
先輩はもう一度そう言って、私の手を握ってくれた。
その手はやっぱり、少し冷たかった。
***
「お待たせー」
奈津美ちゃんと明くんが校舎から出て来た。私と先輩は会話を中断させて
「お帰りー」
「どうだった? 人気のない校舎は」
と、口々に言う。
「すげー怖かった」
と、明君。
「ぜんぜん怖くなかった!!」
と、夏美ちゃん。
どっちも半分本当で半分嘘みたいな、変なテンションの声に聴こえた。
「じゃあ、気を付けて帰ってくださいね」
先生が二人の後ろからそう声をかけてくれた。私は「はい」と答えて会釈する。そしたら先輩が
「先生。これ、さっき校庭で拾いました」
と言って、何かを差し出した。
鍵だった。旧校舎の放送室の。
「あ、はい。……え、あなた……」
「はい」
鍵を渡す先輩。受け取った先生。
「恋ちゃん?」
「ご無沙汰してます。挨拶が遅れてすみません」
先輩はそう言ってから軽く頭を下げた。言われた方の先生は少し驚いた顔をして、それから二人の生徒と、私の顔を順に見た。
「帰って来てたのね。良かった」
視線を、目の前の真倉先輩に戻してから先生はそう言った。
「はい、お陰様で」
「何言ってるの。私は何も……。ねえ、あの子は友達なの?」
「はい。同じアパートの友人です。……スズ」
先輩が私を呼ぶ。
「あ、はい。私、横沢鈴芽です」
私は急に話を振られてちょっとびっくりしたけど、どうにか挨拶をして、頭を下げる。
「横沢、鈴芽さんね。私は三園良子。ここで長いこと教師をしています」
「知ってるよー」
「ていうか、恋姉も良子先生に習ってたの?」
明君、奈津美ちゃんが会話に入ってくる。
「そうだよ。10年近く前の話だけど」
「えっ10年? 私ら生まれたころ? ヤバい! ほんと?」
「別に驚くことじゃないだろ。私をいくつだと思ってた?」
「オレらの3つくらい上かなーって」
「……いや、流石にそれは……そうなのか? ナツ」
「うん」
「……そうか……」
急にそんな話の流れになってしまい、先輩はがっくりと肩を落として見せる。
その様子を、三園先生と私は並んで見ていた。いつも冷静で背筋を伸ばしてる先輩がしょげて見せる姿は珍しくて、私の頬が自然に緩んだ気がする。そしたら、
「鈴芽さん」
と、横から小さな囁き声が、聴こえた。
「はい?」
声の方へ向いて、私は答える。三園先生のどこか眠そうな、でも優しそうな瞳がこっちを見ていた。
「恋ちゃんをよろしくね」
先生はそう続けた。多分、私にだけ聴こえるように。
「はい」
私は、やっぱり先生にだけ聴こえるくらいの声で、そう答えた。
***
それから思ったより暗くなってしまった山道を、ブレーキかけながら恐る恐る降りて行って、大家さんの家に私たちは帰った。
冷蔵庫に用意してくれていたカレーを温めなおして食べてると大家さんも無事に時間通り帰って来て、先輩は待望の10%オフチケットを受け取り、そして私と一緒にアパートへ引き上げた。
「少し、お茶にしませんか?」
「いいね。お邪魔しても?」
「どうぞ、散らかってますけど」
私は、先輩を自分の部屋に誘う。
温めのインスタントコーヒーにミルクとお砂糖をしっかり入れて、先輩に渡した。ふーふーと冷まして、それをひと舐めした先輩は
「ちょうどいいよ、ありがとう」
と言って笑ってくれた。
澄んだよく通る声と、それよりもっと澄んだ表情で。
「……つかえが取れるっていうのは、良いもんだね」
カップを机に置きながらそう言った先輩。
私はその黒い瞳を見つめて、呟いた。
「先輩が、五番目の怪談だったんですね」
と。
「うん」
先輩は、そう答えた。少しだけ瞳を伏せて。
***
真相はこうだった。
先輩は元々、旧校舎にはよく入っていたらしく、放送室のカギも偶然見つけて、壁の穴に隠していたそうだ。
ある日、クラスメイトからのいじめに耐えかねた先輩は、いじめっ子たちを旧放送室におびき出して怖がらせてやろうと考えた。
以前より子供たちに怖がられていたドアの赤い文字らしきものに似た図形や記号を紙に赤絵具で書きなぐり、放送室内に散乱させておき、逃げ込んでおびき寄せた。
鍵とドアは開けておき、自分は廊下の廃材の奥に隠れる。旧校舎は自分だけの遊び場だったから、隠れるのは簡単だった。
「もし追手が部屋の中を見ても怖がらず、放送室に入っていったら、閉じ込めてカギをかけてやれとまで思ってたよ」
我ながら後先考えてなかったなと言って、先輩は笑った。
作戦は予想外なほど成功して、先輩は無事に家へ帰れた。
翌日と翌々日は仮病で休んだだけ。なのにもう、噂は一人歩きを始めていた。
だからその後は、休み時間も旧放送室内へ入って、一人で静かに本を読んで過ごすことができた。
こうして五番目の怪談が生まれた。
元々、五日宿の小学校に伝わってた怪談は「四怪談」だったそうだ。少なくとも先輩が在籍してた当時には。
でもそれが10年近く前から一つ増えて、五怪談になってしまっていた。
「それを自分自身が知ったとき、ひどく驚いたし怖くもなったよ。怪談でもなんでもないことを、知ってるからこそね」
先輩はそう言って、冷めたコーヒーを口に含んだ。それからカップを置いて、また話し始める。
「ドアの前に書き殴られてた赤ペンキの文字はね……」
「分かります。『ハイルナ』っていう、ただのカタカナですよね? 昔の書き方で右から左に書かれてて、普通に読むと意味不明な『ナルイハ』になっちゃうし、すごく崩れた字だったから、子どもには得体のしれない記号に見えた」
「そう。知ってさえいれば何とも思わないのにね。だから、それを利用させてもらったんだ。子どもじみた小賢しい発想だよ」
「……そんな」
「そして、無責任にも忘れていた。拾った鍵を隠したままにしていた事をね」
置かれたカップへ視線を落としたまま、先輩は語り続ける。
「アキの話で、やっと思い出せたんだ。だから学校に電話したとき、電話を取られたのが三園先生だと私には分かったのに、ナツたちの保護者だとしか言えず、自分の名までは名乗ることができなかった。何となく、あの鍵をちゃんと返してからでないと、顔向けできないような気がして……」
そこまで語ってから、先輩は視線を上げてこっちを見た。いつもの、冷静で強弱の少ない表情。なのに、
「一人で片づけるつもりだったんだけど、君も巻き込んでしまって申し訳ないと思ってる」
そう続けた声と見つめてくる瞳は、どこか切実で、なぜか寂しそうだった。
「そんなこと……」
私は言葉に詰まる。
「そんなことないです。先輩は何も悪くなんか」と、そう言いたかったのに。言おうとしたのに。
静かになってしまう部屋。
ほんの一瞬の間。
それとも、魔? 「逢魔が刻」の、何か、悪いもの?
その沈黙がひどく耐えがたいもののように感じられてしまって、私は慌てて、手に持っていたカップを口元へと運ぶ。
一口啜って、その苦みを感じて、飲み込んで、机に置く。
その間に、頭へ浮かんだ言葉と心に浮かんだ気持ちをとを吟味して、準備して、整える。
ほんの短い怪談の、結末を持たない物語のように。
うん。きっとこれなら……大丈夫かな。
「そうですね……私が着いて行かなかったら、真相は永遠に闇の中だったわけですよね?」
手を後ろについて、背中を反らして天井を見ながら私はそう言ってみた。
「ん……まあ、そうだね」
それは意外な返しだったようで、先輩はそれだけ言って応じる。
「なら、私が誰にも、何も言わなかったら、この怪談はやっぱり、怪談のままなわけですね。あの小学校の」
「だろうね」
「ちょっと嬉しいです」
私は、笑顔でそう言って見せた。
嘘じゃない。だって、探して見つけた言葉と気持ちの中には、確かにあったものだから。
きょとん、とする先輩。
笑顔のままの、私。
「……なら、良かったよ」
「はい」
先輩はそれ以上何も言わないで、微笑んで、残ったコーヒーをきれいに飲み干してくれた。
私もそうした。冷めた、苦いコーヒーを飲み込んで。
「それじゃ、ごちそうさま」
そう言って自分の部屋へと引き上げて行く先輩の、小さくて丸い背中へ、
「お休みなさい」
とだけ声をかけて見送る。
「お休み」
そう返してくれた先輩の声が普段通り響いてくれたことに、少し感謝めいたものを感じながら。
***
軽くシャワーを浴びて着替えると、私はすぐ寝床へ横になった。
目を閉じて、想う。
先輩が子ども時代を一人で過ごしたという放送室を。
誰もいない、世界から切り離されたような、きれいに整えられていた暗い部屋を。
あの、旧校舎へ向かう前の変な違和感の正体も、今なら分かる。先輩はあの過去を、隠したままにしておきたかったんだろう。
だけどそれを諦めて、私に分かるように全部語ってくれた。
だから、
嬉しかったのは本当。
先輩が私に真相を話してくれた。それだけでも私には十分だ。
そして、三園先生が帰り際に言ってくれた言葉の意味も、きっと今は、はっきり分かる気がする……。
重い眠気が、すうっと瞼の奥へ降りかかってきた。
もう少し今の気持ちを胸に感じていたかったけれど、今日はもう、ここまでかな。
明日になっても、思い出せると、いいなぁ……。
でも、忘れてしまってもいいのかもしれない。それはそれでさ。
それこそ、初めて聞いた時どんなに怖くても寝て起きたら忘れちゃう、夏の怪談みたいに。
夏かぁ……。
夏休み、まだ長いなぁ……。
明日はどうしよう。そうだ、帰省のこともそろそろ……考えないとな…………。
***
眠りに落ちる直前に考えてた内容がそんなだったからだろうか? 私はその晩、少しだけ変わった夢を見た。
私の実家へと続く道を、小さな頃の私が歩いてる夢だった。
その道は歩き慣れた一本道で、子どもの足でもすぐに家までたどり着く短さのはずなのに、歩いても歩いても、ずっと同じ風景なのだ。
どこまで行っても、どれだけ歩いても。
なのに私はそれが苦にならないみたいで、逆に可笑しくて、楽しくて、きゃらきゃらと笑っていた。
まるで目に映るもの全て、耳に響く音の全てが愛すべき宝物だと信じきってるみたいに。
青い空。入道雲。蝉の声。
そんな愛おしい景色と季節の中に、ずっと抱かれてるように見えた。
帽子を被ってくるくると、踊るように笑って歩く私の影と、
それから、
その隣で日傘をさして静かに微笑んで歩く、小さな誰かの影とが。