プロローグ
冷たい。
手が。耳も鼻も。瞳さえも。
凍える大気。深い深い、闇。
意識してないのに自然とこみ上げてくる涙が視界を歪ませて、歩くたび揺れるヘッドライトの金色がかった光を、視界のあちこちへと滲ませる。
良くないな。冷静になろう。
私は足を一旦止めて、呼吸を整える。深く吸い込んだ外気が喉と胸に凍みるようだ。だけど、
それをゆっくり吐き出すとさっきまでの微かな痛みや重さ、震えるような涙腺の緩みも、少し治まったように感じる。
うん……大丈夫。
もう悲しくない。怖くもない。
むしろ嬉しいんだ。
あんな目にあって、こんなところまで来て、そして知った。自分の弱さと、色んな人の優しさ、想い。
それを大事にしなきゃ。
「よし……!」
手袋の指先で涙を振り払って、私は顔を上げた。ヘッドライトの光が照らし出す、向かうべきその先へと。
あ……先輩の背中がもう見えないや。慌てて歩き出す私。
幸い、今この山中にいるのは私と先輩だけ。だからほら、少しくらい離れたって足音はしっかりと聴こえてる。この坂の上だ。間違いない。
「せんぱーい……」
木々が落とす影の向こうに声をかけるけど……返事がない。あれ? 届かなかったかな。思ったより先にまで行ってるのかもしれない。
「どこですかー……せんぱーい」
「こっちだよ」
もう少し声を張ると、やっと返事が聴こえた。その方角を目指して歩く。雪に残る足跡を辿りながら。
見えてきた。真倉先輩のヘッドライトの灯りと、その下の小さな影。
山頂の端にある、錆びた転落防止用の柵の向こう。少し青みがかってきた空を切り取るような、山と木々の影との間に……小さな、本当に小さな影がひとつ。
「大丈夫かい?」
先輩の高い声。りんと響く鈴のような……ううん、この凍てついた空気の中だと、もっとまっさらな、そう、柔らかく奏でられたトライアングルみたいに思える……そんな声が私の元へ降り注ぐ。
「はい」
私は返事を返しながら、最後の斜面をどうにか登りきった。互いのヘッドライトが足元で交差する。その上で混ざりあう、白い吐息。
「ごめんなさい……ちょっと遅れちゃいました」
「いや、私こそ不注意に急ぎ過ぎた。ごめん」
あれ? 注意されなかった。
山に入る前に散々言われた『私の背中から目を離さないように』って約束、守れてなかったのに。
「……まだ、何も見えないですね」
私は少しだけ息を切らせながら、先輩の隣に並ぶ。
「これからかな。多分、一気に明るくなるよ」
こっちをちらっとだけ見て、ふいと東の空へ視線を移す先輩。帽子の下、いつもさらさらの黒い髪が、なぜだろう、少し傷んでるようにも思えた。寒さのせいかな?
私は口をつぐむ。先輩もそれきり黙り込んだ。死んだように静まり返る周囲。もし今も雪が降ってたなら、それが地面に落ちる音さえ聴こえたんじゃないかってくらいに。
電池残量を気にしてか、先輩はヘッドライトを黙ったままオフにした。私もそれに倣う。……わ、まだこんなに暗いんだ。
疎らに設置された鉄柵の影は辛うじて確認できるけど、下手に歩いたらいつ崖下へ落ちてしまっても不思議じゃないな……気を付けないと。
そう考えた瞬間、急に少し心細くなった。まるでこの場所が、柵によって現世から切り離された空の孤島みたいに思えて。
その外へと広がる世界もまた、空の薄青い闇と地面の深い闇とに分け隔てられてて、狭間に微かな雲とも霧ともつかないモヤのようなものだけが漂ってるように見える。
視界に映るものは、それだけ。
おぼろげな闇と影とに彩られた、空と山々のシルエットだけ。
きれいだな。
私はこの優しい静寂と、おぼろげな景色とをとても美しくて愛おしいもののように感じながら、ただ時が経つのを待った。
真倉先輩の小さな影の、すぐ傍らで。
「スズ、すまない」
「え?」
突然、先輩が口を開いた。私は驚く。
もっと続くと思ってた優しい静寂が不意に途切れてしまったことと、その言葉の意味とに。
「こんなことに、君を巻き込んでしまって」
先輩はそう続けた。私は顔を向けるけど、闇に切り分かたれた視界はまだおぼろげなままで、僅かに俯いた先輩の、切りそろえられた前髪の下にあるはずの表情は、見えない。
「何言ってるんですか」
「すまなかった。本当に」
「何で先輩が謝るんですか」
私は反論の言葉を探す。だって、こんなのおかしい。
「謝らないといけないのは……私の方なのに」
そう思い浮かんだ通りの言葉が私の口から漏れる。そうだ、だって先輩は何も……
「いいや、君は何も悪くないよ。こんなことが起こってしまったのも、君をあんな目に合わせてしまったのも全部、私の力が足りなかったせいだ」
先輩は静かに、でもきっぱりとそう言い切った。
「……先輩」
私は息を深く吸う。冷え切った空気が肺を刺すけど、構わずに声を張った。
「何をそんなに気にしているのか知らないですけど、私なら大丈夫ですよ。だってほら、もう何ともないですし」
「でも」
「私がいいって言ってるんだからいいじゃないですか! ……いいんですよもう。全部終わったことなんですから」
痛む胸。でも、こみ上げる涙はどうにかこらえる。こらえてみせる。だって、
「何よりも、私が今こうしてここに立っているのは、先輩のおかげなんですよ」
言いたいから。伝えたいから。
あのとき先輩と出会ってからここに至るまでの全部の出来事が、あらゆる想いが、どれだけ私にとって大切で愛おしいものなのかを。この人に。
「だからほら……顔を上げてください」
ずっと俯いていた先輩の小さな頭と顔。暗くても、見えなくても私には解った。
今の先輩の想いが。告げようとしてる言葉の先が。
私はそれを否定しない。
私はそれを否定する資格がない。
でもいいんだ。
だって、それは先輩が決める事なんだから。
そのとき、光が微かに射した。
青と赤の間のような色。太陽が顔を覗かせる直前の、薄い赤紫色の輝きが東から。
だから見えた。すっと顔を上げて、微笑んでいる先輩の顔が。
とても悲しそうな……その微笑みが。
この数日間、ひと時も離れず一緒にいたはずなのに。
なんだかとても遠くにいた、ずっと会えなかった懐かしい誰かのような眼差しが。
「強くなったね、君」
小さな唇がそう呟いた。
「そうですか?」
私も小さな囁きで返す。
「そうだよ」
先輩は手を差し出した。私は少しだけためらって、でも、その手を握る。
手袋越しには分からない互いの体温。
明るさを増してくる空と、何も邪魔しない山頂の静寂と。
ああ……あの時の逆だな。見えるし聴こえるけど、ただひとつ、一番に伝わるこの手の温度が、今は分からないなんて。
「……明るくなって来ましたね」
「うん、そろそろだ」
ぼやけていた視界が、曖昧だった空と大地の境が、露わになってゆく。
あの時、永遠とも思えた夜が。
今、終わろうとしているこの刹那。
そう、
夜明けはもう、私たちのすぐ目の前に来ていた。
2025年8月現在、以下のスタッフにより制作を行っています。
原案:ハンク太郎
キャラクターデザイン&キービジュアル作画:みとうかな
作画補助:yomina
文章:Ri-さむMSX
並行して、ノベルゲーム化の作業も進めています。よろしくお願いします!