第4話、玉杯
宴の翌日。よく晴れて、芽吹きの季節の少し冷たい風が吹き込んでくる。
大殿では控えめな琴の音が響いていた。部屋の主は書に向かっていたが、その後ろで仲燿が絃を弾いている。書を読む妨げにならないのかと思うが、これが不思議と邪魔にならない。仲燿は琴の名手だ。それに――尚王といる時であれば、わざわざ馬鹿なことをいう輩もいないだろう。
書は、各地方の地理と作物、諸侯の力関係、税収の読みかた、重要な裁判の判例、儀式の段取り、赫の祖先の伝承……覚えることは際限なくある。それらを夜燈は時に自ら語り、あるいは書き記して教えてきた。尚王が嫌々朗読するのを、仲燿はいつも黙って聞いていた。仲燿に読み聞かせようと思えばこそ、逃げずに学べたものだ。
昨夜、尚王は痛む胃を抑えて眠れずにいたというのに、早朝から夜燈が尋ねてきた。汚れた服を任せた侍女から聞いたものだろうか、いつも以上に表情のない顔をして夜燈は「おかげんはいかがですか」と言ってきた。心配しているというより、叱るような口調に聞こえるのは気のせいではない。それに反発するのを抑え、何事もなかったかのように答える。
「ああ、飲みすぎたようだな。頭が痛い」
「そうですか。酒は過ぎないように。酒の飲み方を誤れば、世が乱れます。王であればなおのことです」
「わかっている」
面倒臭そうに尚王は夜燈を追い払う。言われるだろうなとは思っていたが、やっぱり言われたかという気持ちだ。夜燈は本当にわかったのかとは確認せず、いつものとおり礼儀正しく退出していった。それにしても、夜燈のことはよくわからない。俺を廃したいと噂されているが、本当にそうなのか。厳しいやつだが、国を荒らすことはしない……と思うのだが。
それとも、夜燈は俺が王だと不足なのだろうか。自分ならばもっと上手く「王」をやれると思っていても不思議ではない。もしかしたらそのほうがいいのかもしれない、と尚王は思った。自分はたまたま先王の長子として生まれただけで、王には向いていないし、夜燈にはいつも叱られてばかりだ。
それはともかく、今はじっと座ってられなかった。昨日の毒を盛った犯人が気になっている。見つけてどうしようというところまで考えていたわけではないが、わからないままというのも落ち着かない。俺を害そうというやつの顔くらい見ておいてもいいではないか。尚王は立ち上がるとあたりを見回し、そばの仲燿にこっそり伝える。
「叔父上……はいないな。よし、燿、にいちゃんは出かけてくるぞ」
仲燿は「うん」とうなずいて、じっと尚王を見上げてきた。不安なのか、心配してくれているのか。
「おまえのほうが、真面目で優しい『いいやつ』なんだがなあ」
言葉を発することがないが、仲燿なりに何があったか分かっているのだと尚王は知っている。それでも、そんなことが分かるのは長く一緒にいる尚王や乳母だからであって、多くの人は無知で愚鈍な子だと思っている。それは夜燈だって例外ではないだろう。それを思う時、尚王は腹が立って仕方なくなる。
といっても、それは仲燿を守るにはいいことでもあった。つまり尚王を廃して、仲燿を王に立てようという動きが起こらない。王なんぞ人の担ぐ神輿だが、神輿にしても全く何もしないのでは逆にやりにくい。扱いやすくないと困るが、だからといって誰の言うこともハイハイと聞いて疑わないのも使いにくいのだ。
王というのは面白くないが、俺が死ねば残されたこの弟が困る。彼が王になっても好きなことが好きなようにできるわけではない。昨夜のように、下手したら殺されることだってありうる。他の何が思い通りにならないとしても、弟くらいは守れるようになりたかった。
「行ってくる。叔父上には知らないふりしておいてくれ」
さて、誰が毒を入れたのかという話だ。
それまで元気だったのだから、盛られたのは宴の時に違いない。生肉、生魚、茸などの食中毒かとも考えたが、同じものを食べた燿はまったく平気だったではないか。夜燈や衡大公が倒れたという話も聞かなかった。
食事はまず大きな器で出され、そこから給仕が各人に取り分ける。であれば、おそらく毒は尚王の食器につけられていたのだろう。食事そのものに混ぜられていたなら、食中毒と同じくもっと大騒ぎになっているはずだ。
つまりは尚王個人を狙ったということになる。王を毒殺しようとするとはと怒るべきか、その場の全員を殺そうとしなかったことに安堵するべきか。恨みを買った覚えはないが、覚えはなくても恨まれるのが王というものだろう。
毒を食器につけるならば、厨房に出入りできるやつが疑わしい。ふらりと厨房に行ってみると、いつもかくまってくれる寒梅が顔を出した。宴と朝の片付けは終わっていて、束の間の休息であるようだ。
「寒梅、少し話せるか?」
王らしく話せと夜燈がうるさいが、人前でなければ気さくに会話ができる相手である。また、今までのつきあいから、寒梅は信頼できると分かっているのは気が楽だ。毒を入れるとすれば、まず厨房で働くものが疑われる。しかし、寒梅は尚王の乳母の娘だった。彼女には分別があるし、なにより尚王が信頼したかった。寒梅を信頼できなければ、他の臣下を信頼しようがない。
「ええと……昨日は美味かった」
「は、はい」
都の料理は薄味をよしとする。地域が変われば潤沢に調味料を用いたものが最上とされるらしいが、ここではそうではない。薄味であるのだから、使われたのは強烈な苦味や渋みのある毒ではない。また酒や羹の色も薄く澄んでいるものを好む。となると味や色のない毒で、少量ではすぐに死なないものに絞られそうだ。
夜燈や衡大公だったら毒にも知識があるのだろうか。はるか南方には鴆という鳥がいて、猛毒の羽を持つと衡大公に聞いたことがある。その羽を酒に浸して飲むだけで人が死ぬのだと。
そんなことを考えていると、寒梅はいきなり頭を下げた。勢いが良過ぎて床に打ちそうなくらいだ。
「申し訳ありません!」
「どうした」
「杯を……」
頭を上げるよう手で指示すると、寒梅は言いにくそうに、もじもじと手を動かしながら話す。これは失敗して怒られる時の癖だ。別に料理長のように怒鳴りつけるわけでもないし、夜燈のように厳しく問い詰めるわけでもないのだが。そもそも、なにがあったのか分からなければ怒るはずがない。
「天子様の杯は一番上等の玉なのですが……」
「え。そうだっけ」
「……そうです」
一瞬、あっけにとられると寒梅はうなずいた。なんだ、この反応は。寒梅は少しだけ不機嫌になっている。
「大宰様が何かおっしゃってませんでした?」
「夜燈叔父上なら何も言ってなかったぞ」
それを聞いて、寒梅はほっと胸を撫で下ろした。
「確かに叔父上は怖いが、なにがあった」
「実は……天子様の杯を大宰様にお出ししてしまいまして」
たいへん申し訳ありませんと寒梅はもう一度頭を下げた。