第16話、それから
こうして春の雨が上がるとともに事件は終わった。
表面的には何事もなかったかのように日が過ぎ、衡大公は国に帰っていった。夜燈は立ち上がれるまでに回復し、罰せられることなく、政務に復帰している。
大舟は尚王の従者として生活の雑務を行なうことになった。夜燈と話している姿もよく見かける。思うところないわけではないのだろうが……。落ち着いたら酒でも飲もう。
……尚王にも任せられる仕事が増えた。前のように黙って市に出ることもできなくなったが、尚王は文句をこぼさなかった。
賊は見せしめに処断されたが、裏にいるものについては深入せずに終わった。不満も出ないわけではなかったが、尚王は勇敢に戦った兵をよく讃えたので表立って反論する者はいなかった。
王弟仲燿の働きを褒める声が出る中で、太師、太傅に並ぶ三公の太保が、「天子様は自ら太傅と計り、上手く収めました。城下に滞在していた太師にも協力を求めたのは諸侯をまとめるものとしてよい動きでした」と言うので諸侯はそういうものかとなった。尚王が見るところ、この太保、人がいいが抜け目はない。太師と太傅の争いがあれば上手く介入するつもりがあっただろう。それが人前で王を持ち上げたので、諸侯たちは宮中に争いなどないように思ったようだった。
太保はよく人を見ている。ここで波風を立たせないほうが利があると判断したらしい。
「璃珠、世話になった」
璃珠から辞めるとの申し出があったと聞き、尚王は庁に顔を出した。せっかく優秀なのにと周りは止めたらしいが、父母の容体が宜しくないと言うからには仕方ないことだ。けれども、尚王はそれが本当の理由ではないことに気づいていた。そもそも、彼女を史官に推薦したのは衡大公であったらしい。
「衡大公様が思いとどまり良かったと思います」
「やはり、太師と関わっていたのか」
「まあ……そうですね。王城の様子など報告していました。……よくある情報だけですよ。兵の動きなどは詳しくは分かりませんでしたし。私が衡大公の推薦で入ったことは、あの大宰様はよくご存知でしたから」
そこまで言って、璃珠は首をすくめた。
「衡大公様が罰されないのでしたら当然、私もそうでしょう。であれば襤褸が出ないうちに逃げますよ」
「何故、衡大公のところに? ああ、単純に、おまえに興味があるからだ。今更、咎めはするまい」
尚王にすらりと聞かれ、璃珠は一回、口ごもった。しかしすぐに見返してくる。
「私は……皓華の裔なのだそうです。本当かどうかはわかりませんが」
「ほう」
「少なくとも両親はそう言っていましたよ。早くに亡くなりましたがね」
隠すまでもないというように、はっきりとそれを言った。
「それで、衡大公様に拾われたのです。私のことも最初から知っていたはずです。たぶん……失敗したら皓華の遺民のせいにするつもりだったのでしょう。あの方は、皓華を憎んでおりますからね」
「そうだろうな」
「でも、私にとっては良い機会でした。皓華のことを調べられると思ったのです。私の祖である何者かのことを」
「それで太師に情報を流していたわけか」
「衡大公によってこの華が滅びるなら、思いきり笑ってやろうと思ったのですよ」
塩の値が上がっていたのは、衡も王城も戦の備えをしていたからだろう。
「でも、それはもう、どうでもいいことなのですが」
「どうでもいいということはないだろう」
「どうでもいいのです。皓華は滅びた。それだけのことです」
「それだけのためにわざわざ女になって来たわけか」
「おや。蔵書閣で大舟に気づかれましたか。男として宮仕するには年齢が足りなかったので」
いたずらっぽく裾をつまんでひらひらとさせる姿は少女のようで、言われれば少年にも見える。
「でも衡大公は私を計画に深く関わらせようとはしなかった。利用する価値もなかったということですかね」
「……そうか。皓華の民についても処遇を考えよう」
思いがけず夜燈が賊に通じたからその必要がなくなったのかもしれない。夜燈を反乱者とすれば衡大公に近く自分の立場もあやうくなる璃珠を使う必要はない。……あるいは本当に璃珠を有能な者として見ていたか。尚王にはわからないが。
皓華をきつく締め付ける必要があったのは確かだが、とはいえそれも華の民である。苦しんで死ねば良いとは尚王は思っていないし、反乱も起こらないならそのほうがいい。甘くとはいかないだろうが、できるだけ上手くいくようにしたい。そうだな、皓華の神や祖霊をきちんと祀り直すことからするか。衡大公は良い顔をしないだろうが。
「天子様、私は衡に戻ります。よく勉強し、成人したら都の官人登用を受けようと思うのです。今度は男として」
「ああ、待っている。その時は大舟や燿と酒が飲めればいい」
ふふっと笑った。それは幼いが、はっきりと男の顔だった。
「では、私が仕えるにふさわしい王になっていてください」
大殿に琴の音が響く。仲燿も仕事を割り振られることが増えた。今は一時の休憩だ。
「燿は気づいていたのか」
「太傅はぼくには甘いですからね。……いえ、兄上にも甘いんですよ。本当は」
十二年前のことがあって、夜燈は仲燿に人前では喋らないようにと教えた。そうすれば尚王も仲燿もすぐに殺されることはないだろうと考えてのことだった。ずっと話せないふりをしていたというわけだ。知っているのは夜燈と二人の乳母だけ。乳母の娘である寒梅さえ知らなかったという。
「……それはなんとなく分かる」
尚王はゆっくりと噛み締めるように答えた。早く、夜燈に荷を下ろさせてやりたいと思う。それを見ていた大舟が微笑んだ。大舟は夜燈のかわりに目付のようにしている。まあ、夜燈がいるよりはずっといい。
「母上が亡くなったのは……太師にとっても想定外だったんだろう。叔父上を試すつもりだったのだ。太師は叔父上が王位を狙っていなかったこと、知ってたんじゃないかと思う。もともと疑われてたけど、あの噂を大きくしたのは璃珠だろうから」
璃珠は夜燈が疑われる下地を作ろうとしていたのだろうと尚王は考えている。
「でも、思っていた以上に王が強かったんだ」
「強かった? いや、俺は……」
「兄上、ぼくや叔父上、大舟、璃珠、衡大公だって上手く使えばいいんですよ。兄上のやりたいことを実現できるように」
「……ああ。そうだ。俺は俺の好きなように良い王になるよ」
「だから、たまには一緒に酒でも飲んで共に楽しんでくれ。大舟、おまえも」
太華記によると、この後、六年して尚王は親政を開始した。王と有能な臣により世は善くおさまったとされる。