天地すばる
朝起きたら、世界が別物になっていた。
『末期癌だったんだけどねぇ……』
もうすぐ死ぬはずの婆さんは、背筋をシャキッと伸ばして、彼に礼を言って帰っていった。もちろん病気や怪我をしている奴らはいるが、そいつらもまた、「世界が変わったから」という理由で、この大学病院をあとにしていった。
「いや、意味わかんねえよ」
がらんどうになった診察室。スツールに座りながら、天地すばるは呟いた。一気に患者を失った。医者の力ではどうこうすることもできない謎の病気も増えた。すばるのキャリアは、どこかに飛んでいってしまった。
リンゴなら医者いらず。だが、“異能”は医者殺しである。
『これから求められるものは“異能”だよ。すまんね、天地くん』
嫌味な眼鏡野郎が、勝ち誇っている姿が思い出された。あの野郎は、たまたま能力が医療関係だったために重宝され、早速論文を執筆しているらしい。腐れた医療雑誌にも載るのだとか。冗談じゃない、本来その地位は、自分のものだったはずなのに。
「ほんっと、意味わかんねぇ……」
ぐしゃぐしゃになった前髪。その隙間から、据わった目をのぞかせ、すばるは、とある患者の電子カルテを睨んだ。
ーー東堂光希。
ある日の夕方、通り魔に刺されて緊急搬送されてきた、近隣の高校の女子生徒。体を満遍なく12箇所刺されていたというのに、ICUの機材をぶっこぬき、超人的な回復を果たしてしまった。
今思えば、東堂光希は、今起きている異能騒ぎの走りだったのだろう。つまり、すばるの不幸は、あの女から始まっていたのである。
「と、ここまでが回想。だけど、俺にもツキが回ってきた」
薄暗い室内で、すばるは蛍光色に怪しく光る水槽の表面を、愛おしげに撫でた。
水槽の中では、“神待つ者たち”という怪しい集団に祭り上げられている、1人の少女が眠っている。羽が生えていて、髪がピンク色だが、人間だ。今はその羽で、体全体を守るように覆っている。
「くくく……あの眼鏡野郎も、学会の奴らも見返してやる。二階堂鏡子には感謝しなきゃな」
呆けていたすばるを、妹ともども救ってくれたのが、二階堂鏡子である。彼女は、すばるの能力を知った上で、すばるを勧誘しにきた。
地位も名誉も、ついでに患者も失ったすばるには、渡に船。すばるは、彼女の手を取った。
それでこうして、メイネ・クライスという少女を“洗脳”しているわけである。
洗脳。
なんともまあ、悪役のような能力を授かってしまったものである。しかも、お手軽にできるものではなく、こうして培養液に浸からせ、じわじわと脳細胞を侵食させなければいけない。面倒くさいことこの上ないが、『貴方以外に適役はいない』と言われ、ひょいひょい乗ってしまった。
「あと3時間ちょいかー」
スマホを見ながら呟く。新宿区にある研究所に来てから、ここの見張り番をしている。
生来怠け癖があるすばるは、ここの生活を気に入りつつあった。設備が一通り整っていることはもちろん、給料が良い。夜中に呼び出されることがない、あの眼鏡がいない、等々……なにより、自分の能力を使う場を与えられたことが嬉しい。
「この培養液に、要人を浸からせれば……日本は、一気に世界のトップに躍り出るぞ」
すばるは、爛々と目を輝かせた。奇しくも、ここは旧陸軍にゆかりのある地だ。儚く散って行った彼らの潰えた野望を、もう一度、叶えさせてやろうじゃあないか。
「そのためには、“神”をつくる。えーと、まずは、内側前頭前野を」
「兄様ッ」
ばたん、と音がして、全身ボロボロの妹が、ふらつきながら入ってきた。
「ど、どうした駒子、何があった?」
「そ、それがッ、とうど」
妹の言葉は、続かなかった。なぜなら、後ろから現れた東堂光希に手刀を決められ、気絶したからだ。
「……こんにちは先生。また会いましたね」
悪魔は、視界から掻き消えた。と、同時に、とん。すばるの肩に、背後から何者かの手が置かれる。
「早速ですけど、メイネ・クライスを解放してくれませんか? ね?」
「儚ぇ……」
思わずつぶやくほどに、すばるの天下は儚かった。彼の人生はまたしても、東堂光希によって、めちゃくちゃにされたのであった。




