新しい幸せ
子供に辛く当たった描写があります。苦手な方はご注意ください。
その日、エレンは天啓を受けた。
きっかけは祖母だ。
相変わらず、仕事ばかりする伯母と、仕事から離そうとする父の攻防は続いていた。それを見かねた祖母が、伯母に声をかけたのだ。
「アガタさん、わたくしこれからお茶の時間なのです。付き合いなさい」
「かしこまりました、ゾフィー様」
ゾフィーは祖母の名前である。
祖母は伯母を引き連れて颯爽とその場をあとにした。
残された父はぽかんとしていた。あまりにあっさり伯母が従ったからだ。
伯母はかなり頑固である。
自分は居候の身で、それを弁えて過ごすべきと固く思い込んでおり、お茶どころか食卓も一緒に囲んでくれない。
使用人たちの手を煩わせるのも悪いと思っているのか、台所が空いている時間にこっそり入って自分で作ったものを食べているようだ。
使用人たちは戸惑っているし、父も居た堪れないので、食事は一緒に食べようと再三頼んでいたが、なしの礫だった。
ちなみにエレンも挑戦した。一生懸命、普段は絶対しないくらいかわいこぶってお願いしたが、伯母はとりつく島もなかった。
落ち込んでいたら、父が「エレン、最高にかわいかったよ!」と慰めてくれて、優しさが身に染みた。
その日の夕食、なんと伯母は同じテーブルに着き、一緒に食事を摂った。お茶の時に祖母が説得したらしい。
その席での伯母は今までの堅苦しさが少し抜けて、リラックスしているようだった。
その後も祖母はタイミングを見計らい、休憩が必要そうな時に伯母を連れて行った。
伯母は祖母には逆らわない。居候している家の女主人だから、というより伯母がそれまで主人としてきた貴族女性と同じ類の祖母にはつい従ってしまうらしい。
それはそれで困った性質だ。
でも、祖母とのお茶の席で、今まで心の内に秘めていたものを話せているようなので、伯母にとっていいことだろう。
伯母のことは祖母に任せるのが一番だとなったが、父は弟として複雑だったようだ。
落ち込んでいたので今度はエレンが慰めた。すると「エレン大好きだよぉ!」とぎゅうぎゅう抱きしめられた。
わかっていたが改めて父の愛が重い。
祖母と伯母がお茶を共にして仲を深めるのを見て、エレンは閃いた。
アンネをお茶に誘おうと。
お茶と言えばお菓子がつきものだ。そして女の子は甘いものが大好きである。どんなに落ち込んでいてもお菓子には人を笑顔にする力があると、エレンは信じている。
そう、きっとアンネだっておいしいお菓子を食べたら笑顔になるに違いない。
アンネは未だに部屋から出て来ない。侍女たちが運んだ食事は口にしているようだが、身の回りの世話は断っている。
完全に人との関わりを拒否しているのでエレンの誘いに乗ってくれないかもしれない。
でも、こちらが何か働きかけなければ、何も変わらないのだ。
エレンはとりあえず、アンネの気を引けそうなお菓子がないか調べることにした。
エレンの誘いにアンネは乗ってくれた。
その日は侍女の世話も受け入れたので、愛らしいピンクのドレス姿だった。
エレンは素晴らしい美少女ぶりと、あまりにアンネにピンクが似合っているので感心した。
もしかしてピンク色はアンネのためにあるんじゃないだろうか。
ただ、ずっと部屋にいたせいか、肌は青白かった。
侍女がお茶の準備をしてくれる間話しかけるが、返事はなかった。さくらんぼのような唇は固く結ばれたまま、俯いてエレンどころかずっと一点を見つめている。
いつもと変わらない様子だが、アンネはここに来てくれたのだ。完全にエレンを拒絶しているわけではない。何かきっかけがあれば話すくらいはしてくれるはずだ。
そう考えてエレンは注意深くアンネを観察していた。しかし、侍女が本日の茶菓子をテーブルに置いたら色々考えていたことが消えていってしまう。
菓子皿の上に載っていたのは赤くてキラキラしたものだった。とても馴染み深いフォルムでエレンの好物のひとつだが、何かがおかしい。
「これなぁに?」
「いちご飴というものだそうですよ。最近、王都から移住された方の店の人気商品だそうです。
春のズュートで一番おいしいのはやっぱりいちごですからね。アンネ様にも是非味わって頂かなくては」
なるほど、やたらキラキラしているのは飴がけされているかららしい。今年のいちごは一段と高貴だなぁと見惚れてしまった。
あまり知られていないが、ズュートのいちごは絶品である。大粒で、そのまま食べてもおいしい。砂糖や練乳をかけて食べる他のいちごとは一線を画している。
ズュートの人々にとっていちごはそのまま食べるものだが、まさかいちごを飴で包むとは。王都から来た人は発想が違う。
ズュートは移住者が多い。その内容はほぼ隠居した老人だ。このいちご飴の店の店主も王都で長年やっていた店を閉めてズュートに隠居した口だ。
今年来たばかりの人なので、王都で最新の流行に触れていたアンネの目にも適うだろうとその店を選んだのだ。
いちごと同じ赤い飴は艶々で、気泡がほとんどないから透明度が高く、しかも層が薄いのでいちごの粒々した表面がはっきり見てとれる。まるで宝石のように輝いていて、思わず生唾を飲み込んだ。
もはやエレンの方が夢中である。
でも、ゲストのアンネを優先するくらいの理性はある。
「お茶も用意できたし、どうぞアンネ。召し上がって」
そう言ってアンネを見ると、俯いていたはずが、食い入るようにいちご飴を見ている。狙い通り、アンネの気を引けたようだ。
ちらり、と一度だけエレンに視線を寄越し、恐る恐る手を伸ばす。
細い指先で摘んで、しげしげと眺めてから、口に運んだ。齧った瞬間、かりりっ、小気味よい音がする。
「……おいしい」
思わず零れたといった感じのその言葉にエレンは歓喜した。初めて喋ってくれた。
そして、これでエレンもいちご飴が食べられると喜んだ。
「よかった! わたしもひとついただくね!」
勢い余って丸ごとひとつ口に放りこんでしまったが、エレンは大粒いちご上級者なので問題ない。先っぽが一番甘いからヘタの方から食べるなんてまどろっこしいことはやらないのだ。
いつもとは違うつるつるの舌触りの肌に歯を立てると、飴が砕けて中からジュワッと果汁が溢れてくる。
不思議なことに飴の甘さはいちごの甘さを損なわず、むしろ風味を引き立ているような気さえする。
食感もかりかりしてとても心地よい。
無言でもうひとつ口に入れた。
「おいひいねぇ」
「口にものを入れたまま喋らないでください。大奥様に言いつけます」
「待って、やめて。もう飲み込んだ!」
「言いつけます」
断固とした侍女の態度に涙目になる。今のはおいしいあまり出てしまった無意識の声だ。それで説教は理不尽だ。
そんなエレンたちを見てアンネは何を思ったのか、殊更音を立てて飴を食べ始めた。かりかりという咀嚼音だけでなく、ぺちゃくちゃというちょっと下品な音もする。
これは、あれだ。兄弟の下の子が上の子の真似をするというやつではないか。
侍女を見るとお前のせいで、みたいな呆れた顔をしている。
まずい。こんなところを祖母に見られたらエレンだけでなくアンネも説教されるし、伯母に申し訳が立たない。
「アンネ、わたしの真似しちゃ駄目だよ。食べてる時は口を閉じてね」
そう注意すると、アンネは一瞬止まってから言われた通りにして、口の中のものを飲み込んだ。
「……おばあさまはそういうこと、教えてくれなかったわ」
そして、そう呟いた。
「おじいさまもお父さまも、誰も教えてくれなかった。あたしが貴族令嬢らしくできないとちゃんとおばあさまに教わった通りにしろって怒るの。
おばあさまは何も教えてくれなかったわ。ただあたしは公爵令嬢だからできて当たり前だって……。できないと、怒って、叩くし……」
アンネの話す内容に呆気に取られた。
怒るだけならともかく、殴られた、となると虐待だ。
「昔はそんなこと言われなかったのに。
あたしが小さい頃は、アンネはそのままでいいんだよって。かわいいから何にもしなくても皆好きになってくれるって言ってたのに!」
強い苛立ちが言葉から迸る。
憶測の域を出ないが、アンネは貴族令嬢としての教育を受けていないのにそれを求められ、できないと罵倒や体罰を受けていたのだろう。理不尽すぎる。
父親たちはカスターニエ公爵夫人に教育を一任したのだろうが、彼女は平民育ちで結婚後もきちんとした振る舞いを学ばなかった。アンネに教えることはできなかったに違いない。
エレンはなるべく優しくアンネに問いかけた。
「家庭教師はいなかったの?」
「そういうのは男の子だけっておばあさまは言ってたわ」
そんなことはない。エレンもずっと前から勉強やダンスなどを複数の家庭教師に教わっている。礼儀作法は祖母が完璧すぎるので祖母に教わっているだけだ。
公爵夫人は生い立ちのせいか考え方が偏っているようだ。
「お茶会で会う他の令嬢に注意されなかった?」
「あたし、女の子とは喋らないわ。あの子たち、あたしが喋るとクスクス笑うの。男の子たちは笑わないから、お茶会はいつも男の子と一緒にいるの」
アンネの言葉には下町訛りがある。伯母は女官をしていただけあってお手本のような美しい話し方なので、原因はやはり公爵夫人だろう。
エレンの友達は皆平民なので、訛りは気にならないが、貴族の間では訛っているとすごく馬鹿にされる。それにしてもアンネが話しかけた令嬢は感じが悪い。
アンネがずっとだんまりだったのは、話すと笑われるからだろう。部屋から出て来なかったのも正しい振る舞い方がわからず、怒られるのが怖かったからだ。
訳を知ればなるほどと納得できる。
「おばあさまはヴァルヌス公爵令嬢とかミステル侯爵令嬢みたいになって王子様と結婚しろって言うの。
でもあたしにはできなかった。遠目で見て真似してみようって、やってみたけどできなかったわ……」
それは無理だろう。
ヴァルヌス公爵令嬢は第一王子の婚約者だ。彼女たちは家だけではなく王宮でも専用の教育を受けている。何も教えて貰えていないアンネでは真似も難しかっただろう。
カスターニエ家はちゃんと教育もしていないのに思ったように育たなかったからアンネを捨てたのだ。あまりに自分勝手な行いに腹が立ってくる。
アンネの目は潤んでいたが、泣くまいとごしごし目元を擦った。
「アンネ、ちゃんとした貴族令嬢になりたいなら勉強してみる? アンネが頑張れるなら皆助けてくれるよ」
「……ほんとに?」
「ほんと。家庭教師をつけて貰えるようにお父様に頼むし、伯母様とお祖母様に教わればアンネを笑った子たちよりずっと素敵な令嬢になれるよ。まぁ、お祖母様、地獄の獄卒より怖いけど……」
エレンの言葉にアンネは躊躇いもなく「やる」と返事をした。
「厳しくってもいい。あたしだって、教えて貰えればできるんだから」
「そっか。じゃあお祖母様たちに頼みに行こう」
家族の予定が空いているか確認して貰おうと、侍女に目配せをする。ひとつ頷いて「確認してきます」と応えた。
「あと、お嬢様が大奥様のことを地獄の獄卒より怖いと言っていたと伝えておきます」
「やめて!」
「伝えます」
ひとつも譲らず侍女は祖母の元へ行ってしまった。
エレンは涙目になって、せめて自分を元気づけようと、いちご飴を手に取った。
アンネが部屋から出て勉強をしたいと言い出したのを聞いて一番感銘を受けたのは勿論伯母だった。
会えない間にアンネが被っていた理不尽を知って涙し、アンネの教育に全力を尽くすことを誓った。
とは言え、女官の作法と貴族令嬢の作法は違う。そこは祖母の出番だ。
父はこれで伯母が仕事から離れてくれると喜んで家庭教師の手配をした。
しかし、何事も根を詰めるところのある伯母だ。アンネにわかりやすい教材を用意しようと色々吟味した結果、自分で作ろうと徹夜するようになってしまった。
伯母は止まると死んでしまうのかもしれない。アンネは自分の母親の暴走に唖然としていた。
こうして少しずつお互いのことを知っていくといい。二人はこれから親子になっていくのだ。
伯母の暴走を止めるのはやっぱり祖母の力が必要で、その間アンネのことはエレンが見ることになった。
こう見えて一応祖母の教えを受けているのだ。おさらいくらいは付き合える。
今日は姿勢の矯正だ。よく頭に本を乗せて姿勢を正すが、あまり分厚い本は重たいと思う。
なので薄い本にして、一冊だと足りない気がするから五冊、さらに姿勢を正す効果を高めるためにずらして頭の上に乗せた。
「ちょっとおぉぉぉぉ‼︎」
「どうしたの? あんまり大きい声出すと落ちちゃうよ」
「普通にやりなさいよ! あたしは曲芸師になりたいワケじゃないのよ‼︎」
「あの本厚くて重いよ?」
「五冊も乗せたらそんなに重さは変わんないわよ!」
確かにそうかと本を交換した。
勉強を始めたアンネはとても変わった。明るくなったし、大変活きがいい。ズュートの港で獲れる鯖よりぴちぴちだ。
今も元気に叫んでいたが、本はぐらついても落ちなかった。日に日に成果が上がっていて嬉しくなる。
「じゃあそのままカーテシーしてね」
「くっ……」
「アンネもうちょっと深く」
「うぐぅっ! あ、あんたもやりなさいよ!」
「いいよ。はい、これくらいしゃがんでね」
「もぉぉぉ! あっさりやってんじゃないわよぉぉぉ‼︎」
「だってずっと昔からやってるもん。できるよ」
「くそぉぉぉぉぉぉ‼︎」
「お祖母様の前で『くそ』とか言うと一時間そのままにされるよ」
「絶対いや‼︎」
叫びながらもカーテシーをやめないアンネに密やかな笑みが浮かぶ。
エレンはひとりっ子だが、妹がいたらこんな感じなのかもしれないな、と思った。