困惑の新婚生活
ふと、目が覚めた。
起きたばかりのぼんやりした頭で懐かしい夢の余韻に浸る。
十年経ったエレンはあの時の自分の変化をわかっている。ユリウスと出会い、彼女は恋をしたのだ。
そして、その恋をむしって行った元凶もわかっている。
カタリーナ・ナルツィッセ。
エレンは会ったこともないが、銀色の髪に碧の瞳の美しい令嬢だそうだ。
ナルツィッセはリンデンバウムと同格の伯爵家だが、彼女は特殊な立場にある。
母親が王女なのだ。そしてカタリーナは八歳の時からナルツィッセ家ではなく王太后の庇護下にある。
現在の国王は側室腹で、王太后の子供はカタリーナの母親の王女だけだ。その王女はカタリーナを産んださいに亡くなっている。
王太后唯一の孫である彼女は、何故か父親のナルツィッセ伯爵に疎まれた。王女の死後再婚をして、跡取りの男児に恵まれたせいだと言われている。
家に居場所をなくした孫を憐れんだ王太后が自分の元へ引き取ったのだ。
そのカタリーナが、ユリウスに一目惚れをした。
あの頃、リンデンバウム家とドゥフトブルーデ家はエレンとユリウスを婚約させようと準備を進めていた。その最中に王太后からの横槍が入ったのだ。
カタリーナは王太后の庇護下にあっても籍はまだ伯爵家にある。でも縁談を持ち込んだのは王太后だ。
ドゥフトブルーデ家は断れなかった。
一方でリンデンバウム家も苦境にあった。
カタリーナの想い人であるユリウスとエレンは将来を誓いあった仲なのだ。孫の恋路の邪魔でしかないエレンのことを王太后が快く思うわけがない。
下手をしたらエレンは殺されていたかもしれない。
そうならないように父と祖母は駆けずり回っていたのだ。エレンをかまっている暇などなかった。
二人の尽力でエレンは守られ、リンデンバウム家も断絶の憂き目に遭わずに済んだ。しかし、エレンはユリウスと会えなくなった上、王太后を刺激しないため領地に引きこもることになった。
王太后は元は子爵令嬢で、能力の高さから王妃まで上りつめた女傑だ。油断はできない。
エレンは別に領地が好きだから気にしないが、引きこもっている言い訳が病弱だから、なのはちょっとどうかと思った。
領地に来たら即バレてしまう。
そんな事情で、二人の恋は絶望的、なはずだった。
何故結婚しているのか。
昨日から何度も繰り返した疑問がまた心に浮かぶ。
カタリーナは一体どうしたのか。今回、謁見のため王都へ出て来たエレンは何も知らないので、自問しても答えは出ない。
ベッドに横たわったまま、エレンは隣を見る。同じベッドの上でユリウスが眠っている。
昨日、結婚式が終わったあと、連れて帰っていいとのことなので、一緒に帰って来たのだ。
同じベッドで寝ているのはユリウスがエレンから離れたがらなかったからだ。
ユリウスは猫のように丸くなり、シーツを巻き込んで眠っている。あどけなく、安らかな表情だ。
でも、よく見ると色濃い隈が目の下に貼りついている。それに随分頬がこけて、顎の線が鋭い。
それだけではない。昨日、二人っきりになった途端、抱きしめられたが、感触が骨だった。
思わず手を這わせて確認してしまった。骨が浮かぶほど痩せ細っていた。
病気だろうか。
眠るまでの間観察を続けたが、わかったことは食が細いくらいだ。怠そうとか、辛そうな様子は見てとれない。
病気ではなくてもこの細さは異常なので、今日は医師を呼んで貰う予定だ。
目が覚めて来たので、身支度を整えるため起き上がる。
医師を呼んでユリウスを診て貰って、それから父とも今後どうするのか相談したい。
ベッドから降りると「エレン……?」と寝ぼけたユリウスの声がした。
「エレン……⁉︎ 行かないで!」
「ユリウス? 大丈夫、ここにいるよ」
ユリウスは跳ね起きるとベッドの横に立つエレンの腰にしがみついた。
こうなるとまたベッドに戻るしかない。
ベッドに座ったエレンの腰にしがみつき、膝に顔を埋めてユリウスは震えている。
エレンは宥めるように頭を撫でた。
昨日からずっとこんな感じである。ユリウスは再び引き離されることを恐れている。
それにしても怯え方が異常だ。
痩せ細っていることといい、この十年の彼の生活は安らかなものではなかったことは確実だ。
ユリウスはカタリーナに一目惚れされ、望まれて婚約者になったはずだ。なのに、何故こんな姿になってしまったのだろう。
エレンはそっと唇を噛んで、ユリウスの震えが治るまでそのままでいた。
流石に着替えまで一緒はエレンが恥ずかしいので、ユリウスが落ち着いたところで従僕に彼を任せて部屋を出た。
ユリウスは不安げに瞳を揺らしていたが、着替えたら戻って来ると言えばしぶしぶ納得した。
突然のことだったのでユリウスを迎え入れる準備はできておらず、今使っている部屋も客間だ。
ユリウスの着替えは昨日のうちにドゥフトブルーデ家から届いたので問題ない。ただ、これから療養するにあたって、あちらの家の主治医の助言がいるかもしれない。
そもそもあちらの家ではユリウスの体のことを把握しているのだろうか、と昨日のことをまた思い出す。
結婚式の時、久しぶりに会ったドゥフトブルーデ侯爵夫妻と言葉を交わすことはできなかったが、エレンと共に去るユリウスを潤んだ目で見ていた。
眉毛のかっこいい侯爵も凛々しい侯爵夫人も変わりなく優しい眼差しを送ってくれた。一度相談してみたいが、自分で動くより、父を介した方がよさそうだ。
自室で着替え終わると、伯母に捕まった。
父の姉で、訳あって四年ほど前から一緒に暮らしている。濃い紅茶色の髪と父やエレンと同じ若草色の瞳をしている。
「あ、エレン。せわしないけれど、今日中にユリウス様を連れてズュートに向かってほしいってヨハンが言ってたわ」
「今日中に? わたしはいいけどユリウスが……」
「ドゥフトブルーデ家とユリウス様の希望らしいの。荷物は私がまとめとくからね!」
「ユリウスの?」
「私は詳しく知らないけれど、そうらしいの。あ、朝食準備できてるから食堂行ってね」
「はい」
伯母は用件を伝えるとせかせかといなくなった。
元は王宮で女官をやっていた伯母は止まると死ぬんじゃないかと思うほど働くのが好きだ。伯母が荷物を準備してくれるなら朝食後には出発できる状態が整うだろう。
エレンはまずユリウスを迎えに行き、朝食を摂ることにした。朝食と言っても起床が遅かったので昼に近いが、伯母が朝食と言っていたので朝食でいいのだ。
ズュートへは三日も馬車に揺られなければいけないので、ユリウスの体は心配だが、家と本人の希望ということは何か理由があるのかもしれない。
とりあえず、エレンにできることは帯同してくれる医師の手配か、道中にある医院の把握くらいだろう。
そして、食事を摂らせること。
馬車は乗っているだけでもかなり体力を削られる。
無理はよくないが、旅に耐えられるように少しは多く食べてほしい。
どう接するか悩みながら、エレンはユリウスの部屋に向かった。
ユリウスは思ったよりもしっかりと食べてくれた。昨日の夕食とは大違いである。
エレンさえ側にいれば不安定さも鳴りを潜めるので、終始和やかで、主にエレンがズュートの話をしていた。
食後のお茶が出る頃に伯母が顔を出して、予想通り荷造りが終わったのでいつでも出発できると伝えてくれた。
ユリウスはすぐにでも王都を出たい様子なので、朝食も食べられたし、お茶を飲んだら出発することを決めた。
医師の手配はできなかったので、ユリウスの体調はエレンがよく見ておかなければいけない。
さて、そろそろ出発しようかと立ち上がった瞬間、勢いよく扉が開かれた。
「あら、間に合ったわね。エレン、久しぶり。結婚おめでと」
「アンネ? 久しぶりだね。いらっしゃい」
殴り込みに来たと言っても違和感ない登場をしたのは従妹のアンネだ。
彼女は伯母の娘で、少し前まではズュートで一緒に暮らしていた。同じ年の生まれだが、エレンにとっては妹のような存在だ。
顔立ちはあまり伯母には似ておらず、ふわふわの淡い金髪をしていて、綿菓子のように甘やかな美少女だ。エレンと唯一血の繋がりを感じさせるのは若草色の瞳だけである。
アンネは顔に似合わぬ悪党のような笑みを浮かべ、迎えたエレンに手紙を渡した。
「なぁに? アンネの?」
「あたしのだけだったら手渡しする必要ないでしょ。まぁ、開けてみたらわかるわよ」
「ふーん?」
いやに分厚い封筒を何度もひっくり返す。表書きも裏書きもない。ただ封筒の限界に挑戦するかのようにパンパンだ。慎重に開けなければ中身が破れそうだ。
「もう出発するんでしょ。あたしの用、それだけだから」
「あ、そうだった。アンネ、わざわざありがとう。
ユリウス、行こうか」
手紙はあとで確認することにして、ユリウスに声をかける。すると、さっきまでのリラックスした様子とは一変して、緊張感を漂わせ、固まっている。
不思議に思い、腕に手を添えると、硬直は解けてエレンを見たが、緊張したままだ。
従僕に任せた時はこんな風にはならなかったが、どうしたのだろうか。
アンネはというと勝手知ったる家なので、ゆったり椅子に座ってお茶を待っている。
どうやらうちでのんびりしていけるらしい。伯母が喜ぶだろう。
ぎこちないユリウスを促し、食堂をあとにする。
「アンネ、じゃあ、またね!」
アンネは手をひらひら振ってエレンに応えた。
ユリウスは食堂から出ると小さなため息を吐いた。やはり様子がおかしい。
しかし、今は出発する方が先だ。話す時間は馬車の中でたくさんある。
玄関を出ると馬車だけではなく父と伯母がいた。父もこれから出かけるようだ。
丁度いいので別れの挨拶をして、馬車に乗り込む、ところで視界が揺れ、浮遊感を覚えたと思ったらユリウスの顔が目と鼻の先にあった。
ぽかんとただユリウスを見ていると、ユリウスが頬を染め「こうした方が早いと思って……」と言った。
エレンを抱き上げて馬車に乗り込む方が早いのだろうか。
そもそも痩せ細ったユリウスにエレンは重すぎないか。
あと父と伯母の前でこれは普通に恥ずかしい。
エレンはどんな顔をしたらいいかわからなかったが、伯母には何事もなかったかのように道中の心配をされ、父は涙目で夏には帰ると言った。
二人だけではなく、使用人と窓から身を乗り出したアンネにも見送られ、エレンたちは王都の邸をあとにした。
アンネが大きく手を振ってくれて嬉しかったが、クッキーを咥えたまま顔を出すのはやめた方がいい。あとで絶対伯母に怒られる。
車中のエレンはユリウスにぴったり張りつかれて身動きが取れなかった。訊きたかったことも頭の中で弾けて消えていく。
恥ずかしい。
恥ずかしいけれど、ユリウスを拒絶したくない。
ユリウスはほとんどエレンを膝に乗せた状態で、髪を手で梳いたり、背中を撫でたりしている。
その手つきに嫌らしさはあまり感じず、何かを確かめているようだった。
エレンは羞恥に悶えながら、されるがままに身を任せた。
「……エレン、これ、大事にしてくれてたんだ」
「っ、ユリウスがくれたものだもの。大事にするわ」
ユリウスがエレンの髪飾りに触れて耳元で囁くので思わずビクリと反応してしまう。
ユリウスはただ無邪気に「嬉しい」と呟いた。
「エレンの話、聞きたいな。会えなかった間のこと……。カスターニエ公爵令嬢と仲がいいんだね」
「従妹だし、しばらく一緒に暮らしてたからね。えっと、何から話そうか」
「なんでも」
膝に乗ったままの会話は大層恥ずかしいのだが、ユリウスが嬉しそうに蕩ける眼差しで見てくるので我慢する。
思い出に集中すれば恥ずかしくなくなると、エレンは記憶の中に逃避した。