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初恋  作者: 明石 みなも
本編
6/21

初めての、

精神的にも肉体的にも辛い描写があります。

 ユリウスと将来の約束をした二日後、エレンは祖母から荷造りを命じられていた。


「今日はユリウスがうちに来るんじゃなかったの?」

「……ユリウス様は来られなくなったわ」

「なんで? もしかして病気?」

「お元気だから大丈夫よ。

 ……ごめんなさいね、エレン。あなたを守るためなの。先にズュートに帰っていて」

「……はい」


 訊きたいことはたくさん浮かんで喉まで出かかっていたが、祖母の沈痛な面持ちの前にお腹へ戻ってしまった。

 そのせいかエレンの胸はなんだかもぞもぞして気持ち悪い。父の言う胸やけだろうか。


 侍女達が手伝ってくれるので、荷造りはその日のうちに終わる。よく眠れないまま迎えた翌日にはエレンだけが馬車に乗ってズュートへ旅立った。

 何故かたくさんいる知らない護衛が警戒するので旅路はゆっくり五日かけて進んだ。


 邸に着くと留守をしていた使用人たちに歓迎された。知らない護衛たちもしばらく滞在するらしく、リンデンバウムに仕えている騎士たちと挨拶をしている。


 エレンはあれから胸のもぞもぞが治らず、人生で初めての食欲が湧かない状態に陥っていた。

 そのため料理人が張り切って用意してくれたエレンの好物ばかりの夕食を残してしまった。

 それに、王都を出た日からなんとなく不安で、ずっとよく眠れていない。帰って来た夜も、生まれ育った邸なのに眠れず、一晩中ベッドの上を転々としていた。


 それが、ひとりぼっちの日々の始まりだった。

 留守番をするのは初めてではない。でも、いつも父か祖母が早めに帰って来てくれたし、手紙も三日に一度は届いた。

 今回は手紙すら届かない。


 エレンが帰って来てからずっとあの知らない護衛たちが物々しいくらい邸の周りを見回っている。田舎には異様な光景だ。

 外出する時は護衛が三人つくらしい。

 エレンは外出する気力がなく、近所の友達にも会いに行ってないので、彼らの出番はまだない。


 エレンの胸のもぞもぞは治る気配がなく、より酷くなっていっている。

 朝食が一口も食べられなくなってしまって主治医のアプフェル先生が呼ばれた。先生に診てもらっても胸のもぞもぞはよくならない。

 料理人はなんとか食べやすいものをと工夫してくれているが、喉を通ってくれない。


 最近、気がつくと泣いていることが増えた。

 原因はわかっている。もうすぐ夏が来るからだ。

 夏になったらエレンは涼しいユリウスの領地に行くはずだった。

 でも、現実はいつもと同じ自分の領地で、ユリウスからはなんの音沙汰もない。


 ユリウスはどうしているのか。

 それどころか、自分の家族がどうしているのかもわからない。

 何か知っていそうな知らない護衛たちも口をつぐんで教えてくれない。


 そのまま季節は夏へと移り変わった。

 エレンの気持ちとは裏腹の好天が続く、青空が濃い夏だった。


 誰からもなんの便りも届かず、エレンは自分が忘れられたのではないか、と疑いだした。

 そうでなければ納得がいかなかった。あの父が、こんなに長くエレンをほったらかすなんて今まであり得ないことだ。

 祖母だって、厳しいだけでいつもエレンを見守ってくれていた。エレンが具合が悪い時、一番に気づいてくれるのはいつも祖母だった。


 ユリウスのことだけではなく、家族のことを思い出しては涙が出て、エレンはどんどん気落ちしていった。

 食事はますます食べられなくなり、一度乳母を泣かせてしまった。それからは頑張って食べるように努力しているが、食欲自体は湧かないままだ。


 そんな生活をしているから、夏風邪をひいてしまった。熱はそれほど高くないが、喉が腫れて水を飲み込むだけでも鈍痛がする。

 そのせいでまともに食事ができなくなり、少しずつ衰弱していくのが自分でもわかった。


 周りの人々は必死でエレンを助けようとした。

 主治医の先生はずっと邸に詰めていてくれたし、料理人はなるべく飲み込みやすい食事を出してくれたし、乳母はエレンをたくさん励ましてくれた。

 エレンもそれに応えようと必死だ。このままではまずいと自分でもわかっていた。


 喉の腫れはなかなか引かず、ものの通りは悪いし、痛かったが、少しでも多く食べて薬を飲む生活が続いた。

 何日経ったかエレンには定かではなかったが、ほんの少し喉の痛みがましになった頃、目が覚めると祖母がいてびっくりした。


 夢でも見ているのではないかと目を疑う。

 祖母が帰って来ただけでなく、祖母が、あの祖母が泣いていたのだ。


「長くひとりにしてごめんなさい」


 エレンが起きたことに気づくと、祖母はまずそう言った。そして、そっと頬を撫でる。


「お願い……。お願いだから、あなたまでわたくしをおいていかないで」


 祖母の手は震えていた。

 どこかへ行ってしまうのを怯えるようにエレンを抱きしめる。

 久しぶりの祖母の匂いと暖かさに、ずっとエレンを苛んでいた寂しさが少し薄まっていく。


 抱きしめられているので祖母の顔は見えなかったが、啜り泣く声が絶えることはなく、エレンはなんと言っていいかわからなかった。

 祖母を泣くほど傷つけてしまった。

 エレンがひとりを我慢できなかったせいだ。


 祖母はいつもエレンに人前では泣いてはいけないと言う。

 悲しいことがあっても前を向いて強くあらねば一人前の淑女とは言えないそうだ。

 実際、祖母はその通りの人で、いつも凛として父より強い。

 その祖母をエレンが泣かせてしまったのだ。


「ごめんなさい」


 エレンはただ謝ることしかできなかった。

 どうしたらこの過ちを償うことができるのだろう。

 気づけばエレンの目からも涙がポロポロ零れていた。涙とともにひとりにされた間言いたかったことも零れていく。

 エレンは泣き疲れて、そのまま祖母の腕の中で眠ってしまった。




 それからエレンは食事量を日に日に増やした。

 喉が治ってきたこともあるが、帰って来て以来祖母が見張っているからである。

 今は怒られるより泣かれる方が辛い。もう祖母を泣かせずにすむように、エレンはできることをするのだ。


 努力した成果が出たのか、一週間後には喉の痛みも消え、熱も下がった。

 でも三週間も寝込んでしまったので、夏は終わりかけている。


「まったく、ひやひやした。これに懲りたらちゃんと食事を摂るんだぞ。

 まさか食い意地張ったお嬢さんにこんなことを言う羽目になるとは思わなかった」


 診察をしたアプフェル先生にそう叱られ、反省した。エレンもまさか好物すら食べられないなんてことになるとは思わなかったのだ。

 先生は髭だか髪だかよくわからないもじゃもじゃの毛で覆われた顔に黒縁眼鏡をかけ、医者とは思えないワイン樽より大きなお腹をしたおじさんである。


 怪しい風体をしているが、腕は確かだし、何故か足がとても速いし、子供たちにも人気者だ。

 リンデンバウムの主治医以外に往診もしていて、結構忙しいのだが、エレンが寝込んでいる間邸にずっと泊まり込んでいてくれた。


 今回、エレンは周りの人にとても迷惑をかけてしまった。

 もしこれでエレンが死んでいたら先生は元よりエレンの世話をする使用人たちも責任を取らされただろう。

 夏風邪をひいたのはエレンの不摂生が原因でも、責任を取らなければならないのだ。

 エレンはもっとそういうことを自覚して、我慢を覚えなければいけない。


 エレンが回復するのに合わせるように、父が帰って来た。出迎えたエレンを泣きそうな顔をした父が抱きしめた。


「エレン! 寝込んだんだって? もう起きて大丈夫なのかい⁉︎」

「もう熱もないし、喉も痛くないよ」


 そう答えたのに父の眉毛は下がったままだ。


「ひとりぼっちにしてごめんよ。寂しかったね。しばらく王都に行かなくてもいいから、なるべく一緒にいるからね」

「わたし、大丈夫だよ。風邪は治ったし、ひとりで我慢できるよ」

「エレン、我慢しなくてもいいんだ。今回は僕らが悪かった。エレンのことを気遣えなかった。

 だから、エレンが我慢する必要なんてないんだよ」


 ごめんね、と言いながらさらにぎゅっと抱きしめられる。

 でも、エレンが我慢しないとまた祖母が泣いてしまうし、皆にも迷惑をかけてしまう。

 父はエレンを抱きしめたまま、何度もごめんね、と繰り返した。

 エレンは泣くのを我慢した。今泣いたら父がもっと心配してしまう。


 苦しい夏が去った。

 帰って来た父は二か月先の祭りの準備で忙しい。ズュート領で一番大きな祭りで、領外からも人が来る。

 毎年この時期の大人たちは忙しくしている。


 ずっとエレンを守っていた知らない護衛たちは父が帰って来ると同時に少しずつ王都へ帰って行った。

 結局エレンは彼らがなんのためにここにいたか知らないままだった。彼らは何も語らず去った。


 エレンは遊びもせず、祖母に決められたスケジュール通りの生活していた。

 父も祖母も変な顔をしているが、エレンに何も言わない。

 エレンも何も言えない。

 父も祖母も帰って来てくれたのにまだ寂しくて堪らないなんて言えない。


 ユリウスに会いたいなんて言えない。


 二人とも、決してユリウスについて触れない。

 それは、もうユリウスには会えないことを意味しているんじゃないかと、エレンは思った。


 夏にはユリウスの領地で涼んで、秋になったらエレンの領地の祭りで遊び、冬は一緒に雪を見て、春には王都で花を愛でる。

 そうやって大人になっていこうと約束した。


 ユリウスは今どこで何をしているのだろう。

 エレンのことを覚えているのだろうか。




 リンデンバウムの庭園は香りの強い花ばかりが植えられている。

 今の季節に満開なのは金木犀と銀木犀だ。甘い香りは前からエレンのお気に入りだ。

 今はその色がユリウスを思い出させて悲しいような、苦しいような、不思議な気持ちになる。


 エレンは毎日のように迷路のように植えられた木々の間をそぞろ歩いた。

 ユリウスのことを思い出すと苦しいのに、少しでも彼を思わせるものにすがる。何がしたいのか自分でもわからなかった。

 わからないが、ユリウスの隣にいた時は育っていた何かが、今では萎れてしまっているような気がした。

 このまま萎れ、枯れてしまうのは嫌だった。


 その日は、朝から曇っていて風が強かった。

 金木犀と銀木犀はどちらも花が落ちやすい。風が吹いても雨が降っても簡単に散ってしまうので、今日が見納めかもしれなかった。


 エレンは風で髪がぐしゃぐしゃになっても構わず、いつもより不思議と濃い香りに包まれながら木々の間を歩いていた。

 案の定、風が吹くたびに花は落ちて地面を彩っている。


「エレン」


 風の音に紛れて届いた聞こえるはずのない声に、思わず立ち止まった。周囲を見回す。


「ユリウス?」


 名前を呼ぶと、さくり、と下草を踏む音がする。木々の間からフードのついたマントを着た人物が進み出た。

 顔は見えないが、生成り色の髪が覗いている。

 エレンは信じられない気持ちで駆け寄った。


「エレン、会いたかった」


 手が伸びて来て、エレンより大きくて硬い手のひらが両手を握る。

 少し高い位置にあるフードの中身は紛れもなくユリウスだった。

 会いに来てくれたのだ。


「わ、わたしも」


 エレンは色んな感情が溢れすぎて、それだけしか言葉が出てこなかった。

 彼女の言葉を聞くと、ユリウスはきらきらしていた金木犀色の瞳から、ぽろり、と一粒涙を零した。

 それが呼び水になったのかぽろぽろと次々涙が溢れ、止まらなくなる。


「っく、あの、あのね……。エレン、ぼく、これから、な、長い間、会えなくなるんだ……」


 泣きながら告げられたことにショックを受ける。やっと再会できたのに、また会えないなんて嫌だ。


「どうして? ユリウスとずっと一緒にいたいよ」

「ごめん……。理由はエレンに教えたら駄目なんだって……。ぼく、ぼくも、ずっと一緒にいたいけど、そうすると、エレンが危ないんだって……」


 よくわからなかった。全然納得できない。

 でも、そう言ったユリウスは目が溶けそうなほど泣いている。

 ユリウスはエレンのために我慢をしているのだ。エレンだってユリウスのためなら我慢できる。


 いつの間にか、エレンの目からも涙が零れていた。

 二人の涙に呼応するように上から細かく白い花が降ってくる。

 白い花は銀木犀だ。まるで雪のようなそれにエレンはさらに悲しくなる。


 冬は二人で一緒に雪が見たかった。

 その先の季節も全部、ユリウスと二人で、大人になるまで、大人になってもずっと一緒に過ごしたかった。


「エレン、会えるようになるまで、待っててくれる?」

「待ってる」


 考えるより先に言葉が出ていた。


「ここで、ずっと待ってる」


 そう答えると、ユリウスの顔が近づいてきた。ちゅっと音を立てて触れたのは唇で、すぐに離れて行き、握られていた両手も離された。


「約束だよ。忘れないで」


 泣き濡れたユリウスが身を翻し、木々をすり抜けてあっという間に見えなくなる。

 エレンはその背中を見送り、立ち尽くした。


「エレン」


 ユリウスが去ってどれほど経ったかわからないが、父がエレンの後ろに立っていた。

 父が両手を広げるので、胸に飛び込んで、首にかじりつく。そのままエレンはおんおん泣いた。




 こうしてエレンは芽吹き始めた大切なものを、よくわからないまま理不尽にむしり取られた。

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