初めてのお出掛け
感じの悪い人物が登場します。苦手な方は飛ばしてください。
王都に着いて一週間があっという間に過ぎた。
王宮の茶会に出るからと、祖母による礼儀作法のおさらいが厳しすぎて新しい環境に戸惑う暇もない。
使用人たちとは仲良くなれたが、食事とレッスンを繰り返すだけの生活だ。
父から誘われたのはそんな時だった。
「前に話した親戚に会いに行こうか」
エレンは一も二もなく頷いた。何のことかさっぱり忘れていたが、祖母から離れられるならなんでもいい。祖母のことは大好きだが、今回はちょっと気合いが入りすぎていて怖い。息抜きをさせてほしい。
翌日、浮かない顔の父と共に馬車に乗って男爵だという伯父の家に向かった。王都に来てから初めてのお出掛けである。
今日はラベンダー色の可愛いワンピースを着せて貰い、同じ色のリボンを結んだ白い帽子を被っている。おしゃれをさせて貰えてご機嫌だ。
窓から見える景色はやっぱりもの珍しく、今日は父に指をさして何なのかをはじから訊いた。父は笑顔で全部に答えてくれる。
父はなんでも知っているのだと感心した。いつの間にか表情も明るくなり楽しそうで、エレンも嬉しくなった。お出掛けは楽しい方がいい。
そうこうしているうちに街並みがどんどん変わっていく。
小さな家がぎゅうぎゅうに並ぶ住宅街に入ったところで馬車は止まった。ここが目的地らしい。
御者が扉を開けてくれたので、父が先に馬車から降り、次にエレンを抱き上げて降ろしてくれる。
門扉を潜るとすぐに玄関があり、その前にエレンたちの到着に気づいた家の住人たちが迎えに出ていた。
父よりやや年上の男女が笑顔で並んでいる。これが伯父夫婦だろう。
その横に従兄弟らしい少年が四人並んでいる。エレンよりかなり年嵩の子から、そんなに変わらない子まで、身長差が均等で階段のように規則正しい。
「やぁ、ヨハン! よく来たな」
「兄さん、お久しぶりです」
再会を喜ぶにしては硬い声の父を不思議に思いながらも、エレンも挨拶をしようと進み出た。
エレンが口を開くよりも早く、一番小さな従兄弟が駆け寄って来るので、何をするのか見守っていたら髪を一房掴まれて思いっきり引っ張られた。
痛かった。絶対髪が何本も抜けたし、思わず悲鳴を上げていた。
「お前、おれの結婚相手らしいな。おれが旦那さまになってやるんだから言うこと聞けよ」
突然そんなことを言われ、痛みを忘れてぽかんと相手の顔を見てしまった。まるで意味がわからない。
固まるエレンのかわりに父が髪を掴む従兄弟の手をはたき落とし、彼女を抱き上げた。そのまま馬車に引き返す。
「ま、待ってくれ、ヨハン! こ、これは違うんだ!」
伯父がそう叫んでいるが、父は完全無視で馬車に乗り込むと、御者に行き先を告げ、出してしまう。
「わたし、あの子と結婚するの?」
「しないよ。絶対させないから安心してね」
呆然としながら確認すると、父は即座に否定した。笑顔なのに目が笑ってなくて怖い。
でも、否定して貰えて安心した。初対面であんなことを言う旦那様は嫌だ。
今日はもう帰るのかと思ったら、馬車はエレンには理解できないすごい店が立ち並ぶ通りに止まった。
そこの、領地には絶対無い素敵なカフェに父と入り、テラス席に案内されたので、緊張しながら行儀よく座る。
一体何事だろうとそわそわしていると、目の前に風でふるふると揺れるパンケーキが置かれた。
「えっ……。た、食べていいの?」
「勿論。最近とても頑張っているからね。ご褒美だ」
大喜びでナイフとフォークを手に持つ。
パンケーキは口の中でしゅわっと溶けてしまうほどふわふわで、こんなものが食べられるなんてまったく王都は最高だとエレンは思った。
だから、さっきまでのことはどうでもよくなってさっぱり忘れた。
「エレン、わたくしの実家に行きますよ」
「はい、お祖母様」
目が据わった祖母に言われ、エレンは震えながら頷いた。なんだかとても怖いオーラが出ている。決闘にでも行くのだろうか。祖母が怖すぎてエレンは質問できなかった。
祖母の実家に行く日は朝から大変だった。
まず風呂に入れられ全身をピカピカにして、それから謎のクリームを塗り込まれる。髪もいい匂いのオイルを塗ってから丁寧に何度も何度も梳かれた。
大人がする手入れが終わると、エレンのクローゼットの中で一番いいラベンダー色のドレスを着せられた。
エレンのクローゼットの中はラベンダー色のものばかりだ。選んでいるのが祖母と父なので、どうしても祖父と母の瞳の色が多くなる。
ラベンダー色は好きなので、エレンは一向にそれで構わない。
祖母はクローゼットの中を改めて見て「……もう少し別の色を増やしましょうか」と呟いていた。
いつになくおしゃれをされたが、一緒にいる祖母が怖すぎてまるで楽しめない。
「いいですか。あちらに行ったら決して隙を見せてはいけません」
「はい」
「特に隠居したはずのわたくしの兄は意地が悪いので気をつけなさい。揚げ足を取ってきます」
「お祖母様も兄弟がいるのね。いいなぁ」
思わずそう言うと、ピリピリしていた祖母の雰囲気が和らぎ、ぎゅっと抱きしめてくれた。
父も祖母も使用人たちも、エレンの周りの人たちには皆兄弟がいる。ひとりっ子なのはエレンだけだ。寂しいとは思わないが、羨ましい。
少しだけ雰囲気がよくなった馬車は、大きな門扉を潜って、さらに進む。門扉を潜ったならここはもう邸の敷地内のはずだが、道はまだ続いている。
やっと止まって馬車から降りると、領地の邸よりもずっと大きくキラキラした大邸宅が建っていた。ここが祖母の実家なのかと、呆然と見上げる。
「久しぶりね。あなた、まだ兄にこき使われているの」
「お久しぶりでございます。こんな老ぼれを使っていただけて、ありがたいことです」
エレンがぼんやりしているうちに祖母は出迎えた執事と言葉を交わしている。
仲がいいのか悪いのか。エレンにはちょっと判断がつかなかった。
執事に促されて邸の扉を潜る。
「よく恥ずかしげもなく顔を出せたものだ」
背後の扉が閉まらないうちに冷たい声が飛んできて、エレンは咄嗟に祖母の後ろに隠れた。
広いエントランスには白髪混じりの金髪と藍色の瞳の老紳士が二人を待ち受けていた。紳士を見ると祖母の片眉が上がってからきゅっと眉間に皺が寄った。
「訪問を許可したのはそちらでしょう。挨拶もないとは無礼ではなくて」
「無礼な態度を取られる理由があるからだろう。我が家に泥を塗りおって。儂はまだあのことを許してはおらんぞ」
「今の当主のあなたの息子は許しましたわ。隠居の身で、そううるさく口を挟んでばかりいると煙たがられますよ」
突然始まった口論に二人の顔を見比べる。
この老紳士が祖母の兄で、エレンの大伯父にあたる人だろう。髪や瞳の色が同じだし、ぴしりと伸びた背筋や真一文字に結ばれた口元、きびきびとした隙のない所作に至るまで二人はよく似ている。
こんなに似ているのに、二人は仲が悪いらしい。口論は全然終わらない。
「二人共、いい加減にしてください!」
二人と同じ色彩の、父と同年代の男性が仲裁に入ったが、止まったのは一瞬だった。言い争う人がひとり増えて、エレンにはどうすることもできず、ただ大人たちの顔を見比べていた。
困っていると、先程の執事が手招きをしている。
ついて行くと応接間で、そこには褐色の髪の美しい女性と、金髪のよく似た男女の子供が寛いでいた。
「なかなか来ないから何かあったのかと心配したわ」
「申し訳ございません。大旦那様方が喧嘩になってしまいまして」
「まぁ、本当に仲が悪いのねぇ」
しみじみと女性は言うと、エレンを見た。
「初めまして。あなたがエレンちゃんかしら?」
「は、はい。エレン・リンデンバウムと申します」
「あらあら、堅苦しい挨拶なんていいのよ。さぁ、喧嘩が終わるまでお茶にしましょう。珍しいお菓子を用意したの」
「お、お菓子!」
エレンは大喜びでお呼ばれした。
素晴らしいお茶とお菓子でもてなしてくれたのは祖母の実家であるミステル侯爵家の現在の侯爵夫人だった。
同席した子供たちはエレンのはとこにあたる十二歳の兄、ミハエルと、十歳の妹、ブランシュだ。
二人共絵本に出てくる王子様やお姫様のように麗しい。
「エレン、このクッキーは紅茶に漬けてから食べるとすごくおいしいのよ」
「えぇ……。お祖母様に見られたら怒られちゃう」
「大丈夫、今誰もこっちに来てないから。内緒にしたらわかんないよ。母上も内緒にしてくれるし」
「しょうがないわねぇ。よそでやっちゃダメよ」
「はーい。ほら内緒だから大丈夫」
中身はこんな感じだったのですぐ打ち解けた。
それからエレンはたっぷり食べて、話して、それでも祖母が来ないので、とてつもなく広い庭で兄妹と遊んだ。
満足する頃には日が傾き始めていて、祖母はまだいなかったが、帰った方がいいと三人に今日のお礼を言ってから別れた。
執事と一緒にエントランスに戻ると、祖母と大伯父の口論はまだ続いていた。仲裁に入った男性はその横で項垂れていて、可哀想だった。
自己紹介はされていないが、彼が祖母の甥で、現ミステル侯爵だろう。
なるべく丁寧に別れの挨拶をすると、疲れた顔で「またおいで」と言ってくれたので、とてもいい人だ。
祖母は大伯父と睨み合いながら邸を出て、待っていた馬車に乗り込んだ。
その途端頭を抱えた。
呻き声まで聞こえて慌てる。頭が痛いんだろうか。
オロオロしていると、やっと祖母が顔を上げた。
「……ごめんなさいね、エレン」
「なにが?」
突然謝りだしてわけがわからなかった。首を傾げるエレンの頭を祖母が死んだ魚のような目で無心に撫で続ける。
本当にどうしたのか。
エレンは素敵な親戚と仲良くなれて、大変楽しい一日で、謝られるようなことは何もなかったはずだ。
祖母はそれ以上何も言わず、エレンは混乱したまま帰宅した。
ミステル侯爵家とはそれから交流が始まった。
そもそも最初の訪問の理由は、ひとりで王宮の茶会に参加するエレンを心配したからだ。
少しでも知り合いがいた方がいいだろうと同じく茶会に参加するミステル兄妹と顔合わせをさせた。
祖母の目論見以上にエレンとミステル兄妹は仲良くなり、特にブランシュはエレンのことを妹のように可愛がってくれる。
思っていた以上に親戚とはいいものだとエレンは知って、いつまで経っても出会い頭に口論を始める祖母と大伯父に首を傾げた。
二人はまるで接点がなかった父とミステル侯爵が親しくなったあとも一向に変わらず喧嘩し続けている。
何がそんなに気に食わないのか不思議で、父に訊いてみた。父は苦笑しながら教えてくれた。
「二人はそんなに仲が悪いわけではないから大丈夫だよ」
「いっつも喧嘩してるのに?」
「喧嘩するほど仲がいいと言うからね」
「そうかなぁ?」
喧嘩しているのに仲良しなんてエレンには理解できない。エレンは好きな人には優しい言葉をかけてあげたい。
「お祖母様が決まりかけていた婚約を放りだしてお祖父様と結婚したことは知っているだろう?
その時、色んな人のところを駆け回って謝罪をしたり、後始末をしてくれたのが大伯父様だよ。お祖母様のことが嫌いならそんなことはしないさ」
「そうなんだ! 大伯父様は優しいのね」
「まぁ、その時『この恥さらしめ!』って罵ったらしいけど」
「お口が悪いね」
「そうだねぇ。でも、お祖父様とお母様が亡くなった時も心配してお手紙をくださったんだよ。僕宛になっていたけど」
「素直にお祖母様に送ればいいのに」
「なかなか素直になれないんだよ」
「兄弟って難しいのね」
「うん、とっても難しいんだよ」
さっきまで笑顔だった父が急に真顔になってたじろぐ。返事も重々しく、実感がこもっていた。父も兄弟で苦労しているらしい。
エレンはひとりっ子でよかったと思ってしまった。
とりあえず、エレンは頑張っている父の頭を撫でてあげた。