約束を果たす日(ユリウス視点)
ユリウス視点なので、嫌な人物がたくさん出てきます。
精神的にしんどい描写も多いのでお覚悟ください。
あと長いです。
その一言が、ユリウスの運命を変えた。
「お前、家族の誰とも似てないな。本当は血が繋がってないんじゃないか」
そう言ったのは、第三王子のカールだ。
ユリウスは何を言われたのか理解できず、しばらく呆然としてしまった。
「何も言わないってことは図星だな。ドゥフトブルーデ侯爵は優しいから部下の騎士の遺児でも引き取ってやったんだろう。
お前、貴族でもないのに王宮に来るなんていい度胸してるじゃないか」
「え……。ちが、違います。ぼくはドゥフトブルーデ家の子供で間違いないです」
思わぬ発言に沈黙してしまったことを予想外の方向に受け取られて焦る。
目の前のカールは三日月のような笑みを浮かべ、初めて見るなんとも嫌な気分にさせられる目つきで彼を見ていた。
「ぼくは父方の祖母に似ているのです。だから両親とはあまり似ていません。でも瞳の色は父や兄弟と同じ色です」
そう事実を付け足した。
ユリウスは父が幼い頃に亡くなった祖母に似ている。
体が弱い人だったので、彼も病弱では、と幼い頃は心配された。
だが、父は噛みしめるように「ユリウスは母上に似ているな」と言うので、祖母に似ていることはいいことのはずだった。
「ふぅん。では親族ではあるんだな。よかったな、侯爵の母君に似てて」
また変な方向に受け取られ、どうしていいかわからなくなる。
その後もなんとか勘違いを正そうと必死になった。しかし、彼は兄のような威圧感もなければ、弟のように口も上手くない。
理解して貰えないまま、カールとの面会は終わった。
まずかったのは彼らのほかにも令息がいたことだ。
最近たびたび交流会という名目で令息たちが王宮に呼び出されている。
ユリウスはすでに二回、第一王子と第二王子がそれぞれ主催する交流会に出ていた。今回、カールの交流会にも少なくはない令息が出席していたのだ。
二人のやりとりを見ていた令息たちの一部は、「ユリウスは養子だ」と事実無根の噂を広めていった。
厄介だったのは、意外に広がりが早く、子供たちだけの噂だということだ。
大人に対処が難しく、ユリウス本人だけではなく、ヘルマンは目で、グイードは口で否定していたが、噂が消えることはなかった。
どうも、兄弟ふたりが瓜二つなことが噂に拍車をかけていると気づいたのはしばらく経ってからだった。
ユリウスは今まで、兄弟との容姿や体型の違いをたいして気にしたことはなかった。
そんなことを考える暇がなかったのだ。
ドゥフトブルーデ家は長く続く騎士の家系で、未だに小競り合いが絶えない北方を辺境伯と協力して護ってきた。
だからこそ、国でも特に実戦的で厳しい訓練が課されると有名だ。
当然、その家の子供である三兄弟も例外ではない。
普段、愛妻家で子煩悩な父は鍛練となると人が変わる。
三人は限界までしごかれた。
筋力トレーニングや素振り、走り込み。ある程度体力と筋力がついてきたら兄弟たちとの模擬戦。その次は大人の騎士たちと。そして最終的には父とやることになってボコボコにされた。
三人がかりでもいなしてしまう父はまさにイエティに相応しい人外じみた強さだが、やられるユリウスたちにはたまったものではない。
毎日どこかしらは腫れるし、痣は消える前に別の場所に新しいものができる。
寝込むような怪我はなかったが、常に満身創痍だった。
そんな状況では自分の造作など気に留める暇はない。
むしろ、細身で身軽な体は父の攻撃を避けやすいから自分の利点だと思っていた。
顔立ちについては本当に気にしたことがない。
そもそも、家族以外の周りの誰も父と兄弟に似ていないと指摘する者はいなかった。
だから、カールの勘違いする理由もよくわからず、他の令息たちが何故そんなにユリウスだけが違うことに拘るのか、理解できなかった。
家族は事実ではないのだから堂々としているといいと言ってくれる。
でも、何度も複数の他人からそう言われ続けると、もしかしたら父に似てない自分が悪いような気がしてくる。
ある日、あまりに顔のことを言われるのが辛くて、髪で顔を隠した。
すると、誰もユリウスに絡んで来なくなったのだ。
多分、変な奴だと避けられただけだと思うが、その時のユリウスにはもうなんでもよかった。
それ以降、髪で顔を隠すのが習慣になった。
家族にはもの言いたげに見られたり、直接顔を隠すなと言われたが、一度隠すとまた顔を見せる勇気が出なくなってしまった。
「ユリウス様はかっこいいので堂々としてていいと思います」
エレンと出会ったのは、そんな頃だ。
彼女の言葉がユリウスに響いたのは、とても普通だったからだ。
媚びたり諂ったり、ましてや蔑んでもこない。
おかしいと思ったら心のままに質問してしまう、真っ直ぐで隠し事ができない気性。
ここのところ、ずっと悪意に晒されていたユリウスに肩の力を抜いて話せるエレンとの時間は癒しだった。
だから、もう一度、できればこれからも仲良くしたいとユリウスの涙を拭ってくれたハンカチをつい抜きとってしまった。
自分が使ったものを洗って返すのは当たり前のことなので、悪いことではないはずだ。それにエレンも気づいていなかったから問題ない。
エレンとは順調に仲良くなり、それに伴いユリウスは人前に顔を晒すことに抵抗がなくなった。
隣にエレンがいてくれれば、ユリウスは他の誰かの悪意なんて気にならない。
エレンと出会った時からユリウスの心に何かが灯って、それが彼を勇気づけた。
温かな、暖炉の炎のようなもの。それが恋だと、ユリウスはもう知っていた。
彼の両親の間にある特別な感情だ。
でも、ユリウスとエレンの関係と両親とでは大きく違う。
まだ、ユリウスからの一方的な気持ちなのだ。
エレンはユリウスのことを友達だと言った。
好意的であることは確かだが、そこにまだ特別さはない。
ユリウスはエレンと恋をしたかった。エレンの恋になりたかった。
だから、先に将来の約束を取りつけてしまおうと思ったのだ。
母は恋は闘いだと言う。
父は勝負は先手必勝だと言った。
ユリウスがこの恋を勝ち取るには、まずエレンの隣を確保しておくことだと考えた。それ故の、プロポーズだ。
エレンはユリウスを受け入れてくれた。たくさん、将来の約束をして、二人はずっと一緒にいられるはずだった。
プロポーズの翌日からユリウスはエレンに会えなくなった。
それどころか、エレンは領地に帰ってしまったらしい。夏には彼の領地に避暑に来る予定だったのに、一体何があったのか。
両親に訊いても何も教えてくれなかった。
約束の夏が近づき、やきもきする彼を突然父が連れ出し、王宮へ向かった。
初めて通る廊下の先の、知らない部屋へ通される。
「ふぅん。噂は本当だったのね。これならわたくしの隣に立っても見劣りしないし、いいんじゃないかしら」
父と彼を待っていた少女に出会い頭に値踏みをされ、ユリウスはたじろぐ。
少女の言葉に鷹揚に頷いた老貴婦人も冷たく、高圧的で、思わず一歩、父に近づいた。
そのため、父が強く拳を握り、怒りを抑え込んでいることに気づいた。
「ドゥフトブルーデ侯爵、こちらの書類にサインを」
「お待ちください。国王陛下やナルツィッセ伯爵はどうされたのですか。お二人の承認もなく決めていいことではありません」
諫める父の言葉に老貴婦人は目を細め、扇子を開いて口元を隠した。
少女の方は父を小馬鹿にするような眼差しで見ている。
数多の騎士に尊崇の念を送られている父をそんな目で見る人間は初めてだ。
たったそれだけのことだったが、ユリウスは彼女が嫌いになった。
「カタリーナに関わるすべてのことはわたくしの領分です。そんな者たちの立ち合いなど必要ありません。
あなたは言われた通りにすればよいのです」
「……はっ」
老貴婦人は父の意見を冷たく退けた。
ユリウスには父が一礼しながらも唇を噛んでいるのが見えた。
この老貴婦人は父が逆らえない身分で、そして、ここへ来たのは父の本意ではないのだ。それくらいは、彼でもわかった。
老貴婦人の指示で前に進み出た秘書官らしい男が、父ではなくユリウスの前に書類を差し出す。
戸惑いながらも目を通し、それが婚約に関する契約書だとわかって、父を見上げた。
父は静かな眼差しで、ひとつ、頷いた。
それはサインをしろという意味だ。
嫌だった。
サインをするならそれは、エレンとのもののはずだった。
ユリウスの名前を書く欄の下はまだ空白だが、おそらくここにいる少女がそこに記入する予定なのだろう。
エレンのことがなくとも、初対面のユリウスを値踏みして、尊敬する父を嘲笑う相手とは絶対婚約したくない。
父はユリウスがエレンとの婚約を望んでいることを知っているはずなのに、どうしてこんなことを強いてくるのか理解ができず、もう一度父を見た。
父は、やはり、頷いて彼を促した。
彼は今までで一番ゆっくり、自分の名前を書いた。
納得してはいない。本当は全力で拒絶したい。
でも、父がそうしろと言うなら何か理由があるのだ。
サインをしたら二人は老貴婦人に部屋から追い出された。そんな傲慢な行いにも父は何も言わない。
部屋を出ていく時に見た老貴婦人と少女は食い入るように契約書を見ていた。
そのまま何も教えて貰えず帰宅し、さらに普段はあまり近づかない、父の執務室に連れて行かれた。
そこには、初対面の男性が彼らを待っていた。
彼の家に出入りする騎士たちとはまるで毛色が違う。
細身で理知的な印象の彼は、先程の秘書官らしい男に似たかっちりした服装をしていた。
「待たせてしまったか」
「いいえ。それほどでは」
父は彼にそう声を掛けてから、ユリウスに座るように言った。
すかさず男性はユリウスの前に書類を差し出す。
反射的にそれを読んだユリウスは弾かれたように父を見上げた。
「それにサインしなさい」
それは、エレンとの婚約の契約書だった。
すでにエレンの方のサインはされていて、あとはユリウスのサインさえしたら完成するようになっている。
先程ユリウスの婚約はあの不遜な少女と結ばれたはずだ。何故父はこんなものを用意したのか。
彼の名前欄の下に記された彼女の名前はやや角ばっている大人の字だ。
同じ字で、エレンの名前の下に代筆者の彼女の父親の名前が記されていた。
エレンはこのことを知らないのだ。
でも、構わなかった。父親がサインしたとしても、この書類は本物で、これでユリウスはエレンの隣を独占できるのだ。
先程よりも軽やかにペンを走らせ、自分の名前を記す。
男性はきちんと書類を確認すると「では、お預かりします」と言って、執務室を出て行った。
今日はずっとわからないことが続き、質問したいことばかりだった。
しかし、うまく言葉が出てこない。
「……これで、お前とリンデンバウム嬢は正式に婚約者同士だ」
「本当ですか? でも先に別の書類にもサインしました」
「あれは紛失することになっている」
父の言葉に首を傾げる。何故そんなことがわかるのか。
あの老貴婦人と少女はユリウス自身には興味がない様子だったが、ユリウスとの婚約には執着を見せていた。
大事な書類を失くすものだろうか。
「大丈夫だ。お前とあの……カタリーナ・ナルツィッセの婚約は絶対に正式にはならない。
ただ、これからしばらくお前にはあの娘の護衛になって貰わねばならん」
「しばらくっていつまでですか……?」
「それは……。まだ、わからん」
「エレンは? エレンとは会えるんですよね?」
父は痛まし気にユリウスを見て、ゆっくり首を振った。
エレンと、会えない。
いつまでなのか、どうしてなのか。
訊きたいことはたくさん浮かぶのに、口から出て来るのは掠れた吐息だけだった。
目の前が暗くなる。
「ユリウス、すまない。彼女の安全のためだ。堪えてくれ」
父の言葉で少しだけ光が戻る。
エレンを守るため。それだったら、なんとか耐えられるかもしれない。
「本当にすまない。お前の幸せも守れぬ不甲斐ない父を、許さないでくれ」
いつの間にか彼の前にしゃがんだ父が、彼の両手を自分の手で包む。
まだ薄暗い視界の中で、父は泣いていた。
何か言わねばと思うのに、言葉はひとつも浮かんで来ない。
無性に、エレンと会いたくなった。
きっと彼女なら、いつもの笑顔で今深い淵の底にいるユリウスを掬い上げてくれる。そんな気がした。
正式にカタリーナの護衛として配備される前に、父はユリウスを勇気づけるため、なんとか時間を作って、エレンの元へ送ってくれた。
白い、雪のような花が降りしきる中の再会と別離に、涙を堪えられなかった。
たくさんの約束を反故にしたユリウスをエレンは許し、待っている、と約束してくれた。
王都へ帰る馬車の窓から遠ざかるズュートを見つめ、いつか必ずここへ帰ってくることを誓う。
この、エレンの育つ地こそが、これから彼が帰る場所なのだ。
エレンとの約束と、優しい思い出だけをよすがに本格的に新しい生活が始まった。
彼はカタリーナに逆らわず、それでいて護衛の領分からはみ出さない振る舞いをもとめられた。
父からの命令だ。
「カタリーナ・ナルツィッセは王位簒奪を目論んでいる。
今のところその兆候はないが、陛下や殿下方の暗殺を計画している恐れもある。
お前の役目は彼女を監視し、危険をいち早く知らせることだ。
彼女の信頼をとれとは言わない。お前は何もしないと、油断させろ。とるに足らない男だと、侮らせておけ。
ユリウス、忘れるな。お前は決して安全な立場じゃない」
ただの婚約話から国の未来を左右する一大事に発展し、そんな大役が自分に務まるのか、と不安に駆られる。
彼が今まで教わってきたことと言えば、戦いの術ばかりだ。
剣を交えたり、馬を操ることは得意だが、人との駆け引きにはまったく自信がない。
そんな彼に助言をくれたのは、グイードだった。
「とりあえず、困ったら笑っとけばいいよ。
どうせカタリーナのやつは自分の都合の良いように話を作るんだから、好きにさせとけ。
兄上は変に言質を取られないように曖昧にしといたらいい」
今のところ王子たちと関わりがないグイードはあまりカタリーナに警戒されず、ユリウスの側にいられた。
四六時中一緒とはいかないが、度々側に来て助言をくれる弟の存在はユリウスの不安を和らげた。
また、グイードは密かにパウルと彼の間を繋いでくれて、年に一回だけだが、エレンへ贈り物ができるようになった。
カードも何もない、花束のみだ。しかもユリウスができるのは花の指定だけで、用意するのは結局パウルだ。
パウルはエレンの様子を綴った手紙をくれる。とても感謝しているが、直接会えて、贈り物を渡せる彼が妬ましかった。
ユリウスとエレンの間にあるものは、結局あの日の約束だけだ。
ユリウスは婚約していることを知っているが、エレンは知らない。
果たして彼女は本当にずっと待ってくれるのだろうか。
年々その不安は増した。
ユリウスの中で、エレンは六歳のままだが、こうして離れているうちに彼女はどんどん成長していくのだ。
大人になっていく彼女に恋をする男が現れてもおかしくはない。
不安が高じ、無理を言って髪飾りを贈って貰った。
花のように枯れてなくならないものをひとつ、どうしてもエレンの手元に置いておきたかったのだ。
最後のあの日を思い出させる白い花に、どうか彼女がユリウスを忘れてしまわないようにと願いを込めた。
グイードや家族の支えもあって、ユリウスはさほど失敗なくカタリーナの護衛を続けられていた。
世間的には婚約者という認識が浸透していたが、彼は一度もそれを肯定していない。
ただ、仲睦まじい演技をするカタリーナを拒絶しないだけだ。
その頃には、ユリウスにとってカタリーナは薄気味悪い存在となっていた。
彼女がユリウスを婚約者に選んだのは父が騎士団長で、古くから続く名家の生まれという出自と、顔だ。
エレンと出会った茶会で、お開きの時に彼は顔を晒していた。
それを見た令嬢たちの間で、「知らない美少年がいた」と話題になったらしい。
それがカタリーナの耳に入り、彼女はユリウスの存在を知った。
祖母には悪いが、この顔は悪いことばかり引き寄せる。エレンが「かっこいい」と言ってくれてなかったら嫌いになっていただろう。
顔で彼を婚約者にしたカタリーナだが、特に顔に見惚れたり、執着を見せることはなかった。
あの時言っていたように、自分の隣にいても見劣りしない容姿を求めていたのだろう。
彼女が執着しているのは身分だ。
公爵で唯一、カタリーナの後ろ盾になってくれそうなファイゲ家。その令息の婚約者になりたがっているのは早い段階で気づいた。
他国にいるファイゲ公爵令息の婚約者に対する暗殺計画を察知し、父経由で王家に伝えたのはユリウスだ。
そんなことまでするのに、彼女はファイゲ公爵令息に欠片も好意がないのだ。
カタリーナの瞳の奥はいつも冷たい侮蔑の光が宿っている。
彼女は多分、王太后以外の誰も信じていない。
それなのに人当たりよく、誰にでも分け隔てなく優しい令嬢を演じる彼女は不気味でしかない。
そんなカタリーナの隣にいるのは苦痛だったが、彼女が側を離れた時はもっと苦痛だった。
夜会に出るようになった頃から、いつの間にか彼が浮き名を流しているという噂が広まってしまっていた。
カタリーナの仕業だ。
彼女は夜会の始めのうちは仲の良い婚約者を演じる。
それに満足すると、ユリウスを人気のない場所に連れて行き、動くな、と命じて放置するようになった。
そうしていると、知らない令嬢や貴婦人に見つかり、言い寄られるのだ。
噂に真実味を持たせるためだろう。
実際、そういった場面を目撃されて、「婚約者を放って遊んでいる」と思われ、社交界における彼の評判は下がった。
軽蔑の眼差しで見られることが増えたが、そんなことはもう気にしない。
ユリウスは、エレンと家族が信じてくれるなら、誰かどんなことを言おうとどうでもいいのだ。
それに、噂を鵜呑みにして迫る女性の大半は一度、強く拒絶すればあっさりと引いてくれる。
ユリウスを苦しめたのはごく一部の、カタリーナと親しいはずの令嬢たちだ。
カタリーナの友人というのか、取り巻きとでもいうのか。
茶会や夜会で示しを合わせたわけではないのにいつの間にか集まるメンバーだ。
いつもカタリーナから偽りのユリウスとの惚気話を聞かされているはずの彼女たちが、かわるがわる言い寄ってくるようになった。
しかも、とてもしつこい。
断っても粘るし、直接的な夜の誘いをしてくる令嬢もいて、嫌悪感が湧いた。
彼女たちに迫られている時は、だいたいヘルマンが割って入って助けてくれる。
兄の父親譲りの威圧感の前に、立ち向かえる令嬢はいない。彼女たちはヘルマンにひと睨みされればすぐに逃げて行く。
でも、また別の日にユリウスへ近づいて来るのだ。
始めは、カタリーナの企みだろうか、と思った。
自分の友人とユリウスを近づけて、さらに彼の評判を落とそうとしているのではないかと予想したのだ。
しかし、まったく違った。
カタリーナはこの件には関わっていなかったのだ。
「あーん! ユリウス様全然靡いてくれない〜!」
「わたくしもまったく駄目だわ」
「噂と違ってお堅いのよね」
「なんて言ったかしら。あの野獣みたいな兄がいつも邪魔をするわ」
「そうそう。問題を起こさないように監視してるのかしら?」
「早く奪ってカタリーナの泣き顔が見たいなー」
「ほんと。ただの伯爵家のくせに王女ぶって鼻につくわ」
「王太后殿下の庇護があるからって偉そうに」
あれは、いつの夜会のことか。
いつものように人気のない場所にカタリーナに置き去りにされ、知らない貴婦人に言い寄られたあとだった。
その貴婦人はすぐ引き下がったので、自分でなんとかできたが、心配して側にいたヘルマンと静かに休んでいたのだ。
その近くでカタリーナの友人たちが、そんな会話を始めた。
それから彼女たちの口から飛び出すのはカタリーナに対する悪口ばかり。
しかもきゃらきゃらと笑い、とても盛り上がっている。
ユリウスだってカタリーナのことは嫌いだ。
でも、ユリウスと彼女たちは立場が違う。
カタリーナが王太后の庇護の元、好き勝手に振る舞っているのは確かだが、彼女たちだってカタリーナの威光の恩恵を受けているのだ。
なのに、どうしてそんな、友人を陥れる真似をするのか。
しかも、徒党を組んで。
理解できなくて、気持ち悪かった。
しばらく話すと気が済んだのか、彼女たちは会場に戻っていった。
気づけば酷い冷や汗をかいていて、ヘルマンにそっと拭われた。
自分も青い顔をしているのに、兄の優しさに少しだけ冷え切った心が温まった。
その後も、彼女たちはユリウスに言い寄り続けた。
思惑を知ってしまったあととなっては、元々あった嫌悪感が倍増し、近づかれるのも苦痛だ。
それから、カタリーナ。
友人たちの企みを彼女が気づかないはずがない。
カタリーナは、わかっていて友人たちを泳がせていたようだ。
彼女たちがユリウスに気を取られているうちに弱味を握って自分に逆らえないようにする準備を着々と整えていた。
裏切られたのだから、そういうこともするだろうと、少しは理解できる。
でも、親友だとのたまった相手を嬉々として下僕におとす姿は不気味だった。
不気味なカタリーナと気持ち悪い彼女の友人たちに挟まれ、気付けばユリウスは食事が喉を通らなくなっていた。
カタリーナの隣に立ったあとは、動悸が激しくなり、呼吸も苦しくなる。
カタリーナの友人たちに近づかれると、冷や汗が止まらない。
そして、あの夜聞いたきゃらきゃら嘲笑う声が頭から離れず、彼女たちと関係ない女性を前にしても、体が震えるようになってしまった。
痩せ細るユリウスを母は心配して、食べられるものを、と色々用意してくれたから、なんとか死なずに済んだ。
でも、あの頃は何を食べても味がせず、まさに砂を噛んでいるようだった。
だから、彼の登場はユリウスには救いだった。
「美しい人。そなたのような女性こそ、俺に相応しい」
他国の王太子の結婚式だというに、まるで自分こそが主役だと言わんばかりの自信に満ち溢れる黒髪の青年が、そう言って強引にカタリーナの手を取った。
もう片方の彼女の手が強く、掴まってユリウスの腕に縋ったが、もはやなんの感情も浮かばない。
引きずられて遠ざかるカタリーナの背中を見て、やっとエレンに会いに行ける、そう安堵した。
◆
長い冬をへて、ユリウスはようやく待ち望んだ春を迎えた。
エレンは約束を守り、昔と変わらぬ心のまま、魅力的な淑女に育ち彼を待っていた。
不甲斐ない有り様の彼を優しく受け入れ、何度醜態を晒しても幻滅することなく、彼を癒やしてくれた。
ユリウスはかつて願った通りにエレンの恋となり、これからの人生ずっと隣にいられる立場に収まったのだ。
素晴らしい結婚式のあと、ハネムーン代わりの帝国への訪問。
そして、去年とは違う仕事を任された二度目の祭りは、いつか領主となるユリウスに少し自信をつけてくれた。
忙しいパウルとブランシュは今年も不参加で、代わりにグイードが恋人とカールを連れて遊びに来た。
弟にいつの間にか恋人ができていたのも驚いたが、見違えるほど逞しくなったカールに、過去のことを謝られたのは嬉しい驚きだった。
ただ、時々白目を剥くのは何の病気だろうか。
グイードは大丈夫だと言うが、心配である。
ユリウスはエレンのおかげでずっと幸せだ。
しかし、エレンはどうなのだろうか。
よく考えたら年下の彼女にユリウスは甘えっぱなしである。
もっと年上らしく、エレンに頼られたいし、甘やかしたい。
なので、かつて破ってしまった約束を果たそうと、実家の領地へエレンを誘った。
季節は冬を迎えている。
そう、二人で雪を見に来たのだ。
もう二人共、すっかり大きくなってしまったが、エレンがやりたがっていた雪遊びを全力でするはずだった。
「すごいねぇ。真っ白でなんにも見えない」
「そうだね……」
暖炉でしっかり暖められた室内から窓の外を見る。
びゅうびゅうという風の音に、ばちばちという雪が窓にぶつかる音までしている。
外は完全にホワイトアウトして、庇にぶら下がる氷柱すら見えない。
滅多にない猛吹雪だった。
到着した日は天気が良く、雪も薄っすら積もるだけだったのに、翌日から雪が降り始め、今日はこの有り様だ。
エレンは気にしていないが、ユリウスは落ち込んだ。タイミングが悪すぎる。
そろそろ雪中行軍訓練があるので、領地に帰っていた父は昨日まで騎士たちと共に雪かきに精を出していた。
ユリウスと母も手伝った。雪国の宿命である。
エレンもやりたがったのだが、留守番を頼んだ。
暖かい南部育ちのエレンは寒さに弱い。くれぐれも注意するようにゾフィーに言い聞かされたのだ。
今も厚手のドレスの上にストールをユリウスが巻き付けさせた。
普段薄着なので、上着を着るという習慣がないエレンはすぐストールの存在を忘れてしまう。彼が気をつけておかねばならない。
風邪をひいてもこんな雪では医者も邸まで辿り着けないのだ。
本日は街にいても遭難する天気なので、誰もが家に籠って嵐が過ぎ去るのを待っている。
本当はそろそろ辺境伯の元から騎士たちが訓練のために来るはずなのだが、この雪で足止めされているのだろう。音沙汰が無い。
王都からもグイードがカールと訓練に参加するために来る予定だったのだが、無事だろうか。
今年の訓練はユリウスも是非参加したい。
帰る場所はズュートになったが、彼も北の男である。嗜みのひとつくらいやっておかねばならない。
「二人共、お茶が入りましたよ」
「はい」
「はぁい」
茶の準備をしていた母に呼ばれて返事をする。
お茶と聞いてエレンは目を煌めかせている。本当にかわいい。
暖炉の近くに置かれたソファーに座ると、侍女ではなく母自らが茶を淹れてくれた。
「エレンちゃん、ここらへんではお茶にジャムを入れて飲むのよ。
最近作ったマーマレードがあるからやってみて」
「おいしそう!」
母に教えられてエレンは言われた通りにをひと匙、マーマレードを紅茶に溶かしている。
それはユリウスがエレンに教えたかったことだ。
先を越されてしょげるが、エレンが紅茶を飲んで「おいしいねぇ」と笑うので、どうでもよくなった。
エレンが幸せならいいのだ。
「エレンちゃん、お茶のお供にこんなものはいかがかな?」
「わぁ! 焼いたマシュマロ?」
「そう。これをクッキーで挟んで食べるんだ」
「すてき!」
ずっと暖炉に向かってしゃがみこんでいた父が、串に刺したマシュマロを外し、クッキーで挟んでからエレンに渡している。
その食べ方もユリウスがエレンに教えたかったやつだ。
「ほら、ユリウスの分もあるぞ」
またも先を越されて落ち込む彼に、父は同じものを渡してくれる。
まだ幼い頃、吹雪の日はこうして家族揃って暖炉を囲み、ティータイムを過ごすのが習慣だった。
カタリーナの隣にいることになってから、ユリウスはずっと領地に帰れなかった。
両親とゆっくり過ごすのは本当に久しぶりだ。
王都の邸で寝起きはしていたが、彼に余裕がまったく無く、両親や兄弟とも落ち着いて話す時間はなかったのだ。
思えばずっと申し訳ないことをしてしまっていた。
家族は必死な彼に合わせて、団欒と言えるような時間を失っていた。
随分甘え、寄りかかってきたのだと改めて自覚して、やはり落ち込む。
「ユリウス食べないの? おいしいよ」
エレンが不思議そうに首を傾げ、彼を覗き込んでいる。
甘いものに目がないのに、手の中のマシュマロを挟んだクッキーは食べかけだ。
甘いものより彼の心配をしてくれたようで嬉しくなる。
安心させるために、クッキーを一口齧る。
砂糖の焦げる香ばしい香りに、ほろほろと口の中で崩れるクッキーとふわふわでありながら蕩ける舌触りのマシュマロは、懐かしい味がした。
もう、食べ物を砂のようには感じない。
「……おいしいね」
「うん!」
そう言って微笑むと、エレンはユリウスが一番好きな笑顔で応えてくれる。
ゾフィーはだらしないと言うが、ユリウスにとっては世界一かわいい笑顔だ。
過ぎ去ってしまったことはもうどうしようもない。
ユリウスが十年エレンと会えなかった間、ドゥフトブルーデ家に団欒はなかった。
けれど、これから先十年は変えていける。
もっと頼れる人間になって、そしていつか、父がユリウスにクッキーをくれたように、彼にもクッキーを渡す存在に会える日が来るかもしれない。
そんな夢が見られるのも、すべてエレンの隣に戻って来られたからだ。
ユリウスは一番大好きなエレンの笑顔を見ながら、クッキーと幸せを噛み締めた。
だから、両親が嬉しそうにそんなユリウスを見守っていることには気づかなかった。
こちらで今作は完全に完結します。
元々、銀木犀の花言葉が「初恋、唯一の恋」だと知って、思いついた作品でした。
しかし、肝心の銀木犀をあまり目立たせられず、物語とは難しいなととても勉強になりました。
拙作を最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。