二人の距離感(ブランシュ視点)
ブランシュ視点ですが、エレン視点だと謎が多い王太后やカタリーナについての補足です。
モンドラゴン帝国に滞在する最後の日は、切った爪のように細い三日月と降ってきそうなほどの星が輝く夜だった。
昼間のほとぼりと夜の涼やかさが混じる夏の空気に知らない花の香りが漂う。
パウルとブランシュはバルコニーに設置された寝椅子に並んで寛いでいた。
国から二人について来た使用人たちは部屋の中なので、ほぼ二人きりだ。
今回の滞在の間、二人に提供された部屋は婚約者同士ということで、バルコニーがあるひとつの居間を挟むようにふたつの寝室がある客間だ。
みっつの部屋は内扉で行き来ができるので、いつになく二人で過ごす時間が多かった。
婚約してから十年も経つが、こんなに二人きりなのは初めてで新鮮だ。
そのせいかわからないが、アンネに招待された今回の帝国訪問は百点満点とは言えないけれど、及第点の成果で終えることができた。
肩の荷が下りたことと、異国の地であることから、どことなく解放感がある。
パウルはほとんど寝そべるように寝椅子に体を預けている。
ブランシュは彼から拳ひとつ分空けて、久しぶりに背もたれに寄りかかった。
空を見上げるならこの体勢がどうしても楽だ。
明日の早朝にはここを出て、近くの運河から船に乗り、一週間かけて国へ帰る。
乗る客船は皇帝が彼らのために用意したものだ。
元々、陸路で帝国に行くと一カ月もかかってしまうため、海路で行くことは決まっていたのだが、アインホルンが船を用意する前に迎えが来たのだ。
国力の誇示も兼ねてか大変大きな船で、使用人のみならず、音楽家や女優、奇術師などまで乗っていた。
至れり尽せりなおもてなしに、どうしてここまでと勘繰ったが、帝国に到着する頃には納得していた。
馬車のように体は痛くならないが、ずっと海の上にいると存外退屈である。
こんなに長い船旅は初めてだったので、新しい発見であった。
明日からまた退屈で常に揺れる生活が始まる。
そう思うと憂鬱とまではいかないが、地に足をつけた生活が愛おしく思えてくる。
「思ったよりも妨害がなくて楽だったなぁ」
「そうね。どこかの誰かさんがもっと女の子を引っかけると思っていたわ」
「帝国のご令嬢たちはチンケな国の王子など興味がないのさ」
帝国での日々を振り返りパウルはそう言って、口の端を上げるだけの笑みを浮かべた。
皮肉気な表情のはずなのに見た目の柔和さのおかげか愛嬌を感じる。
パウルはその見た目と外面の良さで女性人気が高い。
アインホルンではブランシュという婚約者がいてもお構いなしで言いよる令嬢がいたが、帝国ではそんなことは一切なかった。
こちらのご令嬢たちが礼儀を弁えているというより、近づけなかったというのが正しい。
何しろ、皇帝陛下本人に接待をされていたので。
アンネがブランシュたちと行動を共にしていたから、仕事は大丈夫なのか心配になるくらい観光案内をしてくれた。
大変贅沢で緊張を強いられる経験だったが、色々とスムーズで助かった。
破格の対応にリンデンバウムの面々は初めこそ緊張していたが、すぐに慣れたようで普通に楽しんでいた。
あの家の人々は全員マイペースだ。
リンデンバウムの血筋はエレンだけなので、ズュートに暮らすと皆ああなっていくのかもしれない。
そして、なんと言ってもアンネだ。
あの皇帝相手に真正面から噛みついていくのだから恐れ入る。
前からもの怖じしない性格だったが、格段にパワーアップしている。
アンネのための舞踏会での振る舞いも年下とは思えないほど堂に入っていたし、帝国の水が合っているようで一安心だ。
ちょっと皇帝の執着が強そうな気がするが、自由奔放なアンネには丁度いいのかもしれない。
友人としてはカールと結婚してくれたら義理の姉妹になれて嬉しかった。
だが、二人の様子を見ていると、アンネはカールと結婚してもうまくいかなかっただろうな、と想像できてしまう。
一度公爵令嬢という身分を失った経験のあるアンネはもはや身分や立場に縛られない考えの持ち主だ。
自分の好きなように生きるアンネと、子供っぽく視野が狭いカールは相性が悪い。
そのカールは現在、おしおきとして北の辺境伯の元へ預けられている。
アンネが連れ去られる際に、彼女を取り戻すため他の令嬢をグレゴリオに差し出そうとしたからだ。
カールはまだ正式に婚約してなかったので、彼の元に届いていた釣書を渡して「この中から選んでいいですよ」とやろうとしていたらしい。
彼の主張は、アンネという婚約者候補のいるカールに釣書を送ってくるような令嬢はろくでもないから別にいいと思ったんだそうだ。
アンネの気を引くために令嬢を取っ替え引っ換えしていたことを棚に上げて、随分な言い草だ。
自分の想い人を守るために他人を犠牲にするなど、王族として許されない。
そもそも、カールがちゃんとアンネと仲を深めていれば国王は王太后の妨害があっても二人を婚約させていたはずだ。
国王夫妻は王子たちに自分の気に入った令嬢を婚約者にすることを許していた。
二人の結婚は政略だったが、想いあって結婚したので、息子たちもそういう相手と出会ってほしいと願ってのことだ。
但し、相手の令嬢にきちんと自分の気持ちを伝え、受け入れて貰うことが条件だ。
パウルも、そうだった。
あの茶会のあと、すぐに訪ねてきてブランシュに婚約者になってほしい、と請うた。
ブランシュは断った。
兄が王太子の側近に決まっていたし、茶会の時パウルと話した記憶がなかったからだ。
そんな相手が婚約を申し込んでくる意図がわからなかった。
理由を訊くと「勘」というなんとも彼女には理解し難いことを言うし、絶対合わないと思ったのだ。
ただ、パウルは粘った。
これから仲良くなろうと毎日ミステル侯爵家に通うようになったのだ。
仕方なく相手をしていたが、パウルが彼女に感じた特別な何かをブランシュは感じられなかった。
彼女がパウルの申し出を受け入れたのは、エレンのことがあったからだ。
着実に恋を育んでいたユリウスと引き離され、王太后の勘気に触れないため、領地から出られなくなってしまったかわいいはとこ。
もしまた彼女が社交界に戻ってくる時に、ブランシュはそれを庇護できる場所にいたかった。
それにうってつけなのが王子の婚約者という立場だったのだ。
ブランシュは婚約を受け入れる前に全部正直に打ち明けた。
パウルはブランシュに求めているのは政略ではなく、恋愛である。
なのに、彼女は自分の利益のために婚約を結ぼうとしている。黙っているのは不誠実だと思ったのだ。
怒られても仕方ないと思っていたのに、パウルは笑ってブランシュを許した。
「好きなだけ利用したらいい」
なんてことまで言う。
やっぱりパウルはブランシュには理解し難い人種だった。
エレンのために婚約解消はなるべくしたくないと危ぶんでいたが、早十年が経ち、来年には結婚までしてしまう。
人生、どうなるかわからないものだ。
しみじみそう思っていると、パウルが浮かない顔でため息を吐いた。
「はぁ、帰ったら何から手をつけたものやら……」
「ナルツィッセ伯爵家を社交界に戻すことからかしらね。いつまでも田舎に引きこもってはいられないわ」
「それは早急に始めなければな……。でも来年は私たちも結婚式だぞ……」
「カール殿下に手伝っていただきたいわ」
「カールにできるかなぁ」
カタリーナに関する処分は帝国に来る前に粗方片付いている。
これからは彼女が荒らし回った後始末をひとつひとつしていかなければならない。
そのひとつが、カタリーナの生家、ナルツィッセ伯爵家の復帰だ。
虐待疑惑をかけられた結果、彼らは社交界から追い出された。
領地に戻っても、噂を信じた貴族たちとの取引が一方的に取り消され、金銭的に厳しい時もあったようだ。
長い付き合いのある家とは交流が続いていたし、家族で助け合って苦しい時代を乗り越えられたそうだ。
再婚後生まれた子供たちはそろそろ年頃になる。
婚約者を探す必要もあるし、表立って庇えなかった王家としては彼らがうまく社交界に戻れるように助けていきたいものだ。
ナルツィッセ伯爵のことを考えると、ブランシュはどうしてもカタリーナと王太后のことを思い出してしまう。
カタリーナは何も語らないまま、素直に療養所に向かった。
憑き物が落ちた、というより魂が抜けたような虚脱状態だ。
体はやや弱っている程度だが、心の方は重症で、時間をかけても治るかどうかわからない。
ただ、彼女が送られた療養所はナルツィッセ伯爵の領地の、隣の領地にある。
国王が彼に手紙を送ってそれを知らせたので、もしかしたら復調するかもしれない。
国王は、一度は壊れてしまった姉の幸せの象徴たる二人が少しでも繋がっていてくれたらと願っている。
そこは本人たち次第だろう。
なんにしろ、カタリーナはもう二度と王都へは戻っては来ない。
問題は王太后だ。
彼らが帝国に来る少し前、彼女は密かに自分と繋がる貴族たちを動かし、噂を流そうとしていた。
ユリウスは偽装結婚で、カタリーナの療養が終わり次第離婚し、カタリーナと再婚する予定だ、というものだ。
それを聞いた時、怒りが沸いた。
どこまでユリウスを都合良く利用するつもりだと。
これ以上、エレンを悲しませることも許せない。
それに、あんなにボロボロのカタリーナをまた表舞台に戻そうと考える神経が理解できなかった。
当然、パウルと協力して阻止させて貰った。
そもそも噂の根拠にしようとしていたユリウスとカタリーナの婚約の契約書が正式に受理されていないのだ。
土台が存在しないと知った時の王太后の様子はなかなか胸がスッとした。
でも、ひとつ計画が潰されたからと言って諦める彼女ではないので、これからも近くに置いて監視し続ける必要がありそうだ。
流石にもう、王太子もパウルも油断しないだろうが、王太后は強敵だ。
頭が良く、魅力に溢れ、野心に満ち満ちている。
自分の才覚をよくわかっているし、何より決して諦めない、堅固な意志がある。
だから、彼女は低い身分から王妃になれたのだ。
そして、そんな彼女だからこそ、たくさんの信奉者や支援者がいる。
離宮に幽閉はされていても、彼女の影響力はまだ衰えていない。
そんな彼女を躓かせたのは、いつも女性だった。
例えば、彼女の娘。
王女の娘を王位につけ、王太后は摂政となって実質的な女王として君臨するはずだった。
しかし、王女は愛する相手との結婚に逃げた。
それから、アンネの祖母のカスターニエ前公爵夫人。
先に貴賤結婚をしていて、高位貴族らしい振る舞いを覚えず評判の悪い前公爵夫人の存在は、元子爵令嬢の王太后の立場を不利にした。
そのため、思ったように人脈を広げられなかった。
そして、ゾフィー・ミステル。
現在はゾフィー・リンデンバウム。エレンの祖母で、ブランシュの大叔母だ。
彼女はかつて、前国王の一番有力な婚約者候補であった。
ほとんど決まりかかっていた話は、ゾフィーの出奔によってなくなった。
大叔母は侍女をひとりだけ連れて、リンデンバウム家に押しかけたのだ。そして前伯爵に捨て身の求婚をした。
今の大叔母からはまったく想像できないアグレッシブな行動だ。
祖父はその頃のことをあまり語りたがらないが、完璧な淑女と評判だった大叔母の突然の奇行に社交界はかなりざわついたらしい。
結婚後、姿を現した大叔母の幸せそうな様子に、完璧な淑女でも恋の魔力には抗えないのだと誰もが納得した。
当時は親ではなく、自分で婚約者を探す風潮ができつつあったので、大叔母の行動は無責任と非難はされることはなく、むしろロマンスとして好意的に受け取られたのだ。
その後、大叔母がいなくなったことでぽっかり空いた王妃の座に王太后が収まった。
しかし、そのせいで王太后は「ゾフィーがいなくなったから」という、二番手の印象を植えつけられ、それを払拭できなかった。
前国王との仲が睦まじかったらまた違ったのだろう。
だが、夫婦仲は険悪ではなかったが義務的で、王太后が女児しか産めなかったために側室を迎えている。
側室の女性は伯爵家の出身で、立場を弁えて何事にも控えめだったそうだ。
そのため王太后の領分を侵すことはしなかったが、穏やかな彼女に前国王は惹かれ、私的な時間はほとんど彼女の元へ通っていた。
せっかく望んだ立場に登りつめても不安定なままの己の立ち位置に、それでも王太后は踏ん張り続けた。
側室と前国王が相次いで亡くなり、カタリーナの誕生を期に彼女は暴走を始めたのだ。
思い通りにならなかった娘の遺児を見て、彼女は何を思ったのか、ブランシュにはわからない。
一度見た夢をまた見られると野心を燃やしたのか、それとも、唯一の孫にすべてを与えたいと思ったのか。
せめてそこに一片の愛情があってほしいとブランシュは思う。
生まれてからずっと、カタリーナには王太后しかいなかった。
王太后がそうしてしまった。
本当ならカタリーナはエレンのように父親の愛情をたくさん注がれて育つはずだったのだ。
夜気に涼やかさが増してきて、そろそろ部屋へ戻ったほうがいいかもしれないと思い、パウルを見る。
彼は目を瞑って、静かに胸を上下させていた。眠ってしまったらしい。
確かに眠ると気持ちよさそうなそよ風が吹いている。ブランシュもついあくびをしてしまった。
大変気持ちがいいが、流石に野外で寝たら風邪を引く。
起こそうとして、あまりに気の抜けた寝顔に躊躇する。
そこまで寒くはないし、ブランシュも瞼がくっつきそうなほどは眠くない。
もう少しだけ寝かせてあげることにした。
約十年の婚約期間は決して平坦なものではなかった。
大叔母のことがあったから、ブランシュは王太后に敵視されていたのだ。
彼女はあまり大叔母には似ていないのだが、色彩がまったく同じなのが気に食わなかったらしい。
王子妃になるための教育を受けに王宮へ行けば、何かにつけていびられた。
マグダレーナもいびられるのだが、ブランシュに対しては特に酷い。
気丈な方だと自負していたのに、こっそり泣くことが何度かあった。
そんな時にパウルはいつも気づいて、慰めに来てくれた。
王太后に絡まれているところに割って入り、庇ってくれたことだって何度もある。
カスターニエ前公爵夫人の孫で、大叔母の薫陶を受けたアンネの登場によりやや王太后の気はブランシュから逸れた。
しかし、嫌われていることに変わりはない。
辛く当たられ続けるブランシュを支えてくれたのは、パウルだ。
カタリーナと王太后の動きが活発になるにつれ、厳しく、可愛げのないことばかり言うブランシュにパウルはいつも優しかった。
パウルが婚約者だったから十年、耐えられたのだ。
ブランシュは相変わらず、パウルの感じた特別がわからない。
でも、この十年、積み重なったものは特別で何よりも大切なものだということはわかっている。
改めて、彼女の前でしか見せない気の抜けた寝顔を見つめる。
らしくもなくそわそわして、何度もパウルが寝ていることを確認してしまう。
起きている時は絶対しないが、いつもきついことを言ってしまう謝罪をこめて、頬にキスを送った。
こんなに近づくのは初めてだ。自然と鼓動が昂ぶる。
まじまじと寝顔を眺め、あることに気づいて席を立つ。
そのまま素早く室内に入り、窓の鍵を閉める。
かちゃん、という音と共に外にいるパウルが飛び起きた。
『ブランシュ、寝たふりしてすまん! 謝るからここを開けてくれ!』
「わたくし、休みます」
「かしこまりました」
『ブランシュ? ちょっ、置いてくな! ブランシュー!』
ブランシュは振り返らないまま、声をかけた侍女を伴い、自分にあてがわれた寝室に向かう。
まったくいい年になって何をしているのか。
やっぱりパウルはブランシュには理解不能だ。
ブランシュが寝室に入りきっちり鍵をしめたあと、パウルは侍従に「せこいことするからですよ」と詰られながらも部屋に入れて貰えた。