彼女の帰る場所(アンネ視点)
本編の補足のような感じになります。
アンネの母国で一番大きな王宮のホールより、三倍広い帝国のホールを見渡す。
明るく、というよりギラギラと光るシャンデリアを見上げ、彼女はしばし過去を振り返る。
かつての無知のままだったら、こんなところには決して立つことはなかっただろう。
子供の頃のアンネに必要だったのは美しいドレスとふわふわのぬいぐるみ。それから甘いお菓子と「かわいい」という言葉。
それさえあれば、アンネは満ち足りていられた。
それが本当の「満ち足りる」ではないとわかったのはそれらをすべて取り上げられて、新しいものを得たあとだった。
カスターニエ家を追い出され、母と共に移り住んだリンデンバウム家で与えられたものは、今までとまるで違った。
それは礼儀作法であり、教養であり、知識だった。
そして、たくさんの優しさ。
彼らは惜しみなくアンネを愛おしみ、あっさり家族として受け入れた。
彼らの言葉ひとつひとつから滲み出る慈しみが固く強張っていたアンネの心を温め、癒した。
愛が籠る叱咤が彼女を強く、逞しくした。
穏やかなズュートの地で積み重ねた思い出がアンネを奮い立たせた。
「よいですか。我が家の体面など今は気にする必要はありません」
久しぶりに王都に戻った時に、エレンの祖母でアンネの心の大師匠、ゾフィーがそう切り出す。
ゾフィーはアンネとまるで関係のない立場であるのに、つきっきりで彼女を淑女へと磨き上げてくれた。
「今のあなたは公爵令嬢ではありません。リンデンバウムに所縁のあるただのアンネです。
だから、自分がどうありたいか、自分のために選びなさい。あなたは今、自由なのです」
彼女はアンネにたくさんの武器を持たせた上で、好きに生きろと言ってくれたのだ。
その瞬間、アンネの目の前に広い、新しい世界が開けた気がした。
新しい家族たちはアンネに自分の人生を、自分のために生きろと言ったのだ。
彼女はその通り、自分の思うままに生きた。
だが、その末に帝国まで辿り着くとは流石に想定していなかった。
目を刺すようなシャンデリアの煌めきが、アンネを現実に戻す。
ホールの中央、一際大きなシャンデリアの下で複数の男女が踊っている。
その中のひと組を彼女は目で追う。
従姉のエレンとその夫のユリウスだ。
二人はもう三曲も続けて踊っている。騎士の鍛練を受けて育ったユリウスは勿論、エレンは乗馬が趣味だから運動神経はいいし、体力もある。
なので華麗なダンスを披露しているのだが、本人たちは互いに夢中で周囲の視線などまるで気にならないようだ。
特に見目麗しいユリウスは若い令嬢たちの視線を引いている。
ただ、彼女たちの視線は鑑賞用と割り切ったものだ。
格下の国から来た貴族など見て愛でるだけで充分ということだろう。帝国の令嬢たちはとてもシビアだ。
それに二人の装いも関係している。
今日のエレンが着ているのは黄色味がかったオレンジ色のドレスだ。スタンダードなプリンセスラインで、同じ色の糸で刺繍がしてある。
デザイン自体は無難だが、刺繍糸が特殊なのかシャンデリアの光を浴びて煌めき、華やかな印象だ。
一方のユリウスはこちらもやはり無難な黒の礼装で、差し色に若草色のリボンやタイを使っている。
目立たないが中に着ている若草色のベストにはエレンと同様に、同じ色で妻のドレスと同じ刺繍が施されている。
そして、互いの瞳の色の石が嵌まった揃いの結婚指輪。
新婚ですと全身で主張している。
特にユリウスは入場から片時もパートナーから視線を逸らさず、ピッタリ張りついて離れない。
結婚や、遊び相手にならない、むしろ馬に蹴られる案件に自ら飛び込む愚か者はここにはいないのだ。
なので二人はユリウスの苦手な女性に脅かされることなく、存分に、伸び伸びしすぎるほど舞踏会を楽しんでいる。
ここまでマイペースに振る舞える二人は大物かもしれない。
二人以外に招待したリンデンバウム家の面々もそれなりに楽しめているのか、叔父は同年代の男性と笑顔を浮かべ会話を楽しんでいる。
母と大師匠ゾフィーも年配の貴婦人たち数人と、なにやら話しているようだ。
準備ばかりしてこういった場に出たがらない母は浮くのではないかと心配したが、ゾフィーのおかげで馴染めているようだ。流石は大師匠である。
パウルとブランシュも招待しているのだが、二人は挨拶回りに忙しく、どこにいるかわからない。
彼らは王族なのでこの機会にやりたいことが大量にあるのだろう。
カスターニエ家からは誰も呼んでいない。
アンネは叔父に頭を撫でられるのは嫌いではないが、実父に撫でられると想像するだけで反吐が出る。
つまりそういうことだ。たっぷり贅沢させて貰ったが、彼らはとっくに彼女の家族ではない。
曲が終わって、二人はやっと満足したのかフロアから戻ってくる。
息も上がっていないユリウスに対して、エレンは頬を上気させている。
それでも美しく、隙のない所作を保てるのは大師匠ゾフィーの教育の賜物だろう。
エレンは外見だけの印象だと、令嬢としてしっかり教育を受けたことがわかる大人しそうな少女だ。
感じがいいとは思っても、強い印象は残らない。
しかし、時々漏れ出る本来の無邪気さが割と殿方の心を掴むらしい。
今もアンネを見つけて浮かんだふんにゃりとした笑顔を直視してしまった男たちは目が離せないようだ。
本人はそういうことに鈍感なので、さりげなくユリウスが視線を遮っている。
「アンネ」
「楽しかったみたいね」
「うん、とっても! すごいねぇ、帝国って」
エスコートされてアンネの元まで来たエレンは、見た目は完璧な淑女だが、口を開けばいつもの調子だ。
ユリウスは近くを通った給仕から果実水を受け取ってエレンに渡している。妻への気遣いに余念がない。
エレンは礼を言い、大師匠曰く「だらしない」笑顔を浮かべて、また周りの男の視線を集めている。
しかし、ユリウスが礼のお返しにエレンの髪に口づけを落とし、いつも通り腰を引き寄せピッタリくっつくので、視線はすぐ逸れた。
社交場でしてもいいギリギリの親密さだ。
困ったことにこの男、エレンとの触れ合いに関して羞恥心とか自重が欠如しているらしく、隙さえあればすぐベタベタする。
エレンは羞恥心が存在しているのだが、最近は夫の過剰なスキンシップに慣れ、大型犬がじゃれているくらいにしか思っていない。
二人はそれでよくとも目の前で見せられるアンネは胸やけがしそうだ。
「陛下、すごいね。これいちごの果実水だよ。どこから見つけてきたの?」
「夏に採れるやつをどっからか見つけてきたのよ。
ちょっと早めに摘んで持ってきてるから、そのままだと酸っぱいわよ」
「いちご、運ぶの難しいよねぇ」
完熟のいちごは甘いが傷みやすいので、長距離の運搬はとても難しい。
今回はアンネの好物だということで用意された。
しかし、完熟は無理とのことで、まだ未熟のものを運ぶうちに熟させるという方法を取られたそうだ。
色づきは完熟と遜色なかったが、やはり甘味が足りず、すべて加工して提供している。
今回、アレハンドロはそのいちごの苗も入手して城の農園に植えさせた。それだけではなく、普通のいちごの苗もだ。
これから先、ずっとアンネが楽しめるようにと奴は言っていた。
そのことに、つい眉がピクリと反応してしまう。
そして、エレンと話している間、妻の髪を撫でたり空いた手をにぎにぎしているユリウスにも眉がピクピクした。
いい加減エレンも夫を止めろ。
「……あそこのテーブルにいちごのお菓子がいっぱいあるわよ。いちご以外にも珍しいお菓子が揃ってるから、食べてったら?」
「本当? それは食べないと!」
アンネは注意するより追っ払う方を選択した。
二人を含め、招待した全員はしばらく帝国に滞在し、観光をして帰る予定だ。
わざわざ人目が多い舞踏会で話す必要はないし、この新婚お花畑夫婦に注意するなんて面倒くさい。
エレンはあっさりアンネの言葉に釣られ、妻が喜ぶならなんでもいいユリウスを連れて教えたテーブルへ向かっていった。
二人の背中を見送り、ひとりになったアンネは自身に歩み寄ってくる人物に気づいた。
身内と言っていいかわからないが、これから親類になる予定の第一皇子だ。
感情を押し殺すような無表情に、にんまりと笑いそうになって表情筋を引き締める。
アンネを帝国に連れてきた第九皇子グレゴリオによく似た彼は皇后の子供で、一応継承順位第一位だ。
だが、とうの昔に立太子したアインホルンの王太子より年上なのに、彼は後継者として指名すらされていない。
彼だけでなく、アレハンドロは誰も後継者に指名していないし、それを匂わせるような発言もしない。
そんな風では国が乱れそうなものだが、皇帝のカリスマ性と統率の高さ故か表面上は平穏だ。
アレハンドロは自分から帝位を奪うくらい気骨のある者を求めているのだ。
それくらいでなければ大陸最大版図を誇る帝国を背負って立つことはできない。
アンネに言わせて貰えば、こんな大きな国をひとりで抱えるなど、どだい無理な話だ。
なんとかしてしまっているアレハンドロや歴代皇帝がおかしいのだ。
今の帝室には十六人も子供がいる。
全員アレハンドロの血を引くはずだが、皇子たちは父を越える可能性すら見せられず、皇女たちはどうせ政略結婚の駒と悲観的だ。
後継者がいないというのに、呑気に貴族も国民も繁栄を享受している。
アンネは、これだ、と思った。
この緩やかに斜陽している国に波紋を起こすひとつの石になってやりたい。
それがアンネを更なる新しい世界へ導くだろうという確信があった。
アンネは実家に戻ってから、ずっと思っていた。
もっと広い世界があるのではないか。
アンネの知らない、新しい世界がまだまだたくさんあるのではないか、と。
あの時のアンネの未来はカールと結婚することにほぼ決まっていた。
それが不満だったのではない。カールのことは好きではなかったが、嫌いでもなかった。
でも、アンネの可能性というのはそれっぽっちで終わってしまうのか、と思うと迷いが生じた。
自由に生きろと言われたのに、そんな小さくまとまってしまっていいのか。
帝国に行ったのはそんな折であった。
国を乱してやろうと思い立って、アンネがまずアレハンドロに近づいたのは、単純に誰よりも影響力があるからだ。
皇帝を誑かすなんてへたをしたら処刑だが、それくらいのリスクを冒さねば帝国なんて大きな国に波紋など起こせない。
グレゴリオは最初から当てにしてなかった。
寝取りフェチと言われて奔放な印象が強い彼だが、割と計算高い男だとアンネは思っている。
アインホルンから連れ出したのが、カタリーナとアンネだったからだ。
婚約者が正式にはいないアンネと、婚約者が王族ではないカタリーナ。
二人は一目惚れしたと言って奪ってもそこまで問題が大きくならない高位の令嬢だった。
そして、双方慎ましく男を立てる女ではなく、野心があって積極的に自分から動くタイプだ。
グレゴリオはそういう女を婚約者に据えて、自分は何もしなくとも帝位を持って来させようとしていたのだ。
策士でも気取っているのだろうか。
アンネは自分の力で成し遂げないと満足できないから、グレゴリオのやり方は性に合わない。
その結果、悪女だの傾国だの言われてもまったく構わないし、それもまた一興というやつだ。
しかし、当たって砕ける捨て身の覚悟でアレハンドロを誘惑して、あっさり側室に収まってしまった。
呆然とした。
こんなはずではなかった。
アンネはもっと、皇子や妃たちに突っかかられて周囲を混沌の渦に叩き落としたかったのだ。
なのに、現実は着々と囲いこまれて何もできない。
アレハンドロは最近、特に何も頼んでいないのに離宮を三つ潰して新しくアンネのための離宮を建てると言い出した。
彼女も散々贅沢をしてきたが、皇帝の贅沢は規模が違う。
ここらへんは比較的新しいから特に貴重な建物ではないとか、解体した離宮の建材は新しい離宮の方に使い回すとか、どうでもいい。
なんだか負けた気分で悔しくなった。
経験も度量も劣っているのはわかっているが、手のひらの上で転がすような扱いは我慢ならない。
なんとかアレハンドロに一泡吹かせたいし、帝国も引っ掻き回したい。
しかし、肝心の皇子皇女や、妃たちには遠巻きにされるし、まるで思った通りにいかない。
あのグレゴリオすら父親を恐れて近づかないのだ。
なのに、舞踏会のこの場で、第一皇子が動いてくれた。
内心舌舐めずりをしながら声を掛けられるのを待つ。
しかし、第一皇子は突然顔色を変え、視線を彷徨わせると、知り合いを見つけた風を装って、方向を変えた。
「……陛下、お仕事は終わりましたの?」
「おっと、バレてしまったか」
あれだけ第一皇子がわかりやすく逃げ出したら気づくに決まっている。
アンネは背後にいたアレハンドロを見て、鼻を鳴らしそうになって我慢した。
どいつもこいつもアレハンドロの顔を見れば逃げ出す腰抜けばかりだ。
おかげでアンネはまったくもってつまらない。
このままここで腐っているより、全部投げ出してズュートに帰ってしまおうかとすら思う。
後始末が大変なことになるだろうから、実行するつもりはない。
だが、多分エレンと母と叔父は喜ぶし、ゾフィーは説教はしても最終的に許してくれる。
アンネは身分を失うだろうが、ただのアンネに戻るだけだ。
市井の人に交じり、本当に自分の力で生きていくのも楽しそうだ。
「そなた、余から逃げようとしているな?」
顔を覗きこまれ、苦笑混じりの声に夢想から引き戻されてつい片眉が上がってしまう。
思ったことが顔に出ないように大師匠と練習を繰り返したというのに、まだ未熟なようだ。
「そんなことはございませんわ」
「余には普通に話せ。構わん」
「嫌です」
「頑なだなぁ」
腰を抱かれ、先程の新婚夫婦の如くひっつかれて眉間に皺が寄る。
二人きりならとっくに貴婦人のための凶器ことハイヒールで足を踏んで脱出しているが、衆目を集めている今はそれもできない。
「余はこれほどそなたを恋しく思っているというのに。なかなか伝わらんものだ」
「はぁ? 恋?」
さらりと告げられた言葉に、男の正気を疑う。
皇帝として絶対的な権勢を誇る男がこんな自分の子供と同じくらいの娘に恋などとても信じられない。
アンネにとって恋の象徴は祖父母だ。
周囲に多大な迷惑をかけ、そのくせなんの生産性もなく、人を愚かにするもの。
もしくは愚か者だけがかかる罠。
最近では、従姉夫婦のおかげで認識が変わった。
自儘な人間のする恋が迷惑なだけで、恋自体は悪いものではない。
恋については依然として理解できないが、アンネには必要ないものだということはわかっている。
アンネはそっと目の前のアレハンドロと遠目に見えるユリウスを見比べる。
恋する男と言えばユリウスである。彼と見比べれば恋しているかどうかがわかると思ったのだ。
ユリウスは今、菓子を幸せそうに食べるエレンを蕩けるような笑みで見つめている。とてもわかりやすい。
一方アレハンドロは目元を和ませ、穏やかに笑っている。
これは恋なのだろうか。
ムキになって見極めようとするアンネにアレハンドロは何がおかしいのかくつくつと笑い声を立てた。
「なんですか」
「いや、穴が空きそうなほど見つめられて、熱烈だと思っただけだ。
これは脈があると思っていいのか?」
「ありませんけど」
「つれないな」
そう言いながらもアレハンドロに傷ついた様子はない。
飄々としていて、やっぱり恋など建前だろうと確信する。
「だが、一曲踊ってはくれるだろう?」
「ええ。今のわたくしはあなたのものですから」
「アンネ」
抱き寄せられていた腰が開放され、代わりに手を取られる。
その手は口元まで引き上げられ、挨拶ではあり得ないねっとりした口づけを落とされる。
何をしているんだと睨んで、正面からかち合った瞳は、アンネの知らない光を宿していた。
「いずれ、そなたの帰る場所になってみせるぞ。覚悟するがよい」
絶対そんなことにはならない、という言葉は出てこなかった。
アンネの返事を待たず、アレハンドロがフロアに向かって歩き出したからだ。
アンネの家族は、帰る場所は、ズュートのリンデンバウム家だ。
それはずっと変わらない。そのはずだ。
アンネに合わせてゆったりと歩く男を盗み見て、それから遠目に見えるエレンに視線を送る。
エレンはまた、「だらしない」笑顔を浮かべていた。
いつかアンネもあんな風に笑う日が来るのだろうか。
わからない。
わからないが、相手がこの男というのはなんとなく悔しいので、全力で抵抗してやろうと固く誓った。
いちごは追熟しないので、赤くはなっても甘くならないそうです。