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初恋  作者: 明石 みなも
本編
12/21

不安な新婚生活

 ベッドに沈むユリウスの顔色は、悪かった。

 浮いた冷や汗をハンカチで拭う。


「エレン……?」

「うん、ここにいるよ」


 うっすら目が開きエレンの姿を認めると、目元を和ませ、また目を瞑った。

 荒かった呼吸が規則正しくなっていく。

 強く握られた手が少し緩んでユリウスが眠ったことがわかった。

 エレンは知らずに詰めていた息を吐き出した。


 不安定なユリウスを連れての旅は日程通り三日でズュートにたどり着けた。

 しかし道中は平穏とは言い難かった。

 故に、ユリウスはエレンに支えられて邸に到着し、ベッドに直行した。

 本人の希望もあって、無理をして来たので着いたのが遅く、今は深夜に近い。


「やぁやぁ、お嬢さん。病人らしいね」

「先生、遅くにごめんね」

「何構わんさ。ここのところリンデンバウムの面々はみな健康で私の腕が錆びそうだったからな」

「ユリウス、寝ちゃったんだけど……」

「ふむ、では軽く診ておこう。本人に問診ができんからお嬢さんがわかることを教えてくれ」


 祖母が呼んでくれていたアプフェル先生が早速ユリウスを起こさないよう気をつけて診察する。

 邪魔になるから退こうとすると、先生に止められた。


「すぐ終わるからそこにいるといい。訳ありだろう?」

「先生わかるの?」

「わからん。ただ、こんな夜更けに呼ばれたら察するだろう」

「それもそうか……」


 身も蓋もないことを言われて脱力する。

 こんな時間に呼ばれてなんの訳もなかったらやってられないだろう。


「どこへ出しても恥ずかしくない痩せすぎくらいで気になることは特にないな」

「本当に? すごく細いよ」

「細いが別に骨と皮にはなっとらんからな。ちゃんと筋肉もついている。しばらく安静にして食べて動けば自然と太る」

「本当にぃ?」


 先生はたまに大雑把だ。ユリウスはお腹がワイン樽の先生とは違うのだ。そううまくいくだろうか。


「さて、それよりお嬢さんは私に報告することがあるんじゃないか?」

「えーっと、結婚しました?」

「そうかおめでとう。で?」

「あのぅ、ユリウスに訊いてはいないんだけど」

「お嬢さんが見たものを言ってくれればいい」


 エレンはなんと言ったらいいか頭を捻った。どうにも説明しづらい。支離滅裂にならないように最初から始める。


「まず違和感があったのは、アンネと会った時なんだけど……」

「ほぅ。あのお嬢さん、元気だったかい?」

「元気だったよ。

 そのアンネと会って、すごく緊張して、ぎこちなくなってたの」

「ふむ」

「それで、旅の間の宿で、女の人とすれ違うとビクつくの。わたしの侍女が近くにいると目が泳ぐし……」

「なるほど」

「昨夜泊まった宿で、通りすがりの女の人が転けてユリウスに向かって倒れたの。でもユリウス避けちゃったから女の人は顔面から床にぶつかって鼻血が出ちゃって……」

「そりゃあ、女が男を引っ掛ける時の常套手段だ」

「そうなの⁉︎」

「そうだ。意識がおぼつかないやつがそんな人のいる方向にうまく倒れるわけがない」


 気づかなかった。道理で従僕が助け起こすと同時に逃げ出すわけだ。

 エレンはユリウスの隣で腕さえ組んでいたので目に入らないはずがない。エレンがいるとわかった上で仕掛けてくるとはたいした度胸だ。

 いや、本題はそこではない。エレンが話したいのはそのあとなのだ。


「そのあとなんだけど、ユリウス、なんか呼吸が荒い……というか、苦しそうにしだして」

「ほう?」

「部屋に戻ったら倒れちゃって、お医者さん呼ぼうとしたら、苦しいのにユリウスが、すぐ治るから大丈夫って……」

「慣れているな。前からあったのだろう」

「先生わかるの?」

「多分過呼吸だ。必要以上に呼吸をしてしまう発作なんだが……。原因は精神的苦痛だな。

 お嬢さん、その後どうなった」

「気休めだけどわたしが背中撫でてたら三十分くらいで治ったよ。でも、死んじゃうかと思った……」


 あの時のことは今思い出しても寒気が走る。その後、眠ったユリウスの呼吸を何度も確認してしまった。

 先生は何故か自分の髭をもふもふしている。顎を撫でたいらしい。


「ふむ。発作は強い苦しみや悲しみ、興奮なんかで起こるそうだ。そこの坊ちゃんにそんな感情を想起させた原因は十中八九女だろう。これからの生活ではお嬢さん以外の女を遠ざけるべきだな」

「わたし、すごい嫉妬深い女って思われそう……」

「邸の連中は微笑ましく思うんじゃないか」


 それはそれで恥ずかしい。先生はエレンの内心を読んだのか、一瞬ニヤリと笑う。髭で隠れて見えないが、長い付き合いのエレンにはわかるのだ。


「お嬢さん、使い古された言葉だが、心の傷は目に見えない。簡単に傷つくが、一生治らないこともある。根気強く付き合ってやることだ」

「うん……」


 あんな、恐ろしい発作を起こす原因の傷がユリウスには刻まれている。

 それを癒すことがエレンにできるだろうか。


「それじゃあまた明日、そこの坊ちゃんが起きてる時に来よう。そうじゃなくとも異変があったら呼びなさい。

 お休み。お嬢さんもちゃんと寝るんだぞ」

「はぁい。先生ありがとう」


 ゆさゆさ腹を揺らしながら先生は出て行った。今日は泊まってくれるらしい。

 発作のことを思い出すと動揺してしまうので、先生がいてくれるなら安心できる。


 診察後、寝支度を整えてユリウスの眠るベッドに潜り込む。体調の悪い人との同衾はよくないが、ユリウスの場合は起きた時にエレンがいないと、また発作になってしまうかもしれない。

 大丈夫だとわかっていても呼吸を確認してしまう。

 ちゃんと呼吸はしているし、荒くもなっていない。そのことにホッとする。

 つい、アンネがいてくれたらな、と思う。




 アンネにはユリウスとのことを打ち明けてある。「浮気かも」と言うエレンに「それって本当に浮気なの?」と切り返してきて呆気に取られたものだ。


「だってずっと会ってないんでしょ?」

「会ってないけど好きだし……」

「告白はしたの?」

「し、したよ。会えなくなる前に」

「今は?」

「今は、手紙も出せないし……」

「心で想ってるだけなら浮気じゃないんじゃない?」

「いやでも毎年プレゼントが届くし……」

「渡してるの第二王子殿下よね? 彼から貰った証拠があるの?」

「えっと……」


 だんだん浮気なるものがわからなくなってきた。果たして浮気はどこから浮気になるのか。

 その後、熱い議論を交わし、結局個人の尺度によるという結論が出た。とてもすっきりして、何を話していたか忘れた。


 そのまま浮気の件は有耶無耶になってしまった。

 今思うに、あれはアンネのわかりにくい優しさだったのだろう。

 遠回しに、自分は気にしないと伝えてくれたのだ。


 その優しいアンネは今王都のカスターニエ公爵家にいる。

 アンネが参加する二度目の祭りが終わってすぐ、カスターニエ家から手紙が届いたのだ。

 アンネを引き取りたいというものだった。


 アンネはその年、春から夏になるまで王都にいた。

 前の年よりさらに磨き上げられたアンネは大人気で、招待状がたくさん届いたそうだ。

 ブランシュと仲良くしていたため、第三王子にもお声掛けいただいたとか。

 とにかくアンネはその年目立っていた。


 カスターニエ家はそれを知って惜しくなったのだ。

 追い出しておいて、自分たちに都合がよくなると戻れと言う。自分勝手にも程がある。


 当然我が家の皆は怒って断固拒否するつもりだった。


「あたし、贅沢がしたいわ」


 アンネがこんなことを言い出すまでは。


「リンデンバウムで贅沢するのは罪悪感が湧くのよね。ここってそこまでお金持ちじゃないでしょ?

 カスターニエなら減ったって言っても唸るほどあるもの」


 アンネのいう通り、リンデンバウムは「とりあえず黒字ならいいや」くらいの運営方針なので、唸るほどはない。

 公爵家に比べたら、あまり贅沢はさせてあげられないのは本当だ。

 でも、そんな理由でアンネを虐待していた家には戻せる訳がない。


 我が家の面子は全員説得に回った。

 でも、アンネの意思は固かった。

 「もし行くなら私も行く! カスターニエ家の侍女になる!」と言っていた伯母も二人っきりで話した末に納得させて、結局アンネはカスターニエ家に戻ることになってしまった。


 贅沢がしたいなんて言っていたのは建前だと皆気づいていた。アンネはリンデンバウムを守るため、カスターニエ家に行くのだ。

 ミステル侯爵家やパウルの力を借りても悔しいことにリンデンバウムはアンネを守りきれない。

 エレンは普段はまるで気にしない権力差をまざまざと感じた。


 そして、寂しかった。活発なアンネがいなくなると邸が静かになるだろうし、何より妹のような存在がいなくなってしまう。

 寂しがるエレンに気づいたのか、アンネは片眉を上げて「家が別になったからって縁が切れることはないでしょ!」と喝を入れられた。

 何故だろう。その言葉も嬉しいが、アンネに祖母の癖が移っているのがとても愛おしい。


「贅沢したいっていうのは本音よ。あたしをいじめた分、根こそぎぶんどってやるんだから」


 そう言い残し、アンネはリンデンバウムを出て行った。

 禁止されてはいないので、手紙のやり取りをしているが、何故かとても生き生きしている。


 現在のカスターニエ家はアンネの父親が公爵になっている。

 今回の件は前公爵夫妻に勝手に追い出された愛娘を自分が爵位を継いだから呼び戻した、みたいな美談にしたいらしい。

 カスターニエ家とアンネの関係は知られていないので、信じる人もいそうだ。

 あの家は前公爵夫人至上主義かと思っていたが、そうでもないらしい。

 当然、アンネが戻るにあたって前公爵夫妻は隠居させられ、領地に送られた。


 父親の現公爵は何としてでも娘を王子の婚約者に据えたいようで、アンネはそれを口実にうちではできなかった贅沢を堪能しているそうだ。

 邸には元愛人の義母がいる。しかし、何故かアンネを恐れていて、近づかない。必然的に異母弟とも関わりがなく、快適だそうだ。


 もはやアンネは昔の何も知らない子供ではない。現公爵の思い通りにならないし、エレンもアンネの内心を読み取ることはできない。

 ただ、辛かったら素直にリンデンバウムに帰って来てほしいと伝えてある。


 今のところそういう気はないようで、むしろ夜会にデビューして楽しそうだ。第三王子の婚約者候補と言われているようだが、まだ正式には決まっていない。


 アンネが充実しているのは嬉しいが、エレンは少し寂しい。

 もしこんなエレンを見たら多分「腑抜けてんじゃないわよ!」と、背中をどやしつけて弱気を叩き出すだろう。


 そう想像すると元気が出てきた。

 何を不安になることがあるだろう。ユリウスはもうエレンの隣にいて、何より二人はもう夫婦なのだ。

 ユリウスを癒そうなんて傲慢だ。エレンはただ、ユリウスが苦しんでいる時に寄り添えばいい。


 これからはずっと一緒だと思えば、今まで降り積もった不安は溶けて消えていった。




 次の日からユリウスの療養生活が始まったのだが、ベッドにいたのは初日だけだった。

 二日目からは普通に起き、外を見ていたので、先生に確認してから邸の庭を軽く散歩した。


 今、リンデンバウムの庭は梔子が芳しい匂いを放っている。他にもジャスミンや、ラベンダーが植えられているところがあるので、毎日少しずつユリウスを案内することにした。


 食事量は日に日に増えてびっくりするほど順調だ。

 眠れているので隈はとっくに消え、頬も心なしかふっくらして来た。

 まさか無理をしているのでは、と本人に尋ねると「エレンがいるから……」と言われてうっかり照れてしまった。照れてる場合じゃない。


「顔は似とらんが、ちゃんとイエティの息子だな……」

「父をご存知でしたか」

「若い頃軍医をしていたことがあってな」

「へぇ〜。知らなかった」


 毎日診察に来ている先生にユリウスはかなり打ち解けた。身の回りの世話をしてくれる従僕ともうまく付き合えているので、男性とは問題ない。

 女性たちとはエレンが申し渡してあるので皆近づかないようにしてくれている。時々遠目に見えても緊張したりはしておらず、発作もあれ以来起こっていない。


「奴は両腕骨折しているのに日課だからと腕立て千回するとびきりの阿呆だった」

「ち、父がすみません……」

「そのくせ誰よりも早く治るから真似する奴があとを絶たなかった」

「本当にすみません……」


 その後、先生から激しすぎなければどんな運動をしてもよいとお許しが出た。

 ユリウスはとても喜んだ。早速鍛練がしたいらしい。


「本当に大丈夫?」

「うん、父じゃないけど腕立て千回はぼくも日課だったから」

「本当に⁇」


 今より細かった頃も毎日腕立てしてたんだろうか。かなり心配な話だ。


 いきなり腕立て千回はエレンが心配なので、エレンはまず乗馬に誘った。

 ずっと色々考えていたのだが、ユリウスと外出するなら馬で行くのがベストだと思ったのだ。

 馬上の人に、歩行者は基本近づかない。自然と女性と距離が取れる。


 何よりエレンが好きだ。

 エレンはじゃじゃ馬の母を持つので乗馬は得意だ。父は乗れなかったらしいが、乗馬デートをしたい母がつきっきりで教えたそうだ。

 エレンに乗馬を教えたのは父である。


 ユリウスは騎士の家系で当然馬に乗れるが、まだ体調が心配なので始めは馬場を走らせるだけにした。

 数日後、大丈夫そうだと邸の外へ連れ出した。


 二人で初めて行ったのは近所の牧場だ。リンデンバウムにミルクを毎日届けてくれている。

 なだらかな緑の丘にいるのは牛や羊ばかりで、ユリウスも安心だろうと考えたのだ。

 聞こえてくるのは動物の鳴き声ばかりだ。


「のどかだね」

「田舎だもの」

「ぼくは好きだよ。エレンが育った場所だ」

「これからずっとユリウスもここで暮らしていくのよ」

「最高だ」


 皮肉もなんでもなく、心から喜んでくれていて、エレンも自然と笑顔が浮かぶ。

 将来は二人で守っていく土地だ。好きになって貰えたら嬉しい。


 その日から毎日二人で馬を走らせズュートの色んな場所に案内した。

 思惑通り馬に乗っていると人は寄って来ない。エレンを見かけると手を振ってくれるが、それだけで声もかけられない。

 やたら視線が生暖かったことだけが不思議だった。


 二人は毎日一緒のベッドで寝ている。

 灯りを落としたあと、ユリウスに抱きしめられながら、「明日はどこへ行こうか」と、内緒話のように囁く。


「エレンとならどこへでも」


 こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。

 明日も明後日も、二人は約束なんてなくても一緒にいられるのだ。

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