22 『シャノという名の少女』
シャノは足を引きずりながら、暗闇へ向かって通路を歩いていた。
警報の音が鳴り響いており、辺りは怪しげな赤い光で照らされている。まるで、シャノのこの先の運命を暗示しているかのようだ。
思えばここまで、長いようで短い道のりだった。シャノの人生は、主に三つに分けることが出来る。
一つ目が、生まれてからヘルツォークに出会うまでの期間だ。
物心ついたころから孤児だったシャノは、似たような境遇の子供たちと共に路上で暮らしていた。
名前も与えられず、自分をこの残酷な世界に産み落とした両親の顔も知らない。そんなシャノのような子らに、社会は厳しかった。助けを乞うても誰も見向きもせず、ただ一日一日を生きるのに精一杯だった。
ある日、街に一人の男が来た。
スラムと化した貧民層が暮らす市街地に現れた男は、高そうなスーツに身を包み、何の苦労も知らないような綺麗な顔立ちをしていた。
シャノは彼を見て思った。彼には何の不自由もないのだろう。ただ、その動かない両足を除けば。
彼は何か、誰かを探して街に住み着く身寄りなき子供たちを見て回っていた。そして彼の歩みは、シャノの目の前で止まる。
「やあ。君、名前は?」
シャノは、名を知りたければ自分が先に名乗れと言った。自分に名前などなかった。しかし彼女が唯一持っていたもの、貧民街に生きる一人の少女としてのプライドを、ただ見せつけたかった。
すると、彼は怒るどころか笑顔で答えた。
「私の名前はフロイド・ヘルツォーク。科学者だよ。さあ、君の名前を教えてくれるかな?」
それが、二つ目の期間の始まりだった。
ヘルツォークはシャノに衣、食、住の全てと、シャノという名前を与えた。その代わりに、彼のもとで働くことが条件で。
だからと言って、シャノは最初から従順だったわけではない。何故自分が選ばれたのかも分からず、初めの頃は全くヘルツォークを信用していなかった。
とはいえ、彼が自分に手を上げることはない事と、彼に従っておけば自分の生活が安定する事は分かった。その為従順なふりをして、ずっと彼に探りを入れていた。
しかしそんな日々は、あまりにも退屈だった。街に居た頃は毎日を生き延びるという目標があったが、生き延びられない心配がなくなった日々には、何の面白さもなかった。
そして遂にある日、シャノは脱出を決行する。食料庫からある程度生き延びられる量の食料を盗み、研究所の外に出た。しかし脱出は直ぐにばれ、シャノはあっという間に捕まってしまう。
「どうして逃げたのか、分かるよ」
ヘルツォークはまたもや怒らなかった。それどころか、シャノに同情までしていた。彼に自分の気持ちなど分かるはずない。
「きっと私が悪かったんだね。君に、本当の事を話していなかった」
シャノは、自分が選ばれた理由が語られるのかと思った。しかし彼の口から出たのは、全く別の話題だった。
「この研究所では、脳についての研究を行っているんだ。人は歳をとったり、病気や事故のせいで記憶に問題が出てきたりしてしまう。私は、そんな人々を救いたいんだ」
シャノに与えられた仕事は、雑務が多かった。部屋や通路を掃除したり、廃棄物を運んだり、ヘルツォークは様々な仕事をさせた。しかし、その研究について聞いたのは、この時が初めてだった。
「君はまだ小さいから理解できないかもしれないと思って、教えていなかったんだ。本当に済まないことをしていたと思っている。でも私はただ、君に人を救う手伝いをしてほしいんだ」
シャノは納得していなかった。自分を見捨てた社会に貢献するなど願い下げだったのだ。しかし、シャノには仕事を断る権利は与えられなかった。
本当の事を知ったシャノには、新しい仕事も与えられた。その中には脳の研究に関わった被験者の相手をするというものもあり、シャノは久しぶりに社会との交流を持った。
「ありがとう」
ある日のことだ。シャノは被験者の一人から感謝の気持ちを述べられた。
彼女には衝撃だった。貧民街に居た頃は見向きもされず、それどころか罵倒を浴びせられたことも少なくはなかった。
それが綺麗な服を着た途端、感謝されるようになったのだ。嫌な社会だと思った。
それなのに、シャノは快感を覚えた。人の為に何かをして、感謝されるという事はこれ程までに気持ち良いとは。
結局、ヘルツォークが自分を選んだ理由は分からなかった。しかし、そんなことはどうでも良くなってきた。
自分は誰かの役に立っているという事実が、やがてシャノの原動力、生きる意味になっていったのだ。
自分を助けてくれたヘルツォークにも感謝するようになり、退屈な日常も目標の為に生きていく事が出来るようになった。
「シャノ、実は今度、新しい研究を始めることになったんだ。君にも参加して欲しいと思ってね」
シャノは無論、首を縦に振った。
ヘルツォークに曰く、新しい研究は脳の治療だった。何らかの病気で脳に障害が発生し、妄言や幻覚などの症状がある患者たちを癒す。三年前に始まったこの研究に、シャノは初めから参加することになった。
シャノの仕事は彼らの面倒を見つつ、経過を観察すること。
被験者たちは皆、様子がおかしかった。誰も居ないのに話していたり、シャノを誰かと勘違いしたりと、まともに話をする事すら出来い。彼らの中には、シャノが聞いたことが無い単語を口にするものも少なくはなかった。
シャノの仕事は、処置が行われる部屋に運ぶところまでだった。残念ながら、処置後の被験者と接触することは許されていなかった。
しかし遠目に見かけたことは何度かあり、かつて気が狂っているとしか思えなかった被験者たちは、元気そうにヘルツォークと話し、彼に感謝していた。まるでその姿は、人が変わったかのようだった。
とはいえ、ヘルツォークの研究がまたしても人を救っていることは分かった。シャノはその為、喜んで研究に参加していた。
しかしそんな日常も終わりを迎える。つい四日前、それが、シャノの三つ目の期間だ。
この期間の事は説明不要であろう。
自分の行いの真実を知った時は、絶望した。しかしルークとの出会いはそれを超えるほど衝撃的なものとなった。たった二日間だが、この日々はあまりにも刺激的で、これほど誰かの役に立てたことを嬉しく感じたことはなかった。
だからこそ、ルークの脱出は必ず成功させなければならない。それこそが自分の生まれてきた意味であり、この自分を裏切り続けた世界に一矢を報いるチャンスなのだと、シャノは確信していた。
シャノは足を引きずりながら歩く。出来るだけルークから遠くに、警備をひきつけなければ。それがもう不要になった自分に出来る唯一の事なのだ。
その時、前方に赤く光る眼、警備ドロイドのカメラが見えた。反対を向き、逃げようとする。しかし後方からも、脱出犯を探す警備ドロイドが向かってきていた。
もう、潮時か。シャノは力なく崩れ落ち、壁にもたれかかった。二体のドロイド達はそんな彼女を囲む。
「お前、被験体をどこにやった!」
良かった。まだルークは見つかっていない。となれば、シャノの時間稼ぎも少しは役に立ったという訳だ。
「知りません」
「嘘をつくな! お前が逃がしたって事は分かってる。ただのケアワーカーが思い上がるな!」
ただのケアワーカーか。
警備員やヘルツォーク達からすれば、シャノなどただの召使い、雑務を押し付ける対象でしかないのであろう。
そんなただの少女が、彼らの研究に穴を開けるようなことをしてのけた。シャノは、自分の行いに誇りを持った。
「これが最後だ、ガキ。あいつをどこにやったか言え!」
ドロイドはシャノにブラスター銃を向けた。砲口の奥で、赤く光るエネルギーがチャージされているのが分かる。
もうここまでか。ただの孤児にしてはよくやった。最後に誇れるようなことも出来た。シャノはただ、ルークが無事に家に戻り、ミアに謝ることが出来るよう願った。
そして、銃弾は発砲された。
「―――――」
しかし、痛みも感じず、シャノの意識が消えることはなかった。
「……?」
シャノはゆっくりと瞼を開ける。そこには、頭部を吹っ飛ばされ、ブラスターを持つ手をだらりとぶら下げる金属の塊があった。
「口を慎め、ただの警備係が」
シャノの前に現れた救世主は、予想外の人物だった。彼はその車椅子を押すと、シャノに手を差し伸べる。
「怖い思いをさせてしまったね」
ヘルツォークは、笑顔でそう言った。
*
ルークは走る。その手には鉄パイプを持ち、冷たい通路を素足で踏みつけながら。
シャノの行方は分からない。しかし彼女は足を負傷しているため、そう遠くまでは言っていないはずだ。分かれ道の多い通路を逃げるパターンは何通りもある。それでも、ルークはシャノを見つけなければならない。
警備ドロイドが目に入った。確実に見られた。
すかさずルークは曲がり角を曲がり、更に曲がる。ルークがシャノを見つけることが難しいのと同様、ドロイドがルークを追い続けることも難しい。複雑な構造であるプラムバーグの通路が吉と出た。
しかし、いつまでも逃げ続けることは出来ない。
角を曲がった瞬間、また他の警備ドロイドに遭遇する。しかも今回は、逃げられる程の距離もない。
向こうが反応するよりも早くルークは咄嗟に持っていた鉄パイプを振り上げた。ルークの天性の反射神経の良さが活かされる。鉄パイプはドロイドの頭部にある、赤く光るモニターを破壊した。
するとドロイドはコントロールを失い、ふらふらとその場で回る。
どうやら彼らは、頭部の画面を通して操作している人間に映像を送っているらしい。となれば、それを破壊してしまえば何も見えなくなるという事だ。
「ざまぁ見やがれ、この金属野郎!」
しかしそれは、完全にドロイドを破壊することではない。その為視覚を失ったドロイドは、むやみやたらに銃を乱射し始めた。
「あっぶね!」
ルークは素早く離れ、また角を曲がって銃弾を防ぐ。
こんなことを繰り返し、研究所内を走り回ってきた。しかしシャノは一向に見つからず、ドロイドもなかなか減らない。
いつまでもこんなことをしていられない。ドロイドの銃弾は防ぎようがなく、壁に付いた弾の跡を見ると当たれば動けなくなるのは確実だ。
ルークが捕まるか殺されるのは、時間の問題だろう。
目の前の遠くの方にまた、ドロイドを見つける。
ルークは角を曲がるが、曲がった先にもドロイドが居た。しかしそのドロイドはルークに背中を向けており、こちらには気づいていない。
とはいえ、他に逃げる道は見つからなかった。
その時、二体目のドロイドからルークまでの間にドアを見つける。しかも幸運なことに、ドアは少し開いていた。
すかさずルークはドアを開けて部屋に飛び込む。そしてドアに背中を付け、ドロイドの車輪の音と金属のきしむ音に耳を傾けた。
幸い、どちらのドロイドもルークが隠れていることには気づいていないようだ。しかし去った気配はなく、まだ周辺にいると考えられる。何とかここでやり過ごさないと。
しかし、何か匂う。文字通り、何かが腐ったような臭いがほんのりするのだ。
今押し入った部屋を見る。真っ暗で細部は見えないが、随分と大きな部屋のようだ。何の部屋だろうか。
ルークは立ち上がり、他に出入り口が無いか探し始めた。暗闇に目が慣れてくると、右手の壁に引き出しのようなものがたくさんあることに気が付いた。
壁のあちこちから取っ手が出ており、その下には番号が書かれている。
ルークは首をかしげる。
その時、真っ暗だった部屋に明かりがついた。突然暗闇から解放され、ルークは光に目を細める。
そして気づいた。部屋の奥に車椅子の男、ヘルツォークが居る。
「やあルーク、やっと来たね」
白髪の男は笑みを浮かべると、歓迎するように両腕を開いた。
彼の横には、ルークが逃げ回ってきた警備ドロイドの一体が立っている。そしてそのドロイドの腕に抱かれているのは、
「シャノ!」
ボロボロになったシャノは、ルークの呼びかけにゆっくりと瞼を開いた。そのミアにそっくりな瞳がルークを見る。
「ルーク……」
今にも消えてしまいそうな声で、シャノは囁く。そんな彼女を見て、ルークは腹の底から怒りがふつふつと込み上げてきた。
「お前……シャノに何した!」
「それは私の台詞だ!」
ヘルツォークが怒鳴り返して来て驚く。その怒りは紛れもなく本物だ。
彼はシャノに近づくと、その手の甲でシャノの頬を優しく撫でた。
「ああ、可哀そうに、こんな目に遭わさせられて。危うく私は君を失ってしまうところだった」
ルークはあたかも、シャノが自分のものであるかのように言うヘルツォークに怒る。
「ふ、ふざけんな! シャノはお前のものでも、誰のものでもねえ!」
「いいや、私のものだ! 身寄りのない彼女を助け、衣服や生きる目的に何もかもを与えた! シャノという名前ですら、私が名付けたのだ!」
ヘルツォークは、何の疑いもなさそうに言った。
気持ちが悪いほど、彼のシャノの事を愛しているようだ。その愛はもはや、狂気の領域に達している。
「たかが数日の付き合いで、君は彼女の事を知った気にでもなっているのか? 本当にバカバカしいね。私は君を憐れむよ。それはそうとルーク。こうしてまともに君と話すのはこれが初めてかも知れないね」
どこまでヘルツォークは傲慢なのだ。ルークは込み上げる怒りに拳を強く握りしめる。しかしここで感情的になっても、形勢が不利なのは変わらない。
ルークは怒りをこらえ、彼の話に乗る。
「何の用なんだ? お前が俺をここまで寄こしたのか?」
「ああ、そうさ。なかなか察しが良いね」
そう言うと、ヘルツォークはルークを指さした。先程まで怒鳴っていたはずが、今は子供のようにこの状況を楽しそうにしている。
なんて情緒不安定な奴なのだ。シャノはどうやら、危ない人間に愛されてしまったようである。
「ここは何なんだ……?」
「君の疑問に答えてあげよう。ここは遺体安置室だ。そして私が君をここに呼んだのは、見てもらった方が早いと思ったからだよ」
ヘルツォークはさも当たり前の事かのように淡々と言うと、腕に付いた装置を操作した。すると高い音がして、ルークの目の前の引き出しがゆっくりと開く。
ルークは、戦慄した。
引き出しの中にあった死体の全貌が目に入る。それが誰のものか、見間違えるはずがなかった。
「嘘、だろ……」
何故ならそこに横たわっていたのは、ルークだったからだ。