09.逃避行
警察から逃げのびた武雄と薫子は横浜港近くにあるバーの前にいた。
バーの扉には準備中の札が掛けられていたが、武雄が扉を押すとわずかなきしみ音と共に内側へとひらいた。
「すみません、まだ準備中なのですが……」
バーカウンターの中で開店の準備をしていた白髪頭のバーテンダーが武雄たちを見ている。
「あのぉ、渋沢さんはいらっしゃいますか?」
しばらくの沈黙の後、武雄の問い掛けにバーテンダーが応える。
「烏丸君ですか?」
「はい」
「私が渋沢辰男です。古い友人から烏丸君の事は聞いています。とりあえず地下室へ行きましょう」
バーテンダーはそう言いながら店の奥にある階段を地下へと降りて行く。武雄と薫子もその後に従った。
バーの地下室は酒類の保管庫として使用されている様だ。壁際にワインセラーや酒の瓶が詰まっていると思われる木箱が積まれていた。少々カビ臭い部屋であったが、片隅にはソファーと簡単なキッチンセットも設置されている。
「まあ座りなさい」
武雄と薫子が勧められるままにソファーに座ると、バーテンダーも二人の正面に座った。
暫しの沈黙のあいだ、武雄と渋沢は互いを値踏みする様に見つめ合っていた。最初に口を開いたのは武雄だった。
「はじめまして、烏丸です。彼女は薫子と申します。面倒な事に巻き込んでしまって申し訳ありません」
「いや、それは気にしないで下さい」
「伝説の渋沢さんにお会いできて光栄です」
渋沢は困った様な笑顔を浮かべた。
「伝説ですか……。若気の至りですよ」
このバーの経営者兼バーテンダーの渋沢は、四十年ほど前に学生運動の中心人物であった。
当時は学生運動のリーダーの中で最も信頼されていた存在であったのだが、闘争の首謀者として警察に逮捕され服役刑となった。刑期満了後も暫くは監視対象となっていたが、今では無思想の一般市民としての生活を営んでいる。
警察に追われた武雄が伝をたどって行きついたのが、この渋沢が営むバーであった。
薫子の様子を窺っていた渋沢が視線を武雄の方へ移して言う。
「薫子さんはどの様な方なのですか?」
「はい、我々の運動とは無関係なのですが、警察に踏み込まれた時にたまたま同席していまして……」
「これからの生活は楽ではありませんよ。薫子さんだけでも家に帰した方が良いのでは?」
それまで黙っていた薫子が、渋沢の目をまっすぐに見ながらキッパリと言い放った。
「いいえ、私は家に帰る気は有りません! 生涯、武雄さんと共に生きるつもりです」
渋沢の顔に笑みが浮かんだ。
「これは強い意志をお持ちのようですね。烏丸君もそれで良いのですか?」
武雄は小さくうなずいた。それが正しい選択なのか、それとも間違っているのか、武雄の中ではまだ結論は出ていない。しかし、薫子の決意に押されて同行を許している状態なのだ。
「わかりました。その様に手配しましょう。出航の準備が出来るまでの宿を用意してありますので、そちらでくつろいでいてください。詳細が決まり次第連絡しますが、宿からは出ないようにして下さい。警察に見つかると面倒な事になりますからね」
渋沢の用意した宿とは、繁華街の裏道にある小さなホテルだった。いわゆる連れ込みと言われているホテルだ。受付は渋沢が済ませてから部屋の鍵を武雄に渡した。もちろん薫子はこの様な場所に来たのは初めてで、妙に艶めかしい装飾に目を奪われていた。
「薫子、驚いたかい? でも、これからはもっと驚くような生活が待っているんだよ。大丈夫か?」
「はい、武雄さんと一緒ならばどんな生活だって大丈夫です」
薫子は目をキラキラと輝かせながら応えた。しかし、武雄の心の中には薫子の平和で幸せな日々を奪ってしまったと言う自責の念が膨らんでいた。
宿に入って二日後、渋沢が二人の部屋を訪れた。手配が調った事を知らせに来たのだ。
「明後日の早朝に出る船に乗れるよう手配をしました。豪華客船という訳には行きませんが、貨物船としてはかなり上等な船を用意させていただきました」
「ありがとうございます。それで、行き先はどこになるのでしょうか?」
「南方の島国になります。先の世界大戦の頃に我が国の軍が進駐していたところですが、島民は好意的なので暮らしやすいところだと思います。明日の深夜に迎えに来ますので、それまでに準備を整えておいて下さい」
「わかりました。いろいろとありがとうございます」
「いやいや、向こうに着くまで安心は禁物です。無事に着いてしまえば後はどうにかなるとは思いますが、それまでは注意して下さい。それでは明日の深夜に……」
そう言って渋沢は帰って行った。
「武雄さん、鈴子と桜子にだけでも連絡をして良いかなぁ? きっと心配していると思うんだよね」
「さっき渋沢さんも言っていただろう。『向こうへ着くまでは用心するように』って。向こうへ着いたらなんとか連絡する方法を考えるから、それまでは我慢してくれ。良いね」
「はーい、我慢します。その代りキスして下さい」
おどけた調子で言う薫子であったが、声に含まれる微妙な震えが薫子の緊張と決心を窺わせる。
武雄は笑顔になって薫子を見つめた。
「我が儘なお嬢様だなぁ」
二人の唇が重なった。武雄はいざ知らず、薫子にとってはこれが初めての口づけであった。




