08.薫子の決心
それ以来、薫子は足繁く武雄の家に通うようになった。武雄の話は難しくて理解する事は出来なかったが、それでも武雄が薫子に対して真面目に話をしてくれる事が嬉しかった。
常に冗談を纏った遊び人の武雄が真剣に話をしている姿も新鮮だった。元々兄の様に慕っていた薫子の気持ちは、自然に恋心へと移行して行った。
その日も薫子は武雄の部屋に集まった友人達の中にいた。
煙草の煙が充満する武雄の部屋には、すでに見知った三人の男と一人の女が来ていた。それぞれに買い込んで来たビールや日本酒などの酒類とつまみが卓上を占拠している。
「大体、こんな世の中になったのは誰のせいだよ!」
酒の勢いを駆って一人の男がわめく。いつの時代でも、世の中に不満を持つ者はいるものだ。
「誰のせいかって? そんなのは決まっているじゃないか。世の中に無関心な大衆がいけないんだ! 大体この前の選挙の時にだって国民の半数も投票に行かなかったじゃないか! そんな無関心な国民相手にまともな政治家が出て来るはずが無いだろう! そもそもこの国の国民は……」
男が持論を展開し始めたのを制して、女が発言する。
「何を言っているのさ! 全てを国民の責任だなんて、そこいらの腐った政治家と同じじゃない! 政府が国民をそんな風にしたこと自体が悪だって言っているのよ!」
女に睨まれた男は酒を煽って黙り込んでしまった。どうも最近の男はだらしがないようだ。
その後も議論というよりも酔っ払いの戯言としか思えないような会話が続いたが、ここに集まったメンバーは学生連合という反政府運動組織のリーダー格なのだ。その中でも一目置かれているのが烏丸武雄だった。
「俺が思うには先の大戦の終わらせ方がいけなかったんだと思う」
武雄が話し始めると、全員が武雄の言葉に耳を傾けた。
「敗戦国である我が国が戦勝国と対等って言うのが問題だ。そんな事だから政府は何も反省していない。相変わらず帝国主義をひた走っているじゃないか! 政府のやり方を正すには、条約締結の裏で動いた特務機関、それを引きいていた百地徹道の所業を明らかにする事。そして、今でも特務機関を牛耳っている百地家を弾劾するしかないと思っているんだ」
この部屋の中では薫子だけが異質な存在になっていた。薫子にとっては、今の世の中に不満など無い。全く不満が無いわけではないが、それは単なる日常生活上の不満でしか無かった。
薫子がこの不釣り合いな場所にいるのは、ここに武雄がいるからという以外に理由は無い。薫子は持論を展開する武雄の雄々しさに見惚れていた。
皆が武雄の話を支持していた。
「さすが烏丸さんだ。俺は一生烏丸さんについて行きますよ!」
一人の同志が大声でわめいた時だった、玄関ドアを乱暴にノックする音が響いた。
「烏丸武雄! 警察だ。ここを開けなさい!」
「警察? もう計画を嗅ぎつけたか! みんなバラバラに逃げるんだ! 捕まるなよ!」
武雄はそう言って薫子の手を取り裏口へと走った。
裏口にも警官の気配があったが、先に飛び出した同志と警官が格闘している隙に裏路地へと逃れる事が出来た。
武雄と薫子は手をつないだまま路地から路地へと走った。薫子にとって警察に追われる様な事になったのは初めてだったが、しっかりと握られた武雄の手が心強かった。
「はぁはぁ、薫子、大丈夫か?」
「はぁはぁはぁ、わ……私は大丈……夫です。でも……、こんなに走ったのは久しぶりです」
武雄と薫子はどうやら逃げ切る事が出来たようだが、同志の男女がどうなったかはわからなかった。特に武雄にとっては同志の安否が気になる状況ではあったのだが、薫子の無事な顔を見ると思わず笑顔が漏れた。薫子も武雄の無事に笑顔を隠す事は出来なかった。
「薫子、君は何も知らない。無関係なんだから大丈夫だよ。送ってあげられないけれど、一人で帰れるね」
薫子は武雄を見つめながら、つないだ手に力を込めた。
「いいえ、帰りません! 薫子の生涯は武雄おにいちゃん……、いえ、武雄さんと共にと決めました。一緒に連れて行って下さい」
「それはダメだ! 俺は警察に追われる身になってしまったわけだからな。もうこの国に安住の地は無いんだよ」
「ならば他国に渡りましょう。お供させて下さい」
「それでは薫子が不幸になる。そんな事は出来ない!」
「いいえ、私の幸せは武雄さんと共にあります。幼い頃から決めていました。いいえ、決まっていたのです」
武雄は薫子の瞳に宿った力強い光に気押されていた。
「…………、取りあえず安全な所へ身を隠そう。話しはそれからだ」
武雄と薫子は手を取り合ったまま、夜の闇へと溶け込んで行った。