05.男と女
紀隆と桜子らしきカップルは手を握り合ったまま、池に浮かぶハスや水面を泳ぐ鴨達を眺めながら、池の畔をゆっくりと歩いて行く。何やら楽しげに話をしている様だ。
鈴子と清一郎はその様子を窺いながらついて行く。こちらは気軽な話しも出来ないふたりだ。当然手をつなぐなどと言う行動をとれるはずは無かった。傍から見れば、こちらの方が怪しい存在であっただろう。
しかし、そんなふたりを見咎める者は、昼間の太陽から天空の主導権を引き継ごうとしている月くらいだった事は幸いであった。
前を歩くふたりの前にわかれ道がせまっていた。まっすぐ進めば駅へと続く道、左に曲がると池の中に浮かぶ小島へとつづく道だった。しだいに宵闇が迫りくる中、前方のふたりは迷わず小島への道を選んだ。
わかれ道に到達した清一郎は立ち止った。鈴子の判断を仰ぐべきと考えたのだろう。
「鈴子さん、駅へ向かうならばこの道をまっすぐなのですがどうしましょう?」
「やはり兄と桜子だと思います。気になりますからついて行きたいのですが……」
「わかりました。尾行する事にしましょう」
「尾行だなんて……」
「あっ、すみません」
「いいえ、良いんですよ。確かに尾行ですから」
宵闇迫るわかれ道で、鈴子と清一郎は互いの顔を見つめながら微笑みあった。
「では急ぎましょう。見失ってしまったら尾行になりませんからね」
「はい」
前を歩くカップルは相変わらず互いの手を握り合ったまま、両側を蓮池に挟まれた道を歩いてゆく。そして、欄干を朱色に染めた小さな橋を渡り小島へと渡って行った。
それを尾行する清一郎と鈴子は、こちらも相変わらず会話も無いまま小島へ渡る橋へと歩を進めた。
小島には弁財天を祀った御堂が有る。御堂の裏手から小島へと入ったカップルは御堂の正面に回り込み、並んで手を合わせている。どうやら御参りをしている様だ。
そこへ近付こうとする鈴子の袂を清一郎が軽く引っ張った。
「鈴子さん、こちらから様子を窺いましょう」
そう言って、御堂の正面を窺う事の出来る石碑の影へと鈴子を誘った。清一郎に手を引かれ、石碑の陰からカップルの様子を窺う鈴子であった。しかし、兄と桜子らしきカップルの動向に気を取られ、清一郎の手をシッカリと握っている自らの行動には気付いていなかった。
カップルは長い間、並んで手を合わせている。石碑の陰から様子を窺う清一郎の耳に、声をひそめた鈴子の声が聞こえた。
「何をお願いしているのでしょうか?」
「そうですね、ここの弁天様の御利益は学術とか芸術の向上の他、縁結びの御利益もあるそうです。ふたりの将来についてお願いしているのかも知れませんね」
「兄と桜子が将来についてですか?」
「お兄様と桜子さんはお付き合いをしているのでしょう?」
「いいえ、私は何も聞いていません。兄と桜子が付き合っているなんて……」
「えっ、そうなのですか? ならば、僕の勘違いでしょう。あっ、動き始めました」
鈴子が見付からないように石碑の陰に隠れながら様子を窺うと、街灯の光によってカップルの顔が照らし出された。それはまぎれも無く鈴子の兄、百地紀隆と九条桜子であった。
「あっ、やっぱり兄と桜子ですわ!」
「そうなのですか? でも、ふたりは付き合っているわけではないのですよね?」
「わかりません。私が知らないだけかも知れません」
紀隆と桜子は手を取り合って、鈴子と清一郎が隠れている石碑を通り過ぎ、手水舎の前へと歩いて行った。
鈴子が清一郎と共に兄と桜子の動向を窺っていると、ふたりは手水舎の前で辺りに人気の無い事を確かめると互いの唇を重ね合わせた。
その光景を石碑の陰で見ていた鈴子は、わけがわからずにその場にしゃがみ込んでしまった。
紀隆と桜子が小島を出て行くまで、鈴子と清一郎はそのままの姿勢でじっと声をひそめていた。そして紀隆と桜子の姿が見えなくなると、清一郎が鈴子の身体を抱きかかえるように立ち上がらせた。
「鈴子さん、大丈夫ですか?」
「は、はい。だ、大丈夫です。えっと、ビックリしてしまって……」
「そうですよね。僕も男女が接吻をするところなんて初めて見ました」
「私もです。その上、兄と桜子だったんですよ! なんで?」
そう言いながら声の方向を見上げた鈴子だったが、見上げたすぐ先に清一郎の顔があった。その上、鈴子の身体は清一郎の腕に抱きかかえられるように支えられているではないか。
あわてた鈴子は清一郎の胸を突き飛ばしてしまったが、清一郎の身体は突き飛ばされても動く事は無く、逆に鈴子の身体の方が後方へと倒れそうになった。
「あっ、大丈夫ですか?」
そう言いながら清一郎は鈴子を支える腕に更なる力を加えた。勢いあまって、鈴子をきつく抱きしめるような状態になってしまう。清一郎はその状況に初めて気付き、あわてて鈴子から身体を離した。
「す、すみません。そんなつもりでは無かったのですが……」
鈴子は頬を赤らめうつむいてしまった。清一郎も真っ赤になってうつむいたまま暫しの時が経過した。
「あのぉ、すみませんでした。えっと、御家までお送りします」
「は、はい」
清一郎は百地家の門前まで鈴子を送って行ったが、その間も鈴子の声を聞く事は無かった。
「また会っていただけますか?」
別れ際、清一郎が勇気を振り絞って言った言葉に対して、頬を赤らめたままの鈴子は小さく頷いて口を開いたが声にはならなかった。
清一郎の目には「はい」と言った様に見えたのだが、そのまま鈴子の身体は門の内へと消えて行ってしまった。