04.兄と桜子
裏門へと辿り着いた桜子は、もっていた巾着袋から携帯電話を取り出して何処かへ電話をかけ始めた。電話の相手は、鈴子の兄である百地紀隆だった。
「あっ、紀隆さん。今、鈴子と別れたところです」
「わかった、すぐに向かうよ」
「はい」
どうやら桜子と紀隆は既にデートの約束をしていたらしい。桜子は紀隆との待ち合わせ場所へと急いだ。
桜子が動物園の入り口前に近付くと、紀隆が小さく手をあげて微笑む。桜子は小走りで紀隆の前に急いだ。
「お待たせしました」
「いや、僕も今来たところだ。さあ行こうか」
紀隆はそう言って動物園の入場券を鈴子に渡した。
二人は手を繋いで檻の中の動物たちを見て回ったが、二人とも動物達に興味が有るわけでは無かった。ほとんどの恋人達がそうであると同様に、興味があるのはお互いの事であって、動物達は二人でいる為の口実でしか無いのだ。
しかし、今日の紀隆は少し違っていた。とは言っても、動物達に興味が湧いたわけではない。鈴子の兄として、奥平清一郎の事が気に掛っているのだ。
「桜子さん、鈴子はどんな様子でしたか?」
「同級生の私が言うのもなんですが、可愛かったですよ。頬を赤く染めて下ばかり見ているのですもの。あれじゃ奥平さんの顔も見られませんわ」
「ははは、鈴子は恥ずかしがり屋だからなぁ。奥平君とはどんな青年だった?」
「ふふ、お兄様としては一番気になるところですわね」
「い、いや、鈴子が選んだ男ならば、僕に文句は無いんだが……」
桜子は、慌てた紀隆に愛おしそうな微笑みを向けている。
「無理しなくてもよろしいのですよ。可愛い妹の彼氏ですもの。気にならない筈は無いですよ。そうですねぇ……。真面目そうで、優しそうで……、良い感じの人でしたよ」
「そうですか、真面目で優しいって言うのは良いですね」
「そうですわね。紀隆さんにちょっと似ている感じがしました。真面目で優しそうなところが……。鈴子は紀隆さんが大好きですものね。私が紀隆さんと付き合っているなんて知ったら、きっと絶交されちゃいますよ」
桜子は素敵な微笑みを紀隆に向けた。紀隆はその笑顔にどぎまぎしながら言う。
「そ、そんな事無いですよ。桜子さんは素敵な人ですから……。これからも鈴子の事、よろしくお願いします」
「はい」
カフェテラスを出た清一郎と鈴子は、まだ帝大の敷地内に居た。鈴子の希望で校内を案内していたのだ。
「清一郎さんは毎日ここで勉強しているのですね」
「ええ、まあ、そうです……」
「ここが三四郎池です」
「はあ、そうですか……」
「この大きな建物は何ですか?」
「ここは図書館です……」
女性との会話に慣れていない青年と、男性と話した事のない女学生の会話が弾むわけもなく、只々校内を歩き続けているだけだった。
「鈴子さん、疲れませんか?」
「はい、少し……」
「そこで軽食が食べられます。少し休んで行きましょうか?」
清一郎と鈴子は休憩をとる為、学内の軽食店へと入って行った。
「この店はサンドウィッチが美味しいんです。それで良いですか?」
「はい」
清一郎は鈴子を席に座らせてから注文カウンターへと向かい、トレイにサンドウィッチと飲み物を乗せて運んで来た。
「すみません、男の人に食べ物を運ばせるなんて……」
「気にしないで下さい。最近では特に珍しい光景では無いですから……」
「そうなのですか?」
「はい。特に烏丸君と一緒に居ると、男も女も関係ないですからね。食事の用意を男がしたり、女性も男と対等に議論を交わしたりしていますからね」
「はぁ、そうなのですか……。私の家では考えられませんわ。父が料理を運ぶとか、私やお婆様が男の人の会話に口を挟むなんて……」
「厳しい御家なんですね」
「ええ、先の世界大戦以来の新参華族でしたから、古くからの華族の方々に馬鹿にされないようにと、躾と教育にはとてもうるさいのです。もう華族なんて制度は無くなっているのに……。時代遅れですよね」
「時代遅れと言えばそうなのでしょうが、日本古来の伝統や格式を守る事も大切なのではないでしょうか?」
「はぁ……」
「だからと言って、僕が男尊女卑の考えを持っている訳ではありませんよ。ただ、最近の女性の中には、逆に女尊男卑とでも言うんでしょうか? 平等を通り越してしまった考えをもつ女性が増えてしまった様にも思えます」
「はぁ……」
何だかわけがわからなくなってきた鈴子だったが、サンドウィッチを一口かじって感嘆の声をあげた。
「お、おいしい! こんなにおいしいサンドウィッチを食べたのは初めてです!」
そう言って満面の笑顔で清一郎を見た。
「でしょう! ここのサンドイッチは絶品なんです」
どうやら今日の二人の会話では、サンドウィッチの話題が一番噛み合っている様だった。
「そろそろ夕刻ですね。お送りしましょう」
「えっ、あら大変。もうこんな時間になりますのね」
休憩を終え、二人は帰路に着く為に店を出た。
「ここからだと、裏門を抜けて行った方が近いと思います。そちらからで良いですか?」
「はい、お任せします」
清一郎の案内で、裏門を抜けて帰る事となった。
「裏門を抜けると、大きな池が有るんですよ。そこを抜けるとすぐに駅になります」
清一郎と鈴子が並んで池の縁を歩いていた時だった。前方を歩く二つの背を見つめながら鈴子が言う。
「あら? 前を歩いているのは……」
「お知り合いですか?」
「はい、たぶん……。兄と桜子の様に見えるのですが……」
「お兄様と、先ほどのお友達ですか?」
手を繋いで前を歩く二人は、鈴子の目には兄と桜子にしか見えない。しかし、何故兄と桜子が一緒に歩いているのかが解らない。まして、二人はシッカリと手を握り合っているではないか。
「もしかしたら人違いかも知れませんよ。帰る方向と同じですから、もう少しついて行ってみましょうか?」
清一郎の言葉に頷いて、しばらく二人の後をついて行く事にした鈴子であった。