20.出産
鈴子は毎日のように清一郎からの連絡を待つ日が続いていた。
清一郎の赴任先とは、六時間ほどの時差がある。清一郎の勤務が終わる夕方の時間は、こちらでは日付も変わろうかという頃になるのだ。その為、鈴子は遅くまで清一郎からの電話を待つ日々が続いたのだ。
プルルルルー、プルルルルー
深夜、鈴子の携帯電話が鳴った。ディスプレイには『清一郎さん』と表示されている。
「もしもし、お仕事お疲れ様」
「どう? 変わりない?」
「ええ、変わりありませんよ。すべて順調です」
「そうか、それならば良かった」
「清一郎さんの方はどうですか? 何か困ったこととかありませんか?」
「仕事は順調だよ。困ったことと言えば、鈴子に会えないことくらいかな?」
「あら、嬉しいことをおっしゃるのね」
「本心だよ。鈴子、愛しているよ」
「私も、愛しています」
などと、まるで恋人同士のような会話を繰り返す日々が続いていた。
そんな日々がひと月ほどすぎたある日、遅めに起きた鈴子がリビングに入ると、そこにうずくまる桜子がいた。
「桜子! 大丈夫?」
苦しそうに、うめくような声で桜子が応えた。
「う、うん、陣痛が……始まったみたい」
「大変! 今、ウメさんを呼ぶからね。ウメさーん、ウメさーん、桜子がぁ」
慌てた鈴子がウメの名前を呼ぶと、バタバタと足音を立てることも気にせず、ウメが走って来た。ウメは桜子の様子を見ると、後ろから付いてきた若い使用人に車を呼ぶように命じた。
この若い使用人は、桜子の懐妊を知った紀隆が身重の桜子を案じて雇い入れた娘だった。桜子は、いかにも『最近の若い娘』がウメと上手くやっていけるのか心配していたのだが、何故かウメはこの娘が気に入ったようだった。この半年ほどの期間で、すっかりウメの後継者的な存在となっていた。
「若奥様、大丈夫ですよ。赤ちゃんが生まれるのは、何回か陣痛が来てからですからね。すぐに車が来ますから、お医者さんに行きましょう」
車を呼ぶために電話をかけに行った若い使用人が戻ってくると、用意してあった桜子の出産用の荷物を持ってこさせた。車が到着するのを待って、病院へと向かった。オロオロしながらではあったが、鈴子もウメと一緒に桜子に付き添った。
助産師から「出産まではもうしばらく時間がかかるだろう」と言われ、病室に移された。その間も、桜子は鈴子の手をしっかりと握っていた。
「鈴子、お願い。出産に立ち会ってくれないかしら。やっぱり不安で……」
「もちろん、私で良ければ立ち会うわ」
「ありがとう。鈴子がいてくれれば心強いわ。ウメさんは?」
「お父様やお兄様に連絡を入れたり、九条家に電話をかけたりで、何だか忙しそう」
「そう、ウメさんは頼りになるわね」
「うふ、そうね。本当に頼りになるわ」
陣痛の間隔も狭まり、いよいよ出産の時を迎えようとしていた。鈴子の手をしっかりと握りながら、陣痛に耐える声が響いていた分娩室に、それまでには無かった声が響いた。
オギャー、オギャー
赤ちゃんの声だ。それに続いて、助産師が桜子に声をかけた。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
桜子は鈴子の手を強く握った。鈴子もそれに応えるように握り返した。
「桜子、頑張ったね」
「ありがとう、鈴子」
その間も分娩室の前で連絡を聞いて駆けつけた紀隆が、扉を前にして只々オロオロとしていた。
桜子は生まれたばかりの赤ちゃんに向かって、笑顔で話しかけていた。
「はじめまして、私の赤ちゃん。お父さんは廊下でオロオロしていただけなのよ。それに比べて鈴子おばちゃんは頼りになったわ」
その時、入室を許された紀隆が部屋に入ってきた。
「おいおい、頼むからそんな事を言わないでくれよ」
「ふふふ、お父さんもお仕事を抜け出してあなたに会いに来てくれたから許してあげましょうね」
そんな幸せそうな兄と桜子を見ているうちに、海外赴任中の清一郎は出産に立ち会えない事が鈴子を不安にしていた。
「鈴子、何を淋しそうな顔しているのよ。わかったでしょう。旦那様なんか出産の手助けにはならないって。鈴子の出産の時には私が立ち会うからね」
笑いかける桜子に鈴子は精一杯の笑顔を返した。
「よろしくね、先輩お母さん」
「任せておきなさい」
約一ヶ月の後、今度は鈴子が桜子とウメに付き添われて産科医院の病室にいた。
「桜子、ごめんね。まだ身体も本調子じゃ無いのに」
「何を言っているのよ。鈴子の出産には私が立ち会うって約束したじゃ無い。赤ちゃんは九条のお母さんが見てくれているから、鈴子は心配しなくて良いのよ。元気な赤ちゃんを産むことだけ考えていなさい」
「ありがとう。ああぁぁぁ、痛たたた」
それから間もなく、鈴子は元気な女の子を産んだ。清一郎は海外赴任中だったが、ウメが電話をかけてくれた。
「鈴子、大丈夫か? よく頑張ったな」
「私も赤ちゃんも大丈夫よ。清一郎さんに似た可愛い赤ちゃんよ」
「うーん、今すぐにでも飛んで帰りたいけど……、悔しいなぁ」
「うふふ、清一郎さんはお仕事を頑張って下さい。赤ちゃんとふたりで待っていますから」
「ああ、帰国できる日が待ち遠しいよ。それじゃ、また連絡するよ。鈴子、愛しているよ」
「うん、私も……」
鈴子はそこまで言って、電話を切った。周りに桜子やウメばかりか、清一郎の母までいた為、『愛している』などとは言えなかったようだ。




