19.海外赴任
以前から家事にも協力的だったが、身重の鈴子を案じて尚更家事に励む清一郎だった。
「妊娠中でも無理しない程度に動かないとダメなのよ。だから、清一郎さんは座っていて」
そんな事を言われても、清一郎は鈴子とお腹の赤ちゃんが心配で仕方が無い。
「うん、分かった。けれど、掃除だけは僕がやるから、鈴子はそこに座っていなさい」
そう言って部屋の掃除を済ませると、風呂掃除に取りかかり、それが終わってからお茶の用意をして、はじめてリビングのソファーに座るという有様だ。このような状況を兄の紀隆や使用人のウメが見たらなんと言うだろうか。鈴子には大方の予想がつく。
紀隆ならば、『キミはなんて軟弱者なんだ! そんな事だからちまちまと密約を交わす外交官なんかになってしまうんだ! 男はもっと威厳を持って生きるものだろう』などと言うに決まっている。
ウメの場合ならば、『お嬢様! 旦那様をなんだと思っていらっしゃるのですか。旦那様にこんな事をさせて……。ああ、ウメの乳母としての育て方が間違っていました。亡くなられた奥様に合わせる顔がありません』そう言って嘆くに違いない。
鈴子はそんな事を考えながら、やっとソファーに座った清一郎を見詰めて微笑んだ。
「まったく、本当に清一郎さんは優しいんだからぁ」
「そんな事は無いよ」
やがて春が近付いてきた頃、清一郎に仕事上での大きな転機が訪れた。
清一郎に書記官としての大使館勤務を命じる辞令が出されたのだ。もちろん事前の打診はあったが、外務省勤務の清一郎にとっては大きなチャンスでもある。鈴子の出産を控えているとは言え、断れるようなことでは無かった。
「実は今日、海外勤務の打診を受けたんだ。赤ちゃんを産もうとしている鈴子をひとり残して海外に行くなんて……」
「何を言っているんですか。出産なんて誰だってやっていることですよ。私にだってそのくらいのことは出来ますよ。清一郎さんは心配しないでお仕事を頑張ってきてください」
「そうかぁ……」
「そんなに心配なら、清一郎さんが帰ってくるまで、百地の家に行っていましょうか? あそこなら桜子もいるし、ウメさんだっていろいろ教えてくれるでしょう」
「そうだな、そうしてくれると僕も安心だ」
そんな訳で鈴子は清一郎の赴任中、百地家に里帰りする事になった。
春になり、清一郎が赴任先に出発すると、鈴子は百地家に戻った。百地家では、臨月を迎えようとしている桜子が待っていた。
「鈴子、お帰りなさい」
「お帰りなさいは違う気がするなぁ。出戻った訳じゃ無いんですからね」
「そっか、じゃあ、いらっしゃい。待っていたのよ。一緒に元気な赤ちゃんを産みましょう」
「はい、しばらくお世話になります、義姉様」
「こら! 義姉様って呼ばない約束でしょ」
「えへへ」
ふたりは嬉しそうに笑い合った。
「ウメさんは?」
「今日は鈴子が来るって言うので、朝からウキウキしていたんだけれど、鈴子の好きなお菓子を切らしていたとかで、慌てて買いに行っているわ。明日でも良いでしょうって言ったんだけれどもね。『明日じゃダメです!』って言って聞かないの」
「フフ、ウメさんらしいわね。ところで、ウメさんとは上手くいっているの?」
「それがさぁ、私が妊娠したって知った途端、急に優しくなったのよね。小言も全然言わなくなったし、『そんな事はウメがやりますから、若奥様は座っていて下さい』なんて言って。それまでは『そんな事も出来ないんですか。それでは百地家の嫁として恥ずかしいです』なんて言っていたのにね」
「ウメさんも楽しみにしているんだね。お兄様の子供だから、ウメさんにとっては孫みたいなものだから」
「そこがちょっと不安なんだけれどね」
「うん、大変だろうね」
「何かあったら、ゼッタイに助けてよね」
「任せておいて、私だって結構頼りになるんだからね」
「よろしくお願いします。義妹様」
なんとも楽しそうなふたりだった。
そうこうするうちに、ウメが帰ってきた。
「あらあら、お嬢様がお帰りになる前に帰ってこようと思っていたのですが、お迎えも出来ずに申し訳ありません」
深々と頭を下げるウメを見て、鈴子と桜子は顔を見合わせて微笑んだ。
「ウメさん、気にしないで。しばらくの間お世話になります。よろしくね」
「よろしくだなんて、精一杯お世話させていただきますので、こちらこそよろしくお願いします。ああ、そうだ、鈴子お嬢様がお好きだった金平糖と羊羹を買って参りました。そろそろ午後のお茶の時間ですから、すぐに用意しますね。ゆっくりとしていて下さい」
そう言ってウメは台所へと消えていった。
「ウメさん、何だか様子が変わったわね」
「でしょ。急に変わったから、こっちまで調子が狂っちゃうわよ」
ふたりが談笑をしていると、ウメがお茶と羊羹を持ってやってきた。それをテーブルに置くと、ウメは椅子では無く床に正座して話に加わった。
「しばらく見ない間に、鈴子お嬢様のお腹も大分大きくなってきましたねぇ」
「そうでしょう、最近は足下が見えなくなってきたから、不便で仕方が無いわ。そう言えば、桜子は来月出産予定よね」
「そうそう、後ひと月くらいかな?」
「はあ、お二人とも足下には十分注意して下さいね。ウメは子供を産んだことが無いので、分からないこともたくさんありますから、気になったことや不便なことがあったら、何でも言って下さいね。お二人に何かあったら、ウメは……、うっ、うっ」
「ウメさん、泣かないでよぉ。私も鈴子もウメさんを頼りにしているんだから」
「そうそう、私たちだってまだ赤ちゃんを産んだわけじゃ無いのですから、人生経験豊富なウメさんの助けが必要なのよ。だから、よろしくお願いしますよ」
「あらまあ、なんて優しいお言葉を……。分かりました。ウメは精一杯、お二人のお世話をさせていただきます」
そう言いながら割烹着の袖で目頭を押さえるウメを見て、鈴子は父紀道がウメを後妻にと考えた理由が少しだけ分かったような気がした。
母が床に伏せっている時に、父とあのような仲になったウメを許したわけではない。それでも鈴子のことを気にかけていてくれていたウメだったのに、それを疎んじるような態度をとってきた。そんな罪悪感のようなものを感じていた。




