14.ウメ
鈴子はウメに懐かなかった理由が解らないと言って笑って見せたが、記憶の奥底には誰にも言えずに仕舞い込んでいる情景が有った。それは鈴子がまだ幼い頃のことだった。
身体の弱かった母はしだいに床に伏せる事が多くなっていた。鈴子は床に伏せっている母の手を握り、母の話を聞くのが大好きだった。母はやさしい目で鈴子を見詰めながら、いろいろな話をしてくれた。
父の海外赴任に同行した時の話は特に好きだった。外国の話と言っても難しい話では無く、使用人たちの話がほとんどだった。
「使用人のアーシャはね。お食事の時に手掴みで食べるのよ。わざわざ銀製のフォークやスプーンをあげたのに、『この方が美味しいんです』って言って、手掴みで食べながら楽しそうに笑うのよ」
「アーシャの息子のサンジープはね、けがをしないように靴をあげたのに、『そんなのを履いていたら木に登れない』って言って履いてくれないのよ。でもね、裸足のままで上手に木を登って、美味しい木の実をとって来てくれるのよ」
「ライラはね、とっても可愛らしい娘なのだけれど、いつも黒い服しか着ないのよね。だから、可愛い花柄のワンピースを買ってあげたの。だけれど、次の日もそのまた次の日も黒い服しか着ていなかったのよね。せっかく可愛い服を買ってあげたのに……。だから『この前の服はどうしたの? 気に入らなかったかしら?』って聞いてみたのよ。そうしたらね、『今も着ています。私の一番のお気に入りです』って言いながら黒い服の裾をめくり上げたのよ。ライラは黒い服の下に花柄のワンピースを着ていたのよ。
どれも他愛のない話だったが、話をする時の母の笑顔を鈴子は忘れていない。話しが好きだったというより、母の笑顔を見られることが嬉しかったのかも知れない。
いつものように母の話を聞く為に母の寝室を訪れた時だった。その日の母は苦しそうに咳き込んでいた。鈴子が母の手を握ると、母は父呼んで来て欲しいと鈴子に言った。鈴子は慌てて父を呼びに行った。
父の部屋のドアは、家の中でも一番大きくて立派な木製のドアだった。父の部屋に入る時にはノックをするように言われていた鈴子は、小さな手でドアをノックした。けれど、鈴子の幼い手から発せられるノックの音は、室内の父まで届かなかったのだろう。中からは何の返答も無い。その代りに、立派な木製ドアは音も無く動き、ドア枠との間に少しだけ隙間を作った。隙間に顔を近付け声を掛けようとした鈴子の目に、父とウメの姿が映ったのだ。
ウメは使用人で父の身の回りの世話もしていたから、父の部屋にウメがいる事は特段変わったことでは無い。しかし、鈴子の目に映った光景は、爪先立ったウメを父が両手で支えていたばかりか、ふたりの唇がふれあっているではないか。
まだ幼い鈴子には二人のしている事の意味は解らなかったが、見てはいけない所を見てしまったという事だけは理解出来た。そして、この事は誰にも話してはいけないという事も感じとっていた。
今では百地家の家事一切を仕切っていて、紀隆や鈴子はもとより、家長の紀道でさえ一目置かざるを得ない存在のウメだが、奉公し始めた頃からそうだったわけではない。
ウメは小さな商家の娘で兄がひとりいた。母は幼い頃に他界していたので、元来働き者であったウメが母の代わりに家事全般はもとより、商売の一端も担うようになった。
やがて兄が結婚し兄嫁が家に入ると、ウメがしてきた事は兄嫁の仕事となる。母の代役として、今まで頑張って来たウメにとっては耐え難い事だった。そんな不満を持ったままのウメが、兄嫁と折り合いを付けることが出来る筈も無く、次第に家内の空気もギクシャクして来た。
それを見かねた知人の計らいで、ウメは百地家に奉公にあがる事に成ったのだ。
当時のウメは二十二歳で、色白の華奢な身体つきをしていた。美人という訳では無かったが、商家仕込みの愛嬌のある笑顔は出入りの男たちの羨望の的となった。
やがて鈴子が生まれると、元々病弱だった千代は床に伏せることが多くなった。当然紀道の身の回りの世話をする者が必要になり、ウメは紀隆と鈴子の世話だけでなく、紀道の身の回りの世話も受け持つようになったのだ。
紀道とウメが情を通わせるようになったのは、この頃からだったのかもしれない。今にして思えば、病に伏せっている母の目を盗み、情を通わすなど許せない事だ。しかし、幼い鈴子にはその様な事が解る筈は無かった。
まして、隆道とウメのその様な関係を思わせる事柄は、幼き日に鈴子が目撃したあの日が唯一だった。母が他界してからも、その様な事を匂わせる事象は何ひとつなく、隆道とウメの関係は主人と使用人以外の何ものでも無かったのだ。
鈴子自身も、『あの日目にした光景は見間違いだったのではないのか?』と思う事さえあった。
働き者の上に愛嬌のあるウメに、縁談が寄せられるのは当然のことだった。しかし、いくら好条件の縁談が来てもウメは全てを断り続けたのだ。
紀道としても、ウメのことをこのままにするつもりは無かったようで、鈴子の母が他界して数年後、ウメを後妻に迎えようとしたらしい。しかし、紀道がいくら説き伏せようとしてもウメは首をタテに振らなかった。
「ウメは奥様を裏切り続けていた身です。そんな私が後妻に収まるなどもってのほかです。ただでも地獄に落ちる行いをしてきたのですから、これ以上罪を重ねさせるような事をさせないで下さいまし」
「それを言ったら俺も同罪だ」
「そんな事はありません。旦那様は殿方ですから許されるのです。旦那様は奥様と一緒に極楽で幸せにお暮らし下さい」
「しかしそれでは……」
「旦那様! ウメはこのままが良いのです。それが駄目とおっしゃるのならば、ウメはお暇をいただくしかありません」
紀道はウメの決心の固さに、それ以降この話はしなくなった。
そして、四十代半ばも過ぎた今でも百地家の家事全般を取り仕切っている。もちろん、紀道の身の回りの世話も続けているのだ。
鈴子にとって、ウメは母親のように頼りになる存在であるが、その反面、最愛の母を裏切った存在として、父紀道と共に憎悪の対象でもあるのだ。
鈴子が幼い頃からウメに懐かなかった理由はそこにあったのだ。しかし、鈴子はその事をじっと胸に仕舞い込み、他言したことは一度もなかった。もちろんウメにもだが、ウメは鈴子が自分と紀道との関係に気付いているのではないかと薄々感づいているようだった。
鈴子とウメの関係は互いに語れない秘密を胸に、これまでもこれからも、微妙な距離を保ったまま続くのであった。




