12.兄の結婚
鈴子は目の前の兄と桜子を不思議そうに見ていた。
「鈴子、お前に話しておきたい事があるんだ。実は桜子と付き合っているんだ」
鈴子には兄の言葉が理解できなかった。いや、言葉自体は理解できるのだけれど、状況が理解出来ないと言うか理解したくないと言うか……。そんな鈴子の様子を窺うように桜子が話し始めた。
「鈴子、ごめんね。私、紀隆さん……お兄さんの事が好きになっちゃったの。鈴子が紀隆さんの事を大好きなのはわかっているのよ。紀隆さんはこれからも鈴子のお兄さんである事には変わりないし、紀隆さんが鈴子の事を今まで通り大切に思っている事も変わらないのよ」
鈴子はテーブルに置かれたティーカップを見つめていた。頭の中を整理しようとしていたのだが、脳内は空回りするばかりで考えがまとまらない。しまいにブツブツと何かをつぶやき始める始末だ。
紀隆と桜子が心配する様に鈴子を見つめていた時だった。鈴子が突然顔を上げ、紀隆と桜子の顔を交互に見ながら頬を赤らめた。
鈴子の中で、清一郎と一緒に紀隆と桜子の後を尾行した日の事と、いま目の前で起きている事象がやっと繋がったのである。
「そ、そう言うことだったのね。それであの時接吻を……」
そう言ってまた、ティーカップとのにらめっこに戻ってしまった。
「なに? 接吻って?」
桜子も頬を赤く染めながら言う。鈴子はそんな桜子の顔に視線を移して、あの日見た成り行きを説明した。
「あの……。帝大で清一郎さんと会った日の帰り道で、お兄様と桜子を見かけたの。いけない事だとは思ったんだけれど……。つい、後をつけてしまったの。そうしたら……、弁天島の手水舎のところで……、あの……、せっ……ぷんを……」
「あらやだ、鈴子に見られていたのね」
桜子はそう言いながら紀隆を睨む。あなたがあんなところであんなことをするからよ! とでも言いたかったのだろう。
「鈴子に見られていたとは失態だったな。まあ、なんだな。まだ父にも言っていない事なんだけれど、桜子と結婚しようと思っているんだ。桜子は鈴子の親友だからな。鈴子には真っ先に話さなくてはならないと思ってな。そんな訳なんだが、鈴子は賛成してくれるよな」
いつの間にか鈴子は笑顔に戻っていた。
「もちろんです。桜子が家族の一員になるんですもの、反対する筈が無いじゃないですか」
紀隆が満足そうに頷く隣で、涙目になった桜子が鈴子の手を握り、「ありがとう、ありがとう」と何度も何度も繰り返している。
鈴子も桜子の手を握り返しながら「こちらこそよろしくね」などと言いながら頬を涙で濡らしていた。
そんな報告があってから半年後、百地紀隆と九条桜子の結婚式が執り行なわれた。
花嫁の控室を訪れた鈴子は、白無垢姿の桜子の前で呆然と立ちすくんでいた。
「鈴子、鈴子ってば! どうしたのよ」
「あのぉ、桜子だよね」
「決まっているでしょう? 何を言っているのよ!」
「だって……、桜子……きれい」
「何を涙目で言っているのよ。でも、ありがとう」
「桜子の晴れの日だものね。薫子にも見て欲しかったなぁ」
「そうね、薫子も元気に暮らしているみたいよ。今では烏丸夫人になっているらしいわ」
「そうなんだ。薫子にも会いたいなぁ」
「いつの日か……、きっと会えるわよ。その前に鈴子も奥平夫人にならなくっちゃね」
「えっ、私は……」
頬を赤らめて恥じらう鈴子を桜子が愛おしそうに見つめていると、突然顔を上げた鈴子が反撃に出た。
「桜子は今日から義姉さんになるのね。これからは義姉さんって呼ばなくちゃ」
「やめてよね。今まで通り桜子って呼んでよね!」
「そうは行かないでしょう?」
「行っても行かなくっても桜子って呼びなさい。義姉さんからの最初の命令なんだからね」
ふたりは楽しそうに笑い合った。
元子爵の百地家と、元公家で公爵であった九条家の婚礼は盛大に執り行われた。
鈴子や桜子にとっては全く知らない人の方が多かったが、結婚式とはそういうものなのだろう。
誰だかわからない人の退屈なスピーチを聞きながらでは、折角の豪華な食事がもったいないよ。などと思いながらではあったが、全ての料理を余すことなく平らげる鈴子であった。
披露宴会場から自宅に戻ると、紀隆と桜子は鈴子を部屋に招いた。
「桜子、今日から一緒の家に住むんだね」
鈴子は嬉しそうに言った。
「そうね、お世話になります」
「いえいえ、こちらこそお世話になります。義姉さま」
「こら! 義姉さまなんて呼んだら承知しませんからね!」
笑い合う鈴子と桜子を眺めながら、紀隆は己の幸せをかみしめていた。
その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はーい」
桜子が応えるとドアを開いて、トレイにサンドウィッチや焼き菓子と紅茶を乗せて使用人のウメが入ってきた。
「若奥様、本日はお疲れさまでした。軽食をご用意いたしました」
「ありがとう、披露宴ではほとんど食べられなかったから、お腹ぺこぺこ」
桜子は目を輝かせてサンドウィッチに手を伸ばした。
「鈴子も食べたら」
「私は披露宴でさんざん食べたから……。これ以上食べたら太っちゃうわ」
「そっか、美味しそうな料理がいっぱい並んでいたものね。でも、帯は苦しいし、どのタイミングで食べて良いのかさっぱりわからないんだもの。紀隆さんは結構食べていたわよね」
「ははは、気にせず食べたよ」
「まったく! ひとりだけ食べてずるいんだから!」
拗ねて見せる桜子を愛おしそうに見つめる紀隆を、鈴子はあきれ顔で見つめていた。
そんな様子を尻目に、声をかける事も無くウメは紀隆たちの部屋を出て行った。
「今日は疲れたので、私はもう寝ます。また明日ね」
そう言って自室に戻ろうとする鈴子の耳元で、紀隆が囁くように言った。
「鈴子、桜子のこと、よろしくな」
「わかっていますよ。私はいつだってお兄様と桜子の味方ですから」




