10.新天地
迎えに来た渋沢と共に、武雄と薫子が向かった深夜の港には巨大な貨物船が横たわっていた。
港は闇に包まれていたが、巨大な貨物船の周囲だけは、投光機によって昼間の様に明るく照らし出されていた。
光に照らし出された鉄の塊の様な船の甲板には、色とりどりのコンテナが山の様に積み込まれている。薫子には、これが海に浮かんでいるなど信じられない光景だった。
「この船で行くのですか?」
「そうです、大きいでしょう。この船は国内の幾つかの港に寄港した後、公海に出ます。船長には話してありますので、目的の港で降ろしてもらえますから安心して下さい。船室も一番良い部屋を用意してもらいました。豪華客船とは行きませんが、ハネムーンにはうってつけだと思いますよ」
ハネムーンという言葉に頬を赤らめた薫子が武雄の陰に隠れる。渋沢は娘の嫁入りを祝う父親の様な、複雑な笑みで武雄と薫子を見つめた。
「お元気で」
「ありがとうございます」
渋沢と握手を交わして、武雄と薫子は貨物船の中へと消えていった。
港を離れゆく貨物船を見送っている渋沢の後ろに、いつの間にか立っている男がいた。
「無事に出航したようですね。ご苦労さまでした」
「いえいえ、私はたいした事をしていませんから。貴方の力添えが無ければこんなに上手くは行きませんでしたよ」
渋沢は後ろに立った男が、ずっと前からそこに立っていたかのような自然な対応をしている。
「桜子や鈴子の悲しむ顔を見たくは有りませんからね。薫子さんが烏丸君に付いて行く事になるとは思ってもいませんでしたから……」
「でも、大丈夫なのですか? 次期百地家当主の紀隆さんが反逆者の逃亡を手助けなどして……」
「大丈夫ですよ。これで百地家弾劾運動を阻止した訳ですからね。烏丸君たちの向こうでの支援もお願いします」
「はい、支援者が百地紀隆だと知ったら烏丸君、驚くでしょうね」
「それは絶対に知られないようにして下さいよ」
「わかっております。渋沢家も代々百地家にお世話になっていますからね」
ニヤリと笑う渋沢に笑顔で応え、百地紀隆は黒塗りの高級車に乗り込み港を後にした。
武雄と薫子は豪華な船室に案内された。そこには高級な調度品が置かれ、ふかふかなベッドも用意されている。まるで高級ホテルの一室の様だった。横浜で数日間を過ごした連れ込みとは天と地ほどの差だ。武雄も薫子も、貨物船の中にこの様な豪華な客室があるとは思ってもいなかった。
出航して三日後、最後の国内寄港地を後にした武雄と薫子は、船長によって操舵室へと招かれた。
「国内最後の寄港地を出ました。これから公海へと向かいます。母国の姿を見られるのはこれが最後になります」
武雄と薫子は遠くなって行く陸地を眺めながら、もう帰る事の許されない母国に別れを告げた。
「さようなら、私の国。さようなら、私の家族。さようなら……、鈴子……桜子……、幸せになってね。私も幸せになるから……」
薫子の頬を一滴の涙が伝い落ちた。武雄は黙ったまま、薫子の肩をやさしく抱いていた。
公海に出た貨物船は大海原を疾走していた。
薫子は、見渡す限り青い海と青い空、そこに浮かぶ白い雲の美しさに感動していた。しかし、美しいと思った風景も数日で見飽きてしまい、すでに船室から出る意欲さえ失っていた。
そんな海と空ばかりの風景の中を一週間ほど疾走した頃だった。武雄と薫子の船室にノックの音が響き、船長が現れた。
「長旅お疲れ様です。明日の朝、この船は次の目的地に寄港します。そして、そこがあなた達ふたりの新天地となります」
武雄と薫子は見つめ合い、言葉にならない喜びを分かち合った。
「船長、ありがとうございました」
武雄は船長に握手を求め、船長もそれに応じた。
「我々に出来る事は、あなた達を港に届けるまでです。後の事は手配してある筈ですので、このメモの人物に会って下さい」
船長はそう言って武雄にメモと地図を手渡して船室を後にした。
「薫子、やっと到着だ。よく頑張ったな」
「いいえ、私は海と空を眺めながらボーっとしていただけです。頑張らなくてはいけないのはこれからですわ。武雄さんも安堵している場合じゃ有りませんよ」
薫子の瞳には決意が漲っていた。
「その通りだね。さすが俺の選んだ生涯のパートナーだ」
「あら? そんなパートナーを置いて行こうとしたのはどなたでしたっけ? 選んだのは私の方ですよ」
武雄はニッコリと笑う薫子を抱きしめた。
「危うく一番大切なものを失うところだった」
「生涯大切にして下さいね」
「もちろんだよ」
ふたりは船室の豪華でふかふかなベッドに倒れ込んでいった。
夜が明けるころ、貨物船は港の中をゆっくりと走っていた。港の周りには大きな建物がひしめき合うように建ち並んでいる。
「南の島って言っていたから、きれいな海と白い砂浜しか無い所を想像していたけれど、大きい街ですね」
「まあ、これだけ大きな貨物船が寄港する港だからね。それなりに大きな港町があって当然だけれどもね」
「それもそうね」
程なくして港に接岸すると、港と貨物船はタラップで結ばれた。
「船長、お世話になりました」
「おふたりにとって、この地がすばらしい地になることを祈っています」
船長の言葉に送られて、武雄と薫子は新しい大地に降り立った。
「ここが武雄さんとの新居になるのね」
「そうだな。苦労をかけると思うけれど、よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
武雄と薫子は新しき大地に第一歩を踏み出したのだった。




