01.鼻緒の君
路面電車が走り煉瓦造りの建物が並ぶ街並みを、二人の女学生が颯爽と歩いている。今時流行りの袴に小振り袖の着物、足元にはブーツと言う出立ちだ。
「二人とも、待ってよぉ。もう少しゆっくり歩いてよぉ」
二人の後ろをちょこちょことついて行く振り袖に草履姿の女性が声をかけた。袴にブーツを纏い大股で闊歩する二人について行くには、いささか無理な格好だ。
「鈴子も袴にしたらよかったのに」
「無理ですよぉ。袴なんか着たら、お父様は赤鬼の形相で怒るでしょうし、お婆様は卒倒してしまいますわ」
「鈴子はお嬢さまですからねぇ」
「御公家様の末裔で元公爵家令嬢の桜子に言われたくはありませんわ」
桜子と呼ばれた女学生は九条桜子、十六歳の女学生。元々公家の出で公爵の爵位を戴いた九条家の息女だ。しかし、爵位撤廃が施行されてからは、元公家の元公爵家ということになる。
爵位撤廃以来、元公爵家といえども以前のような暮らしを維持している家はほとんどなくなっている。しかし桜子の父、九条秀高の商才で九条家は以前の財力を上回るほどに持ち直していた。
世間には「商家に身を落とした公家」と言うあまり良くない評判も聞かれるが、それも成功者へのやっかみと言うものだろう。
「ははは、確かに家柄は桜子が一番のお嬢様だからね」
「何をおっしゃる、薫子だって武家とはいえ元御大名の家柄じゃないですか」
そう言われた立花薫子も十六歳の女学生だ。家は大名家の出で、後に伯爵の爵位を戴く名家のお嬢様だ。
「桜子も薫子も立派な御家柄のお嬢様だからいいですよ。私の家など、先の世界大戦で功績をあげた曾祖父様のおかげで子爵の称号をいただいた成り上がり華族ですからね。馬鹿にされたくない一心で厳しいのです」
そう言う百地鈴子も十六歳、三人とも女学校の同級生だ。鈴子の家は元々平民の出で、軍人であった曾祖父の百地徹道が先の世界大戦で功績をあげ、子爵の爵位を戴いていた。
「鈴子も大変だね。既に爵位は撤廃されて全国民が平等になったはずなのにね。未だに大人達の中には、爵位がどうのとか、家柄がどうだとか……。古臭くて嫌になるよ」
歩く速度を落とした袴姿の二人に追いついた鈴子が、並んで歩き始めた時だった。
「キャッ」
小さな悲鳴と共に鈴子がいきなり転んだ。
まるで野球選手のように、見事なヘッドスライディングを決めてしまった鈴子を、桜子と薫子が助け起こした。しかし、困った事に鈴子の草履の鼻緒が切れてしまっている。これでは歩く事も出来ない。
「あらあら、困ったわねぇ」
「どういたしましょう?」
三人が途方に暮れていると、前方から歩いて来た学生らしき一人の男が近寄って来た。
「どうかしましたか?」
「ええ、この子の鼻緒が切れまして……」
「それは御困りですね」
学生はそう言うと鈴子の足元にしゃがみ込み、草履の応急処置を始めた。ポケットから出した手拭いを裂いて、そこに五円玉を通す。そして鼻緒の前ツボの穴にそれを通し、キリリとねじって鼻緒に結び付ける。なんと言う手際のよさだ。
「はい、出来ましたよ。応急処置ですが、これで暫くは歩けるでしょう。この先に草履屋がありますから、そこで直してもらうと良いでしょう」
学生は鈴子の顔を笑顔で見上げて立ち上がった。
鈴子が学生の手際の良さと、爽やかな笑顔に心を奪われているうちに、学生は鈴子たちに背を向けて歩き出していた。
「あっ、ありがとうございます。あのう……、お名前は?」
慌てて訊ねた鈴子の声に、学生は振り返って真っ白な歯を見せ微笑んだ。
「名乗る程の事はしていませんよ。お気を付けて……」
そう言って再度背を向け、何事も無かったかのように去って行ってしまった。
鈴子の見つめる先には、すでに学生の背中さえも見えなくなっていたが、鈴子の目にはその姿が見えているかの様だった。薫子が鈴子の目の前で、手のひらをひらりひらりと動かしているにもかかわらず、鈴子の視線は遠いところを彷徨っていた。
「鈴子、鈴子ってば! 何をボーっとしているのよ!」
鈴子は薫子にそう言われて我に返った。
「ボ、ボーっとなんかしていません!」
「いやいや、目がハートになっていますわよ」
桜子までが鈴子をからかい始める。
「ハートの目ってなんですか! そんな目には成っていません!」
鈴子は頬を赤らめながら抗議をしたが、その抗議は鈴子の想いを桜子と薫子に伝えている様なものだった。
「いやいや、充分なっていますけれど、とりあえず草履屋さんに行きましょう」
桜子の冷静な言葉に鈴子が頷き、三人は草履屋へと向かった。
鈴子、桜子、薫子の三人は喫茶店の席に座っていた。三人の前にはティーカップとケーキが置かれている。
鈴子は草履屋で鼻緒を直してもらうのをやめ、新しい草履を買っていた。そして、学生によって応急修理された草履を大切そうに膝の上に置いている。
「その草履、記念に取っておくの?」
薫子に言われた鈴子は、少し頬を赤らめながら下を向く。
「そ、そんな……、記念だなんて……」
薫子は視線を鈴子から桜子へ移し、ニヤリと笑いながら言う。
「でも、あの学生さん、ちょっとカッコよかったよね。帝大生かなぁ?」
桜子も鈴子をチラリと見てから薫子に向かって言う。
「たぶんそうだと思いますけれど、せめて名前だけでも聞けたら良かったのですが……」
「そうそう、鈴子の初恋になりそうだからね」
鈴子が真っ赤になりながら反論する。
「初恋だなんて……、そんなじゃないですよぉ」
何とも力の無い反論だ。まるでその通りですと言っている様なものだった。
桜子と薫子は、そんな鈴子を無視する様に会話を進める。
「どこの誰だか調べられないかしら」と、桜子。
「うーん、難しいね。顔しか解らないんじゃねぇ」と、薫子。
二人の会話に慌てて鈴子が抗う。
「そ、そんなぁ。調べなくても良いですよぉ」
ふたりの優しい笑顔が鈴子を見つめた。
「安心して。私たちが何とかするから。ね、薫子」
桜子が薫子に同意を求めると、薫子は『当然!』と言わんばかりの笑みを見せる。
「うん、帝大には知り合いが居るから、その人に聞いてみるよ」
未だに頬をほんのり桜色に染めたままの鈴子が、おずおずと言う。
「だって、名前も知らないのに……」
そんな鈴子をやさしい微笑みで包むように、桜子が見つめる。
「名前なんか知らなくたって、運命の人でしたら必ずどこかで繋がっているはずですわ。私たちに任せて」
薫子と桜子は学生を「鼻緒の君」と称して、その捜索を行う事を誓った。