火炎舞踊
かつて、日が沈んでも真昼のような明かりと、喧騒にまみれていたであろうパチンコ屋も、無人となって久しくもあれば、その面影すら虚ろと消えてしまうものか。
白い塵が薄く積もるばかりの床に、真新しい足跡を残して歩いて行くのは彩篠宮高校の制服を着た大柄な青年。
真ん中で分けた赤み掛かった黒髪を揺らしながら、彼……カブトはゆっくりと店の奥へと向かって行く。
かつてスタッフルームがあった空間であろう扉のノブへと手を掛けると、それはあっさりと彼を迎え入れた。
「……ハズレか?」
建物の内部は、人が立ち入った様子がまるで感じられない。
ふと振り返れば、自分の足跡だけが床に残っている。
カブトの目的はキイロアゲハとの接触だ。
ムラサキが目を覚ましたとはいえ、彼はもう、とても妖と……まして、神の力を持つ相手と戦えるような状態ではないのだろう。
先程、能力の一部を見せてくれた時も、彼の放った蝶は酷く弱々しかった。
「大きなお世話なのは間違いないだろうけどな」
考えていただけの言葉のはずが、つい口からこぼれていた。
本人が戦えないならば、代わりができる者がやるしかない。
しかし数日前から翔人には連絡がつかず、神出鬼没なハナカマキリの協力は元より期待していない。
そうなれば、カブトが一人でやる他ないのだ。
ムラサキが倒れてから今日に至るまで。
彩篠宮の中心から範囲を広めながら一日中、黒いコートと金髪の女の目撃情報を集め続けた。
「ここじゃねぇならもうお手上げだが……」
夢路華火の姿を追おうとも思ったものの、その姿をまともに知るのがムラサキだけであり、あの資料にあった写真も今の彼女と同じか分からない以上、混乱するだけだと判断して諦める事にした。
もしも、キイロアゲハの姿で足取りを追えなかったならば話も違っただろうが、幸いこうして検討がつく程には目撃者があった。
「あらぁ? あららぁ?」
「ーーっ!?」
スタッフルームの中を見渡してた時だ。
突如、背後から聞こえた声に勢いよく振り返る。
そこには、自分が歩いてきた足跡だけが残る、がらんどうのホールが広がるばかり。
声の主の姿は見当たらない。
「学生なのにこんな所に入っちゃう悪い子はぁ……お姉さんが食べちゃうわよぉ?」
耳元で聞こえた囁く声。
全身の毛が逆立つような錯覚と、鳥肌だけが体に残る。
再び勢いよく振り返れば、その女は部屋の奥にあるパイプ椅子に、まるでずっとそこに居たかのように腰掛け、ヒラヒラと手を振っていた。
「はぁい?」
血の気が引くような感覚。
アゲハの右頬には、肩の辺りから伸びてきたと思われる青い線が欠陥のようにいくつも枝分かれして走り、不気味に脈打っていた。
どうやら、ムラサキから奪った力を完璧に取り込めていないらしく、その額には汗も滲んでいる。
「探し物をしてたみたいだけどぉ? 見つかったぁ?」
「ああ、たった今見付けたぜ」
床を強く蹴り、一気にアゲハとの距離を詰める。
自分が頭の良い方でない事は重々に理解しているつもりだ。
そんな自分がアゲハを相手に会話から接点を持とう物ならば、結論に至る前に煙に巻かれる事など容易に想像できる。
なればこその先手。
聞きたいことがあるならば、叩きのめして手足でも括った後にいくらでも聞ける。
カブトの妖としての能力は炎と力。
単純明快、とにかく攻撃力に尖った物だ。
それ故に、速度に関しては別段秀でている訳ではないのだが、自前の怪力を惜しみ無く使って地面を踏めば、それなりなんてものではないスピードには至る。
カブトは拳を思い切り振りかぶり、距離が縮まり迫るアゲハへ向けて正拳突きの要領で拳を突き出した。
「ご挨拶ねぇ」
「!?」
しかしそれはあっさりと止められた。
椅子に座ったままのアゲハに、片手で。
衝撃だけが突き抜けたのか、彼女の背後に真っ白な埃が舞い上がる。
その光景に一瞬だけ怯んだものの、すかさず回し蹴りを放つ。
だが、それも薄ら笑いを浮かべたままのアゲハに止められてしまった。
「チィ……ッ!」
「ほらほらぁ。頑張れぇ?」
風切り音を轟かせながらの殴打と蹴擊のラッシュは、しかしそのいずれもアゲハの細腕で凌がれてしまう。
触れた感覚はあるというのに、あまりに手応えが無さすぎる。
まるで水面に打撃を放っているかのようだ。
オオムラサキの力を抑え込むのにも必死だろうに、その上でここまで差が出るものなのか。
「!?」
「何でアタシが桜斑咲を騙したのか。何でアタシが桜斑咲に執着するのか……聞きたいのはその辺りかしらぁ?」
幾度、幾十度目かの打撃はやはり受け止められ、カブトはその手を掴まれた。
訊いてもないのに、のらりくらりと。
黄色の妖蝶は、カブトが……いや、きっとムラサキも知りたかった内容を言い当てた。
尤も、こんなタイミングでの襲撃者ともあれば、想像に難くないのだろうとも思うが。
アゲハは掴んだ腕を軽く捻る。
唐突な浮遊感に襲われ、カブトは背中から地面へ叩き付けられた。
肺から空気が吐き出され、苦悶の声が混じって漏れる。
「アイシテイル……かぁらぁ」
作り物めいた、あるいは仮面のような笑みの表情。
倒れたカブトの眼前にまで顔を寄せ、アゲハは恍惚とした声色で囁いた。
「でもねぇ……?」
笑顔のーーこれを笑顔と呼んで良いのかはひとまず置いておくとしてーーまま、アゲハはカブトの頭を掴み上げ、視線の高さを自分に合わせる。
黒い縁のメガネの奥、まるで光を吸い込んだまま照り返す事を忘れたような昏い瞳が見える。
「お前やキツネのせいでアタシは彼の側に居られなくなっちゃったぁ」
吐き捨てるように。
頭を掴まれたカブトは顔面を床に叩き付けられた。
幾度も。
幾度も。
額からは血が流れ、コンクリートが砕けて欠片が散る。
「どうしてくれるの? ねぇ? ねぇ!?」
「……が……可哀想だろ……」
「なぁに?」
床を砕く音に紛れ、上手く言葉になら無かったカブトの言に、アゲハが聞き返す。
「床が可哀想だろって言ったんだよ!」
頭を掴まれながら、錆びたブリキ人形のように振り返ったカブトの額には二又に分かれた炎の柱が立っていた。
いや、柱ではない。
あれは角だ。
カブトが伸ばした手はアゲハの胸座を掴み、そのまま自分の上方を回すーーまるで仕返しだとでも言うーーように、先程まで自分が叩き付けられて砕かれた地面へと向かって、力任せに放った。
「ーーアハ!」
「……ッチィ!」
不意を突いての攻撃だっただろうに、アゲハは難なく片手を地面に突き、空へ逃げて姿勢を正す。
狂気じみた笑顔と、一瞬だけ視線が交差した。
「乱暴ねぇ」
「よく言われる。お陰さまでモテた事ぁねぇよ」
汚れなんて大してついてもいないくせに、アゲハは自分の服を手で払う。
カブトもゆっくりと立ち上がり、片手の平を上方に向けた。
小さな火種が生まれ、それは見る間に大きくなって行く。
ビー玉のようなサイズだった炎は次第にテニスボールのように。そのままサッカーボール大にまで膨らむ。
火力のコントロールはまだ甘い。
そもそも、この女相手にコントロールなど必要無いのかもしれない。
だが、全力を出しての行動では数刻と持たず、力尽きて倒れよう物ならばそのまま殺されるのは目に見えている。
「……あらぁ? あららぁ? なになに? 君ってばまだ力のコントロールもできないの?」
「妖としては生後数週間でな。恥ずかしながら、言われた通りだ」
「かぁわいい……ふふ、ふふふ。カマキリだったらこの瞬間にも首を跳ねてたかしらねぇ」
「おっかねぇ話ーーだ!」
片手の炎はそのままに、もう片の手の手に握った拳を振り抜く。
対し、アゲハは片足を軸に身体を捻り、タイトスカートという格好も気にせず高く持ち上げた脚をそれにぶつける。
刹那の静寂。
後、衝撃は音と風となって辺りに伝播した。
積もった埃と、砕かれた床の破片を巻き上げて、二人を中心に辺りの壁に向かって吹き荒ぶ。
「へぇ……」
暴音に紛れ、骨の軋むような音が微かに届いた。
メガネの奥でアゲハの目が僅かに細められる。
「手応えあり……!」
手の平の炎を握り潰し、そちらの拳をアゲハへ突き出した。
第二の拳は炎を纏い、空気を切る音を轟かせて迫り行く。
先の一撃を脚で防いだのならば、続く殴打を捌くにはタイムラグが生じるか、あるいは姿勢が崩れるかのどちらかだろう。
カブトの拳は、その僅かな間隙を逃しはすまい。
「甘ぁい」
「ッ!?」
だが、それはあくまでも二本の足で地面に立つ相手ならの話だ。
その背に青い線が血管のように醜く蠢く黄色の羽を広げ、アゲハの身体は宙を舞う。
そして、錐揉み状に身体を捻り、カブトの放った二撃目をも蹴り弾いて軌道を逸らした。
ともすれば、姿勢を崩すのは必然、カブトの方だ。
疾く、強く、ただ一点を貫く為に放った拳は、彼の身体を引っ張り、床板を砕き割って地面へと突き刺さる。
後方、風を凪ぐような音が聞こえた。
無防備を晒したカブトを仕留めるべく、アゲハが行動を起こした音なのだろう。
回避はできない。
防御も間に合わない。
「おおおおおおおおおおおお!!」
咆哮。
何が起きているのかなど分からないが、それならば想像しうる全てを防げる一手を打てばいい。
ーー否。
そもそも、これは防御ではない。
力任せを人の形にしたかのようなカブトは、自分がいずれ無防備を晒すことなど用意に想像できていた。
自分はバカだと、カブトは自覚している。
だが、考えられるバカではあった。
故に、いずれ起きる事態を想像し、どうすればそれをチャンスに変えられるかを考えた。
アゲハが何かを察したのか、後方から迫る殺気が刹那に遠退いた。
地面に埋まった拳の内側。
煌々たる熾烈な爆炎を握り、支配する感覚で力を放つ。
地面の一点が赤熱し、それはまるで水面を伝播する波紋の如く広がり……そして。
「炎熱発破!!」
硝子状に融解した砂と床板を吹き上げながら、カブトを中心に深紅の柱が立ち上る。
爆心地のど真ん中にいるカブトも無傷とは言えないが、元より炎を操る妖である彼には大したダメージは無い。
陽炎に揺らめく景色の中、炎の妖虫はゆっくりと立ち上がり、その視線を黄色の蝶へと向ける。
「……これは、とんだ食前酒になりそうねぇ」
「空きっ腹に火酒は悪酔いするぜ?」
「君よりも強いのを飲み慣れてるから、だぁいじょうぶ」
「酔っ払いが……!」
舌打ち混じりに吐き捨てる。
再び手の平に炎を浮かび上がらせ、臨戦態勢を取る。
狡猾なアゲハに二度も同じ様な奇襲が通じるとは思っていない。
だが、それは同時にカブトにも絶対的な隙を生じさせる事は極めて困難である事を示している。
技量と速度ではアゲハに及ばないが、肉体強度と一撃の重さ、そしてカバーできる範囲ならばカブトに分がある。
同じ極至近距離での肉弾戦を主体とする二人だ。
状況は五分よりも悪いのは疑いようもないが、それでもなんとか戦いになる。
「ふふふ……黒曜蝶」
認識の甘さを自覚するのに数刻すら要らなかった。
羽に伸びる青い線が一瞬だけ強く輝くと、彼女のコートの内より溶け落ちるように無数の黒い蝶が放たれた。そしてその黒蝶は瞬時にカブトを取り囲む。
旋風の如く渦巻く黒蝶はその全てが鋭利な羽根を持っており、カブトの肌を見る間にズタズタに切り裂いてゆく。
「便利ねぇ先輩のこれ。とぉっても使い勝手がいいわぁ」
アゲハはムラサキの力を奪っている。
なるほど、この蝶は元々はあいつの物だった訳か。
胸中にどす黒くすらある憤怒が渦巻くのを感じるが、しかし未熟な妖であるカブトは黒曜蝶に襲われる中で上手く力を練れないでいた。
先の炎熱発破の際、その力を大きく使ってしまったが為に、スタミナ切れを考慮する必要が出てきてしまった状態だ。
「でもここからはぁ、アタシのオリジナル」
黄色と青の不気味な羽が真っ黒に染まる。
視界を埋める黒曜蝶に溶け込むかのようなアゲハの羽は、重く冷たい金属音を響かせて上下に展開する。
そして、中から無数の砲身が姿を現し、その全てがカブトへと向けられていた。
「モードカラスアゲハぁ……!」
「ははっ……! 冗談も休み休み言ってくれよ……!」
狂気を孕んだ笑顔と、血だらけになりながらの苦笑。
もはや出力の調整など考えている場合ではない。
裂かれれば致命傷になる首元の防御すらも解き、両手の平を胸の前で向かい合わせる。
諸刃の剣とはこの事だ。
己の防御も、この後の事も一旦考えるのはやめる。
どのみち、ここであれを防ぎ、黒曜蝶を振り払えねば、蜂の巣になるか細切れになるかして死ぬだけなのだから。
「フルバァストォ!!」
「てめぇも無事には帰さねぇよ!!」
カブトの胸の前。
手と手の間に人の頭よりも大きな火球が現れた。
迫るアゲハの号砲と弾丸が届くよりも速く、彼はそれを叩き潰す。
きっと、それはリミッターだったのだろう。
目に見える形に現出させた力の片鱗は今砕かれ、カブトの内よりただ暴威と化した紅炎が放たれる。
「圧壊烈火!!」
赤を通り越して白く輝く豪炎は爆発を伴い、寂れた廃墟を、かつてそこにあった過去の遺物へ。
その土地を巨大なクレーターと瓦礫の山へと変えたのだった。




